ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

自助の思想のパラドックス

2020-11-25 11:27:44 | 日記
すこし前のことになるが、スガ義偉氏は自民党総裁のポストを手にしたとき、次期首相としての抱負を聞かれ、「自助・共助・公助」というフレーズを口にした。
「まずは自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」そういう社会を築くことが、自分の抱負だというのである。

このスガ氏の考え方を知ったとき、私は大きな違和感をおぼえた。その違和感を、私は本ブログ(9月17日《自助・共助・公助について》)に記したが、スガ氏のこの思わくはどだい実現不可能な妄想の類に過ぎない。そのことに気づかせてくれたのは、老子の次の言葉である。

天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長生。
(書き下し文:「天は長く地は久(ひさ)し。天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、その自(みずか)ら生(しょう)ぜざるをもってなり、故(ゆえ)に能く長生(ちょうせい)す。」
現代語訳:「自然は長く永遠に生きる。自然が長生きなのは、長く生きようと思わないからである。自然が永遠に生きられるのは、自分のことを考えないからなのだ。」)

どういうことか。これを目下の文脈に入れて言い直せば、自らを助けようとする者(自助の気概をもって生きようとする者、自分の力を恃み、独力で生きようとする者)は、長くは持ちこたえられないということである。

それはそうだろう。自恃の気概だけが強い人は「ジコチュー(自己中)」と呼ばれる。ジコチューは自分を中心にしかものを見られない人、利己的にしかふるまえない人である。そういう人は他人から嫌われ、疎んじられ、結局は損を見ることになる。四六時中「自分のため」ばかり考える人は、「自分のため」にはならないのだ。これとは反対に、いつも「他人のため」を考えて行動し、自分のことを後まわしにする人は、他人から好かれ、結果として好い目を見ることになる。

「天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、その自(みずか)ら生(しょう)ぜざるをもってなり、故(ゆえ)に能く長生(ちょうせい)す。」

簡単にいえば、情けは人の為ならず。自分を助けようと思ったら、他人に情けをかけなければならない。自助のためには、共助を心掛けなければならないということである。

自助の念だけが強く、思い通りの結果を出せない口だけのジコチューたちは、(プライドが邪魔をして)他人を頼ることができない。その結果、彼らは、政府に「公助を!」と強く要求することになる。「自助」の発想が喧伝され、ジコチューが増えれば、彼らの要求の重さに政府は耐えきれず、早晩、潰れ去ることだろう。
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村の鍛冶屋と自然災害

2020-11-24 10:37:27 | 日記
槖籥(たくやく)とは、鞴(ふいご)のことだという。ふいごだって?聞き慣れない言葉だが、聞いたことがあるようにも思える。たしか「村の鍛冶屋」だったろうか。

♫しばしもやまずに 槌うつ響き。
飛び散る火の花、はしる湯玉。
鞴(ふいご)の風さえ 息をも継がず、
仕事に精出す 村の鍛冶屋。♫

要するに鞴(ふいご)とは、火の燃焼を促すために火種へ風を送る装置らしい。私は実物を見たことがない。

私が子供の頃、わが家には「火吹き竹」という道具があり、私はそれをよく使っていた。今から60年ほど前のことになる。当時は風呂の湯を沸かすのに石炭釜が使われ、小学生の私は石炭を釜に焼(く)べて、風呂の湯を沸かすのが毎日の役割だった。竹筒の一端に口を当てて、膨らませた頬から窯の中にふう〜〜と空気を送る。そのたびに石炭は赤々と燃え上がった。鞴(ふいご)とは多分、それを大掛かりにした装置なのだろう。

老子はこう述べている。
天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。
(書き下し文:「天と地の間は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくやく)のごときか。虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。」
現代語択:「天地自然の働きは空気を送り出す鞴(ふいご)の様なものだ。空っぽの空間から尽きることなく万物が生み出され、動けば動くほどに溢れ出てくる。」)」

この文章を読んでいると、私の眼前には、洪水に見舞われ、悲嘆にくれる人々の姿が浮かんでくる。新型コロナの新規感染者数をニュースで知らされ、「あしたは(デイサに)行くべきか、行かざるべきか」と思い惑う私自身の姿が浮かんでくる。

火の燃焼を促す装置としての、鞴(ふいご)。そのまわりでは火が燃えさかるが、その中心にある中空の空間は燃えることなく、不動を、静を、保っている。
自然災害に一喜一憂する人々の姿は、ふいごに煽られて激しく揺らぐ炎のようだ、と、そう老子は思ったのだろう。

ふいごに風を送っているのは、一体だれなのか。そういう造物主ははたして存在するのかどうか。仮に神がいたとしても、この神は「仁」の心とは無縁の存在であるに違いない。
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自然は仁ならず

2020-11-23 11:34:16 | 日記
天地不仁、以萬物爲芻狗。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。

この言葉を読むとき、私は政治家の生態以上に、自然災害(天災)のことを思い浮かべる。今年の7月には熊本県の球磨川が豪雨で氾濫し、50人以上が犠牲になった。死亡者は22人、17人が心肺停止、11人が行方不明になっている。
洪水といえば、一昨年の7月に発生し、200人を越える死者を出した西日本豪雨も忘れられない。

天災は洪水だけではない。2011年の東日本大震災では、大地震とそれに伴う大津波により、2万2千人余りの死者・行方不明者が出た。

これらの天災を思い出すとき、「なぜこれほど多くの人が犠牲にならなければならなかったのか」との素朴な疑問が私の脳裏をよぎるのである。

「天地不仁、以萬物爲芻狗。」
(天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。)

「芻狗(すうく)」とはわら細工の犬で、厄払いや雨乞いのために、犠牲の代用品として神前に供されたものだという。
では自然は、いったい何の目的で、2万数千名もの(罪のない!)善男善女を犠牲にしたのか・・・?

そう老子に問えば、「いや、自然には意味ある目的なんて、ないのさ」と彼は答えるだろう。
「なるほど天地は仁ならず、というわけか」
そう思っても、「しかし、理不尽だよなあ」という不条理の思いを私は拭い去ることができない。亡くなった2万数千人の中には、極悪非道な悪人だけでなく、謹厳実直なお父さんや、慈愛にあふれるやさしいお母さんも多数含まれていたに違いない。自然は残酷だ。天地は仁ならず、か・・・。でもなあ。

善悪の価値評価や、自然の情愛のような「人間的なもの」を退ける老子の世界観はたしかに斬新で魅力的だが、惜しむらくはそこに一抹も救いがないことである。
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老子の統治者論

2020-11-22 14:27:06 | 日記
スガ首相はきのう「GO TO トラベル」と「GO TO イート」事業について、それぞれ一時停止する意向を表明した。経済回復策を中断するのは不本意であるものの、爆発的に拡大するコロナ禍を座視することはできない。そう考えてのことだろう。経済振興のラッパを吹いたり、かと思えばコロナ対策の警笛を鳴らしたり・・・。慌しく対応策を繰り出すスガ首相の言動を見ていると、私は老子の次のような言葉を思い起こす。

聖人不仁、以百姓爲芻狗。
聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗(すうく)となす。

ここで言われる「聖人」とは、知徳に秀でた人のことではなく、民の上に立ち、民を支配する統治者のことだろう。たしかに政治家は、民の暮らしを豊かにしようとか、民を救おうなどと思わず、ひたすら権力欲に駆られ、民を芻狗となす、つまり、民を自分の思い通りに操ろうとする。政治家が民の暮らしを豊かにしよう、民を救おうと思ったとしても、それは政治家としての自分の地位を確かなものにしようとする限りでのことである。

スガ首相が経済振興のために「GO TO トラベル」や「GO TO イート」を打ちだしたときも、また、コロナ対策のためにこれらの事業を打ち切ったときも、その意図はこれと同じようなものーー博愛心や慈悲心からは程遠いものだったに違いない。

魅力的なのは、老子がそういう「聖人」に対して、良いとか悪いとかの価値評価を示そうとしないことである。「善悪の彼岸」に立つのが、老子の真骨頂だと言えるだろう。

なるほど統治者、政治家に博愛心や仁愛を期待するなんて、よほどの世間知らずでなければしないことだ。老子は理想論を退け、そうした(世間擦れした)庶民感覚の方向をさらに徹底して、独特の価値中立的な観点に立つのである。

政治家は仁愛ではなく、権力欲に駆られ、民を意のままに操ろうとする。その限り政治家は「聖人」とは程遠い存在であるが、老子の老子たるゆえんは、民を操る統治者を、逆にまた天によって操られる存在、天の「芻狗となる」存在とみなすことである。

天地不仁、以萬物爲芻狗。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。

このように老子は述べるが、ここで言う「万物」には、当然、統治者も含まれると見なければならない。ここでも天地が聖人と同様「仁ならず」と言われているが、理想論を退けるそうした価値中立的・非人間的・宇宙論的な視野のもとで、では、人間の営みはどのようなものと捉えられるのだろうか。
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欲望、価値、老子

2020-11-21 11:44:53 | 日記
禅問答のような老子の言説だが、次の言説は解りやすい。
不貴難得之貨、使民不爲盗。(得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗をなさざらしむ。)」
不見可欲、使民心不亂。(欲すべきを見さざれば、民の心をして乱れざらしむ。)」

これらの原文には「貴ばない」や「見せない」の主語は明示されていないが、老子の脳裏にあるのは、明らかに民(一般人民)の対義語、つまり統治者である。統治者がその物の価値を認めなければ、その物の価値は生まれない、と老子は説いているが、そんなにうまく事が運ぶかどうか、私には大いに疑問である。そもそも一人の(あるいは数人の)権力者が物の価値を作り出したり、奪ったりすることなど、できるのだろうか。

物の価値には、(統治者の意図が、ではなく)民の欲望がそれを生み出す、という側面がある。爺には理解しがたいことだが、アニメ作品『鬼滅の刃』が民の間で爆発的な人気を博し、そのキャラクターとのコラボを狙ったユニクロのTシャツが人気の的になる。それを手に入れようと、ユニクロの店舗には客がわんさと押し寄せ、行列を作るほどだという。

「うむ、それは良くない。コロナの感染拡大を防ぐため、3密を作らせないため、『鬼滅の刃』の価値を『鬼滅』しなければ」とスガ首相が思ったとしても、スガ首相(と取り巻きの官僚)だけでは、『鬼滅の刃』の価値を否定することはできないだろう。

話は違うが、得難いために欲望の対象になり、それをめぐって獲得競争が生じるということで思い浮かぶのは、歴史上絶えることのない領土紛争である。今、中国が尖閣諸島(魚釣島)をめぐり、「この島は我が国の領土だ」と領有権を主張して、日本との間に軋轢を生み出している。人も住まないこんな絶海の島をどうしてそれほど欲しがるのか、不思議に思えるが、考えればそれも当然のこと。この島の領有権が中国にあるとなれば、この島の周囲12海里が中国の領海となり、そこに漁業権や海底資源採掘権が発生することになって、多大の経済的利益をもたらすからである。

漁業権や海底資源採掘権が発生しなければ、こんなちっぽけな島が紛争の種になることもないだろうが、国際海洋法でも変更しない限り、この島の価値を貶めることは不可能である。

理想論は説かないように見える老子思想だが、ここでは老子は人間心理の洞察から抜けでて、実現不可能な理想論の迷路にはまっているように思える。
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