老子はこんな言葉を残している。
「不尚賢、使民不爭」
(書き下し文;「賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ」
現代語訳;「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」)
この言葉を今現在の日本に引きつけて考えると、すぐに思い浮かぶのは、スガ首相による「日本学術会議任命拒否」問題だろう。日本学術会議といえば、現在の日本を代表する(と目される)科学者たちを擁するアカデミアの機関であり、このようなものとして、日本を代表する「賢者」の団体と見ることができるからである。
この「賢者」の団体への加入の適否を審査する総理大臣の権限を振りかざすことによって、スガ首相は賢を蔑(なみ)し、「科学者(賢者)に対する政治権力の優位」を天下に知らしめようとした、と、そう見ることができる。
このスガ首相の振る舞いは、すぐに世間から大きな反発を食らった。それはそうだろう。政治権力は不沈が激しい一時のもの。対する科学は、永遠普遍の真理探求に携わる実直な「賢者」の営みである。だから「政治権力よりも科学者(賢者)のほうがエラい」と、だれもが思っている。
それだけではない。今の日本社会は、(ペーパーテストで良い点数をとる)「賢者」たちがより上位の地位を占めるように作られている。今の日本の受験戦争の絵図を思い起こせばよい。より上位の高校に、そして大学に合格して、入学し卒業しさえすれば、より安定した、より給料の多い会社に就職できるから、人々は自分の子を、より上位の学校に入れようとして、受験戦争の戦士に仕立てることになる。
そういう受験戦争が作り出す絵図の、その頂点の一角を占めるのが(大学に巣くう)学者先生たちの集団であり、また、霞が関に鎮座する高級官僚たちの集団である。
スガ首相は学者の集団である日本学術会議だけでなく、霞が関の高級官僚の集団をも牛耳り、この点からも「賢者に対する政治権力の優位」を見せつけたが、問題は、統治者のこうした振る舞いによって、社会がどう変わるかである。「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」と老子は述べたが、賢を蔑ろにするスガ首相の振る舞いによって、受験戦争はなくなるのだろうか。
そう簡単にはなくならないだろう、と私は思う。「賢よりも権が勝る」と一般庶民が思うようになったとしても、「権」を獲得する競争の道はさらに厳しく、一部の特権者にだけ許された狭き門だとだれもが知っている。ならば可愛いわが子には、堅実な「賢」の道を歩かせようと思うのが、親心というものだろう。
さて、老子を地で行くスガ首相の企ては、今後、どうなりますことやら。生暖かい目で見守ろうではないか。
「不尚賢、使民不爭」
(書き下し文;「賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ」
現代語訳;「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」)
この言葉を今現在の日本に引きつけて考えると、すぐに思い浮かぶのは、スガ首相による「日本学術会議任命拒否」問題だろう。日本学術会議といえば、現在の日本を代表する(と目される)科学者たちを擁するアカデミアの機関であり、このようなものとして、日本を代表する「賢者」の団体と見ることができるからである。
この「賢者」の団体への加入の適否を審査する総理大臣の権限を振りかざすことによって、スガ首相は賢を蔑(なみ)し、「科学者(賢者)に対する政治権力の優位」を天下に知らしめようとした、と、そう見ることができる。
このスガ首相の振る舞いは、すぐに世間から大きな反発を食らった。それはそうだろう。政治権力は不沈が激しい一時のもの。対する科学は、永遠普遍の真理探求に携わる実直な「賢者」の営みである。だから「政治権力よりも科学者(賢者)のほうがエラい」と、だれもが思っている。
それだけではない。今の日本社会は、(ペーパーテストで良い点数をとる)「賢者」たちがより上位の地位を占めるように作られている。今の日本の受験戦争の絵図を思い起こせばよい。より上位の高校に、そして大学に合格して、入学し卒業しさえすれば、より安定した、より給料の多い会社に就職できるから、人々は自分の子を、より上位の学校に入れようとして、受験戦争の戦士に仕立てることになる。
そういう受験戦争が作り出す絵図の、その頂点の一角を占めるのが(大学に巣くう)学者先生たちの集団であり、また、霞が関に鎮座する高級官僚たちの集団である。
スガ首相は学者の集団である日本学術会議だけでなく、霞が関の高級官僚の集団をも牛耳り、この点からも「賢者に対する政治権力の優位」を見せつけたが、問題は、統治者のこうした振る舞いによって、社会がどう変わるかである。「賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる」と老子は述べたが、賢を蔑ろにするスガ首相の振る舞いによって、受験戦争はなくなるのだろうか。
そう簡単にはなくならないだろう、と私は思う。「賢よりも権が勝る」と一般庶民が思うようになったとしても、「権」を獲得する競争の道はさらに厳しく、一部の特権者にだけ許された狭き門だとだれもが知っている。ならば可愛いわが子には、堅実な「賢」の道を歩かせようと思うのが、親心というものだろう。
さて、老子を地で行くスガ首相の企ては、今後、どうなりますことやら。生暖かい目で見守ろうではないか。
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