ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

老子とスガ首相の企て

2020-11-20 12:16:09 | 日記
老子はこんな言葉を残している。
「不尚賢、使民不爭」
(書き下し文;「賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ」
現代語訳;「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」)

この言葉を今現在の日本に引きつけて考えると、すぐに思い浮かぶのは、スガ首相による「日本学術会議任命拒否」問題だろう。日本学術会議といえば、現在の日本を代表する(と目される)科学者たちを擁するアカデミアの機関であり、このようなものとして、日本を代表する「賢者」の団体と見ることができるからである。
この「賢者」の団体への加入の適否を審査する総理大臣の権限を振りかざすことによって、スガ首相は賢を蔑(なみ)し、「科学者(賢者)に対する政治権力の優位」を天下に知らしめようとした、と、そう見ることができる。

このスガ首相の振る舞いは、すぐに世間から大きな反発を食らった。それはそうだろう。政治権力は不沈が激しい一時のもの。対する科学は、永遠普遍の真理探求に携わる実直な「賢者」の営みである。だから「政治権力よりも科学者(賢者)のほうがエラい」と、だれもが思っている。

それだけではない。今の日本社会は、(ペーパーテストで良い点数をとる)「賢者」たちがより上位の地位を占めるように作られている。今の日本の受験戦争の絵図を思い起こせばよい。より上位の高校に、そして大学に合格して、入学し卒業しさえすれば、より安定した、より給料の多い会社に就職できるから、人々は自分の子を、より上位の学校に入れようとして、受験戦争の戦士に仕立てることになる。

そういう受験戦争が作り出す絵図の、その頂点の一角を占めるのが(大学に巣くう)学者先生たちの集団であり、また、霞が関に鎮座する高級官僚たちの集団である。

スガ首相は学者の集団である日本学術会議だけでなく、霞が関の高級官僚の集団をも牛耳り、この点からも「賢者に対する政治権力の優位」を見せつけたが、問題は、統治者のこうした振る舞いによって、社会がどう変わるかである。「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」と老子は述べたが、賢を蔑ろにするスガ首相の振る舞いによって、受験戦争はなくなるのだろうか。

そう簡単にはなくならないだろう、と私は思う。「賢よりも権が勝る」と一般庶民が思うようになったとしても、「権」を獲得する競争の道はさらに厳しく、一部の特権者にだけ許された狭き門だとだれもが知っている。ならば可愛いわが子には、堅実な「賢」の道を歩かせようと思うのが、親心というものだろう。

さて、老子を地で行くスガ首相の企ては、今後、どうなりますことやら。生暖かい目で見守ろうではないか。
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デイサをめぐるモノローグ

2020-11-19 11:38:41 | 日記
どうしようかなあ。きょうはデイサに「通勤」の日だが、出勤すべきかどうか、迷っている。きのうの新型コロナの新規感染者は、全国で2100人を越えたという。東京では過去最多の493人。わが茨城県では39人、おとといはなんと55人だった。

第3波が襲来したのは間違いないが、不思議なことに、わがT市にはその波は及んでいない。きのうの新規感染者はたった2人である。「たった2人!」そう感じてしまう自分に、私は驚いている。

振り返れば、わがT市にコロナ感染者が出たのは、今年の3月下旬のことだった。「一挙に5人」と聞いて、激しく動揺し、狼狽えた自分を私は憶えている。「いきなり5人!(これは大変だ!)」が「たった2人!(じゃあ、大したことはないな)」へと変わるまでに、わずか8ヶ月である。慣れというのは恐ろしい。

ともあれ、全国規模の感染者数の急激な増加と、わがT市の感染者数の少なさと、ーー暴風雨と、凪のような風のそよぎとーーその大きな落差の間で、私は迷っている。惑っている。リハビリ・デイサに行くべきかどうか、と。

この事態をわが老子先生なら、どう考えるだろうか。「無為の対処じゃよ、無為のな」と先生は答えるだろう。問題は、先生のこの答えをどう解釈するかである。

文字通り、素直に解釈すれば、行かないこと、つまりステイホームが、私のとるべき態度だということになる。

だが無為とは、作為を退けること、つまりあれこれちまちま考えず、自然の成り行きに身を委ねることだと解釈することもできる。では、ちまちました私の考え、小賢しい私の考えを退けたあとに残る、私の自然な感情はどういうものか。私の感情は「な〜に、大丈夫だよ」とささやき、あのデイサの時間の中に身を浸したがっている。

だったらその感情に従って、行けば良いのさ、と老子先生は答えるだろう。

じゃあ、私はどうすれば良いのか。行かないほうが良いのか、それとも行ったほうが良いのだろうか。

さらに掘り下げて考えれば、ちまちました私の考え、小賢しい私の考えは、私の心に自然に生じたものであり、それを退けることこそ、作為の最たるものではないのか。

とすれば、老子のいう「無為自然」とは、ちまちました自分の考え、小賢しい自分の考えにむしろ従うことであり、あれこれと思い惑うことが私の「自然」の姿だということになる。私はこの「自然」に従うべきなのだろうか。

しかしである。実をいえば、私はあれこれ思い惑うことにもう疲れてしまったのだ。ちまちました自分の考え、小賢しい自分の考えを退けたいと思うのも、やはり私の「自然」なのである。

私にはすべてが面倒臭い。面倒臭いから、何も考えず、行くことにしよう。え〜い、いっそのこと行ってしまえ、デイサに!
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老子の「無為」の思想とコロナ禍への対処法

2020-11-18 11:37:43 | 日記
新型コロナの猛威が今、人類の生存を脅かしている。この世界規模のコロナ禍に対して、老子の「無為」の思想はどこまで有効なのか。

こういう問を立てたとき、だれもが思いつくのは、あの〈ステイホーム〉の一件だろう。今年4月、安倍首相は東京都など7都府県を対象に「緊急事態宣言」を出し、新型コロナの感染拡大を阻止するため、外出自粛などの対応を要請した。

外出をしない。友人とおしゃべりをしない。居酒屋で飲み会をしない、等々。そういう諸々の〈ない〉という形の無為が、(感染の拡大阻止という)積極的な行為としての意味を持つのだ、と、そう安倍首相は宣言したのである。

この無為は、具体的には「ステイホーム」(うちにいる、うちでじっとしている)という形をとるが、このことがコロナウイルスの拡散を防止し、(罹患すれば重篤化を免れない)高齢者の命を守ることにつながる。この無為はまた、医療従事者の負担を減らし、日本の医療崩壊を食い止めることにもつながるというのである。

このことについて、以前、私は本ブログで次のように書いたことがある。
「ステイホームという無為の形は、これまでにない新しい行為の実行方式を提示する。そのようなものとして、これは、妖怪コロナとの付き合い方に新境地を拓くものになるのではないだろうか。」
(4月14日《行為としての無為について》)

こう書いたとき、私はことさら老子の言説を意識していたわけではないが、今考えると、老子の「無為」の思想は、たしかにコロナ禍への対策にも有効だと思うのである。

コロナ禍に対する老子の「無為」の思想の有効性・正当性は、また別の観点ーー地球規模の観点からも、言えるのではないだろうか。私が注目するのは、マクニール(シカゴ大学の歴史学者、故人)の「生態復讐論」と、これを踏まえた近藤大介氏の見解である。

地球の生態系に対して、これまで人類が加えてきた横暴ともいえる過剰な作為。その結果が地球環境の破壊であり、これに対して地球の生態系が警告、復讐としてもたらしたのが、このたび人類を見舞ったコロナ禍だというのが、マクニールの「生態復讐論」であり、これを踏まえた近藤氏の見解である。

人類が活動を停止して、地球環境への働きかけをやめれば、地球環境のほうも人類への復讐の手を緩めるのではないか。かくしてコロナ禍は終息するのではないか。ーーそう考えるとき、老子の「無為」の思想は、コロナ禍への最も適切な対処法を提示する原理的思考と言えるように思えるのである。
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老子の「無為」の思想と北朝鮮核武装問題

2020-11-17 12:41:39 | 日記
きょうのテーマは北朝鮮の核武装問題である。我々日本国民に恐怖の匕首(あいくち)を突きつける核ミサイルの、その開発を北朝鮮は頑として放棄しようとしない。北朝鮮が日本に向けてミサイルをばんばん発射し、日本国民の安寧を脅かしたのは3年ほど前のことだが、最近はだいぶおとなしくなった。とはいえこの独裁国家が核ミサイルの開発を依然として継続している現状では、決して気は抜けない。この問題に対して、老子の「無為のままに対処する」姿勢で臨むと、一体どういうことになるのか。

この問題に関して、私は本ブログで次のように書いたことがある。それから4年以上が経過した今現在でも、私は修正の必要を感じない。とりあえずそれを読んでいただこう(2016.1.9《聖人は何もしない?》)

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北朝鮮の核実験に対してであるが、これに対して「何もしない」とすれば、つまり老子が言うように「無為のままに対処する」とすれば、一体どういうことになるのか。
結論からいえば、北朝鮮は核の開発をやめるだろう。やめることになるだろう、と私は考える。

どういうことか。
そもそも北朝鮮の核武装は、周辺諸国を武力で威嚇し、強大なアメリカの武力攻撃を牽制するための対抗手段にほかならない。ところが周辺諸国も、アメリカもどこ吹く風で、これに対して軍事的な対処の構えも見せず、経済制裁をすることもしないとしよう。
そうなれば、核武装の意味そのものがなくなるから、北朝鮮の賢明な首脳は、こう思い始めるに違いない。
「多額の財政出動をして、国民の暮らしを圧迫し犠牲にしてまで核開発をする意味はあるのだろうか?これでは本末転倒ではないのか?」と。
生活が苦しいまま長年窮乏を強いられれば、北朝鮮の国民だって黙ってはいないはずだ。そうなれば、この体制は持ちこたえることができない。国民の怒りの前では、独裁体制ほど脆いものはないからである。
だから「どこ吹く風」の対処、「無為のままに対処する」ことが、一番効果的な対処法なのである。
老子はそう言おうとしているのではないだろうか。

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実際、ミサイルをばんばん発射していた頃の北朝鮮の威勢の良さは今は何処へやら。日米韓同盟が軍事的圧力を加えたわけでもないのに、その勢いはすっかり鳴りをひそめた。これは、老子の言う「無為のままに対処する」姿勢が功を奏し始めたことを示すものではないだろうか。

ふむふむ。北朝鮮の核武装問題に対しても、老子の「無為」の思想は有効だということは、よく解った。でも、このところの焦眉の問題、新型コロナ問題に対しては、そうは問屋が卸さないのではないか。ーーこう言いたくなる人も少なくないことだろう。次回はこの問題について考えてみたい。
(つづく)
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老子思想の核心に立ち入る

2020-11-16 11:45:06 | 日記
老子の言説は謎に充ちている。老子思想の核心をズバリ表した文言は、たとえば次のようなものであるが、我々はこれをどう理解すればよいのだろうか。
是以聖人、處無爲之事、行不言之教。
(読み下し文:「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行なう。」
現代語訳:「聖人は, 無為のままに事に対処し,言葉にできない教えを説く。」)

後半の「言葉にできない教えを説く」は、禅宗でいう「不立文字(ふりゅうもんじ)」に通底する考え方で、これ自体が言語的な理解を拒んでいる。だからこれはひとまず措くことにするが、それでは前半部分の「聖人は, 無為のままに事に対処する」とは、どういうことなのだろうか。

それを理解するために、前回取り上げた、老いと若さの例について考えてみよう。きのうの朝、私はベッドからの起き上がりに難儀し、「ああ、自分も歳をとったものだなあ」と、切実な老いの実感にとらわれたのだった。この事態に対して「何もしない」ということ、つまり「無為のままに対処する」ということは、簡単にいえば何もリハビリをしないことを意味する。

そうすると、私の身体的機能はますます衰え、私は老化の一途をたどることになるだろう。「それじゃあ」――と言う人がいるに違いない。「聖人」は寝たきりになって、やがて一人ではベッドから起き上がれなくなり、石ころのように死を迎えるだけではないか。そんな前途を、私は選ぶ気にはなれませんね、と。

たしかに老子を批判的に受け取れば、そういうことになるのだろう。しかし好意的に受け取れば、次のように言うことができるのではないだろうか。
「老いた、とか、若い、とか、そんなことをちまちま考えずに、もっとおおらかに、無邪気になって、子供みたいに野原で思い切り駆け回りなさい、そうすれば、あなたの身体的機能だって、おのずと回復するはずですよ」
老子は、そういうことを言おうとしているのではないか、と私は思う。

これはまあ、私個人の私的体験に関わることだから、ひとまずこれで良しとしよう。でも、事が日本国民全体の生き死にに及ぶ場合はどうなのか。たとえば北朝鮮の核武装に対して、我々はどう対処すべきなのか。「無為のままに事に対処する」と、一体どういうことになるのか。
(つづく)
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