おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

共喰い

2021-07-24 07:59:40 | 映画
「共喰い」 2013年 日本


監督 青山真治
出演 菅田将暉 木下美咲 篠原友希子
   岸部一徳 光石研 田中裕子
   穴倉暁子 淵上泰史

ストーリー
昭和63年の夏。遠馬(菅田将暉)は、17歳の男子高校生だ。
父の円(光石研)と父の愛人の琴子(篠原友希子)と三人で、川辺の一軒家に暮らしている。
円との性交のたびに殴られたり首を絞められたりするせいで、琴子の顔には痣ができる。
その現場を見ていた遠馬は、円の血をひく自分も恋人の千種(木下美咲)に同じことをするのではないかと恐れている。
母の仁子(田中裕子)は橋の反対側で魚屋を営んでいる。
戦争で空襲に遭って左手首を失った彼女は、特注の義手をつけて魚を下ろす。
円が夏祭りの準備のため外出していたある日、琴子は自分が円の子を妊娠していると遠馬に告げる。
不機嫌になった遠馬は神社で千種を押し倒し、嫌がる彼女の首を絞めてしまう。
それ以来、千種は遠馬と会おうとしなくなる。
琴子は、近いうちに家を出ていくつもりだと遠馬に伝えるが、円にはまだ言わないでほしいという。
遠馬は円が通っているアパートの女(宍倉暁子)と性交する。
夏祭り当日、家に帰ってきた円は、遠馬がアパートの女と性交するときに暴力をふるったことを喜んでいる。
遠馬は、家を出て行った琴子がもう戻ってこないことを円に教える。
雨の中、円は琴子を探しに行くが異変を感じた遠馬が神社へ向かうと、そこには、円に犯された千種が傷だらけで横たわっていた。
魚屋に現れた二人の話を聞いて、仁子は包丁を持って円を探しに行く。
遅れて駆けつけた遠馬の目の前で、仁子の義手に腹を刺された円が川に流されていく。


寸評
時代背景は昭和から平成に変わる頃なのだが、文藝春秋に記念掲載された原作を読んだ時の印象はもっと前の話の様な気がした。
その原因は原作から受けた僕の想像した川のイメージがもっと薄汚れた川で、その川辺の家並みはもとスラム化した、むしろ戦後間もない頃のそれを想像させたからだ。
しかし描かれている時代は前記のとおりで、それからすればなかなかいいロク地ではなかったかと思う。
エンドロールを見ると、どうやらそれは北九州のどこからしいが、もう下関辺りでは生活用水が流れ込み、自転車などの廃棄物が棄てられっぱなしという川は存在していないのかもしれない。
平成も23年目だものなあ・・・。
うなぎが釣れる川だから最低限あれくらいの川でないとなと思い、文字と映像から受ける印象の違いを感じていた。
川はやはりこの作品の大きなファクターだったと思う。
僕にとって作品の残像の多くは、描かれている季節が夏ということもあって度々映し出される汗のシーンだった。
それが濃密な人間模様をさらに深める役割を果たしていたように感じる。

僕は日活ロマンポルノのドンピシャ世代で、見ていて相米慎二や根岸吉太郎、もちろん神代辰巳などの作品を思い出していて、なんだか懐かしさも覚えた作品だった。
当時よりも表現の自由度は増していて、例えば光石研の性器などは絶対に写されはしなかった(あれ、本物じゃないですよね)。
写し出されたことによって、父親・円の性欲と異常性が間違いなく伝わって来て、やはり必要なシーンだったと思うと、当時の監督さん達は苦労したんだろうなと変な同情をしてしまった。

数少ない登場人物を演じた皆さんが熱演だったけれど、僕はその中でも仁子さん役の田中裕子さんが素晴らしかったと思う。
その仁子さんに原作にはない天皇問題を語らせているのに興味を持った。
あの人によって奪われた手首の為に苦労した仁子さんが、こんどはあの人による恩赦で減刑されることを暗示していたが、それはやがて仁子さんがもうすぐあの店に戻ってきますよとの暗示でもあったのか。
映画だと受け入れられるエピソードだが、これが小説中に加えられていたら切り込み不足と揶揄されたのではないかと思う。

個々を重視するあまりに失われつつある家族の絆とか土着性とかだが、血のつながりだけは怖い。
忌まわしい血の宿命に囚われた父と子のどうしようもない人間世界を描いていた。
最後のギター演奏は良かったなあ・・・。
あの親にしてこの子ありと言うが、子は親を選べない。
だから親は子を守る必要がある。
仁子さんは情状酌量されても良いし、琴子さんはシングルマザーになるのかもしれないが、生まれてくる子供をいい子供に育てて欲しいと思った。