おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ラスト・ショー

2020-07-06 07:14:23 | 映画
「ラスト・ショー」


監督 ピーター・ボグダノヴィッチ
出演 ティモシー・ボトムズ
   ジェフ・ブリッジス
   シビル・シェパード
   ベン・ジョンソン
   クロリス・リーチマン
   エレン・バースティン

ストーリー
1951年、テキサスの小さな町アナリーンのたったひとつの映画館では「花嫁の父」を上映していた。
高校生のソニーと親友デュエーンにとって、ロイヤル映画館は唯一のデートの場所だった。
ソニーはガールフレンドのシャーリーンとつきあい始めて1年目を迎えたが、最後のところで逃げてしまう彼女に不満を持っていた。
デュエーンとジェイシーも恋人同士だったが、町一番の美人といわれるジェイシーにとってデュエーンはどこか物足りない相手だった。
ある日、フットボールのコーチに、彼の妻ルースを、病院まで送り迎えするように頼まれたソニーは、ルースの心の優しさに惹かれ、クリスマス・パーティーで初めて口づけを交わしてしまう。
ジェイシーもまたデュエーンと共にパーティーにでかけてきたが、友だちが素っ裸の水泳パーティーを楽しんでいると聞いて、デュアンを放り出しその方に行ってしまったその頃、ソニーもルースとベッドを共にしていた。
夫に無視され続けてきたルースは、少女のように恋に燃えていた。
一方、ソニーは父親以上に尊敬しているサムと、弟のように可愛がっているビリーと一緒に湖畔で釣りを楽しみながら、サムの昔話に耳を傾けていた。
サムはこの小さな町で映画館とビリヤード場とスナックを経営する中年男だった。
失われたアメリカの開拓時代の夢の名残りを思わせるこの男に、町中の男の子が憧れていた。
サムは、少年たちの夢のヒーロー、カウボーイだったのだから……。
サムはソニーに、彼が経験した悲しい恋の物語と、移り変わっていく自分たちの町の話を聞かせたのだった。
それから数日後、小型トラックでメキシコまででかけたソニーとデュエーンが町に帰ってきたとき、サムの死が知らされ、ソニーとデュエーンの友情に亀裂が生じたのは、それからしばらくしてだった。


寸評
最初は退屈な青春群像劇と思えたのに、徐々に彼等の青春が崩壊していく様子が虚脱感を覚えさせる。
普通なら青春映画のヒロインになるはずのジェイシー(シビル・シェパード)が非常に悪い女として描かれるから、虚脱感が沸き起こってくるのである。
テキサスの片田舎で人口は少ないから、街の者の行動は皆の周知のこととなってしまうような所だ。
ジェイシーはそんな街には似合わない女性だが、自分にうぬぼれているのか男をもてあそぶような所がある。
彼女は結局ダラスと言う都会に行ってしまうから、この町にはふさわしくない女性だったのだと思う。
若さもあって登場人物の中では美形に属するが、イヤミな女としてはピカイチの存在である。
この映画にはまともな人間があまり登場しない。
ソニー(ティモシー・ボトムズ)とデュエーン(ジェフ・ブリッジス)も彼女とのセックスだけを考えているような高校生であり、ソニーはガールフレンドから拒絶されただけでガールフレンド関係を解消してしまっている。
エピソードを積み重ねながら、若者は若者の興味と夢と社会との妥協のなかで生きていくしかないという雰囲気が徐々に出てくる演出は上手いと思うのだが、どうもその倦怠感が今の僕にはしっくりこない。

冒頭の映画館で上映されているのは「花嫁の父」で、ここでのエリザベス・テイラーは清廉な女性なのだが、この映画に登場する女性は真逆の人間と見える。
ラストの映画は「赤い河」で強くてたくましいジュン・ウェインが画面に登場するのだが、それは父親たちの素晴らしい時代のテキサスの象徴でもあり、ソニーやデュエーンの真逆の男でもあったのだと思う。

1972年という年は、まだまだアメリカン・ニューシネマがもてはやされていた頃だ。
どこかにあきらめムードのようなもの、どうしようもなく世の中の流れに流されてしまう若者を描いた作品が受け入れられていた時代だ。
殺伐としたモノクロの風景と共に、描かれた内容も当時の若者の心情をとらえたものであったのだろうが(実際僕もリアルタイムで見た時には同化できたし感動もした)、時代を経てみると何か釈然としないものを感じる。
社会に抵抗できなくて朽ち果てていく哀愁を受け入れることが出来ないのだ。
公開年にはキネマ旬報の第1位に押されたが、「ゴッド・ファーザー」や「時計じかけのオレンジ」の方が、今となっては輝きを放っているように感じる。

胸を打つのはルース(クロリス・リーチマン)という女性の存在で、彼女はバスケット・ボールのコーチをしている夫とは上手くいっていない。
そのはけ口を若いソニーに求め、二人のよくない関係が続くが、若いジェイシーに誘われたソニーはためらうことなく彼女を捨て去る。
老いに劣等感を感じていて、最後に精神的にうちのめされた彼が会いにきたとき、そのくやしさを爆発させるシーンは見ていて心が痛くなってくる。
「何度も何度も心のなかで謝ったわ。・・・なんで私が謝らなきゃいけないの!」という怒りの声はいつしか泣き声に変わり、彼女の手は静かに無表情なソニーの手の上に置かれているという切なさである。
いやあ、何度見ても淋しくなる映画だなあ・・・。