「トニー滝谷」 2004年 日本
監督 市川準
出演 イッセー尾形 宮沢りえ 篠原孝文
四方堂亘 谷田川さほ 小山田サユリ
山本浩司 塩谷恵子 猫田直 木野花
ストーリー
トニー滝谷の名前は、本当にトニー滝谷だった。
太平洋戦争の始まる少し前、トニーの父親、滝谷省三郎はちょっとした面倒を起こして、中国に渡った。
日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと至る激動の時代を、彼は上海のナイトクラブで、気楽にトロンボーンを吹いて過ごした。
彼がげっそりと痩せこけて帰国したのは、昭和21年の春だった。
父が結婚したその翌年にトニーが生まれ、そしてトニーが生まれた三日後に母親は死んだ。
あっという間に彼女は死んで、あっという間に焼かれてしまった。
孤独な幼少期をおくり、やがて美大で地に足の着かない“芸術”を学ぶトニー。
目の前にある物体を一寸の狂いもなく、細部に至るまで正確に写生する彼の絵はどこまでも無機的だった。
ずっと孤独に生きてきたトニーは、孤独を苦にしなかった。
数年後、デザイン会社へ就職し、独立後にイラストレーターとして自宅のアトリエで仕事をするようになった。
トニーは出入りする出版社の編集部員のひとりの女性小沼英子に恋をする。
結婚、幸せな生活、しかし蜜月はあまりに短かった。
妻と死別したトニーは、孤独に耐えかね、容姿、体型とも妻にそっくりな久子を、アシスタントに雇うことにした。
妻が遺した大量の高価な服を、彼女に制服として着て貰い、少しずつ妻の死に慣れようと思ったのだ。
ところが、その服を見た彼女は理由もなく涙を流した。
結局、トニーは彼女を雇うことをせず、そうして1年の歳月が流れた。
全てを忘れた今でも、トニーは時々衣裳部屋で泣いた久子を想い出すことがある。
悩んだ末、彼は彼女に電話をかけてみるのだが…。
寸評
トニー滝谷が、妻と父という愛する二人をなくして、その孤独感を味わうように横たわるシーンは、父が中国の収容所で孤独に耐えながら横たわるシーンとオーバーラップされていて、孤独感を強調すると共に、父と子の精神的な繋がりの希薄さも表現していたと思う。
英子に恋したトニーは「なんというか、服を着るために生まれてきたような人なんだ」と父に言うと、父からは「それはいい」という返事が返ってきたが、それ以上の深まりを感じなかった孤独な親子なのだ。
トニー滝谷の妻となった英子は確かにこと洋服に関しては浪費癖があるけれど、それは唯一彼女の趣味であり贅沢であった筈だ。
それを取り上げようとした時に彼女が死んでしまうのは、単に英子の肉体だけが消滅しただけの話ではなかったような気がする。
自分にとっては価値を持たないものでも、それに価値観を見出している人からすれば、自らの一部をとりあげられることはその人自身の存在をも否定された気持ちになるのではないか。
しかし残されたものは色褪せ、朽ちていき、やがて忘れさられていく。
英子の残した膨大な衣服と靴などもそのような運命をたどる。
僕は映画のチラシを趣味で集めているけれど、家族のものにとっては単なる紙くず同然の代物のはずだ。
だけど、僕が死んだらそれらを眺めて、こんな映画が好きだったんだと思い出してもらいたい思いがあって、いまはタイトル順にファイルに整理し、その内の一冊はセレクションしたものをファイリングして、「お気に入り映画」と題して残しておこうと思っていたのだが、無意味な思いかもしれない。
物陰越しのカメラがパンして次のシーンに移って行ったり、同じく物陰越しにフレームアウトしてフレームインしてくる流れるようなシーンの切り替えの連続や、物語の進行のほとんどを西島秀俊のナレーションで行っていながら、時折そのナレーションを引き継ぐようにして挿入される登場人物によるセリフがある。
ナレーションは小説を朗読しているように感じるし、引き継いだセリフも朗読的であったりする。
あるいは、次々に足もとのスカートと靴だけを映して洋服を買いあさる英子の様子を連想させるカメラワークなど、ポップアート的な感覚もあって「面白い映画を作るなあ~」と感心した。
全体的に想像力をかき立てるような演出で、ラストシーンまでもがその様な演出になっていた。
そのような映画作りってどんな時に発想するのかなあ。
映画監督って、「やっぱ、スゴイ!」と思う。
滝谷省三郎とトニー滝谷、英子とひさこをそれぞれ、イッセー尾形と宮沢りえの二役で処理しているのは、明らかに意図されたキャスティングだった。
二人によって演じられた4人の人物は孤独な人たちだったと感じる。
見終わって時間が経つほど色んなシーンが思い出の様に湧き出てくる不思議な映画だった。
ラストシーンには、何だかほっとしたような、救われたような、希望が持てたような、ほのぼのとした気分になれた。
トニーはもしかすると孤独の世界から抜け出すことが出来るかもしれないという期待だ。
しかしそれを確約していない所が余韻を残して、またまた考えさせるのだ。
監督 市川準
出演 イッセー尾形 宮沢りえ 篠原孝文
四方堂亘 谷田川さほ 小山田サユリ
山本浩司 塩谷恵子 猫田直 木野花
ストーリー
トニー滝谷の名前は、本当にトニー滝谷だった。
太平洋戦争の始まる少し前、トニーの父親、滝谷省三郎はちょっとした面倒を起こして、中国に渡った。
日中戦争から真珠湾攻撃、そして原爆投下へと至る激動の時代を、彼は上海のナイトクラブで、気楽にトロンボーンを吹いて過ごした。
彼がげっそりと痩せこけて帰国したのは、昭和21年の春だった。
父が結婚したその翌年にトニーが生まれ、そしてトニーが生まれた三日後に母親は死んだ。
あっという間に彼女は死んで、あっという間に焼かれてしまった。
孤独な幼少期をおくり、やがて美大で地に足の着かない“芸術”を学ぶトニー。
目の前にある物体を一寸の狂いもなく、細部に至るまで正確に写生する彼の絵はどこまでも無機的だった。
ずっと孤独に生きてきたトニーは、孤独を苦にしなかった。
数年後、デザイン会社へ就職し、独立後にイラストレーターとして自宅のアトリエで仕事をするようになった。
トニーは出入りする出版社の編集部員のひとりの女性小沼英子に恋をする。
結婚、幸せな生活、しかし蜜月はあまりに短かった。
妻と死別したトニーは、孤独に耐えかね、容姿、体型とも妻にそっくりな久子を、アシスタントに雇うことにした。
妻が遺した大量の高価な服を、彼女に制服として着て貰い、少しずつ妻の死に慣れようと思ったのだ。
ところが、その服を見た彼女は理由もなく涙を流した。
結局、トニーは彼女を雇うことをせず、そうして1年の歳月が流れた。
全てを忘れた今でも、トニーは時々衣裳部屋で泣いた久子を想い出すことがある。
悩んだ末、彼は彼女に電話をかけてみるのだが…。
寸評
トニー滝谷が、妻と父という愛する二人をなくして、その孤独感を味わうように横たわるシーンは、父が中国の収容所で孤独に耐えながら横たわるシーンとオーバーラップされていて、孤独感を強調すると共に、父と子の精神的な繋がりの希薄さも表現していたと思う。
英子に恋したトニーは「なんというか、服を着るために生まれてきたような人なんだ」と父に言うと、父からは「それはいい」という返事が返ってきたが、それ以上の深まりを感じなかった孤独な親子なのだ。
トニー滝谷の妻となった英子は確かにこと洋服に関しては浪費癖があるけれど、それは唯一彼女の趣味であり贅沢であった筈だ。
それを取り上げようとした時に彼女が死んでしまうのは、単に英子の肉体だけが消滅しただけの話ではなかったような気がする。
自分にとっては価値を持たないものでも、それに価値観を見出している人からすれば、自らの一部をとりあげられることはその人自身の存在をも否定された気持ちになるのではないか。
しかし残されたものは色褪せ、朽ちていき、やがて忘れさられていく。
英子の残した膨大な衣服と靴などもそのような運命をたどる。
僕は映画のチラシを趣味で集めているけれど、家族のものにとっては単なる紙くず同然の代物のはずだ。
だけど、僕が死んだらそれらを眺めて、こんな映画が好きだったんだと思い出してもらいたい思いがあって、いまはタイトル順にファイルに整理し、その内の一冊はセレクションしたものをファイリングして、「お気に入り映画」と題して残しておこうと思っていたのだが、無意味な思いかもしれない。
物陰越しのカメラがパンして次のシーンに移って行ったり、同じく物陰越しにフレームアウトしてフレームインしてくる流れるようなシーンの切り替えの連続や、物語の進行のほとんどを西島秀俊のナレーションで行っていながら、時折そのナレーションを引き継ぐようにして挿入される登場人物によるセリフがある。
ナレーションは小説を朗読しているように感じるし、引き継いだセリフも朗読的であったりする。
あるいは、次々に足もとのスカートと靴だけを映して洋服を買いあさる英子の様子を連想させるカメラワークなど、ポップアート的な感覚もあって「面白い映画を作るなあ~」と感心した。
全体的に想像力をかき立てるような演出で、ラストシーンまでもがその様な演出になっていた。
そのような映画作りってどんな時に発想するのかなあ。
映画監督って、「やっぱ、スゴイ!」と思う。
滝谷省三郎とトニー滝谷、英子とひさこをそれぞれ、イッセー尾形と宮沢りえの二役で処理しているのは、明らかに意図されたキャスティングだった。
二人によって演じられた4人の人物は孤独な人たちだったと感じる。
見終わって時間が経つほど色んなシーンが思い出の様に湧き出てくる不思議な映画だった。
ラストシーンには、何だかほっとしたような、救われたような、希望が持てたような、ほのぼのとした気分になれた。
トニーはもしかすると孤独の世界から抜け出すことが出来るかもしれないという期待だ。
しかしそれを確約していない所が余韻を残して、またまた考えさせるのだ。