ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

自然は仁ならず

2020-11-23 11:34:16 | 日記
天地不仁、以萬物爲芻狗。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。

この言葉を読むとき、私は政治家の生態以上に、自然災害(天災)のことを思い浮かべる。今年の7月には熊本県の球磨川が豪雨で氾濫し、50人以上が犠牲になった。死亡者は22人、17人が心肺停止、11人が行方不明になっている。
洪水といえば、一昨年の7月に発生し、200人を越える死者を出した西日本豪雨も忘れられない。

天災は洪水だけではない。2011年の東日本大震災では、大地震とそれに伴う大津波により、2万2千人余りの死者・行方不明者が出た。

これらの天災を思い出すとき、「なぜこれほど多くの人が犠牲にならなければならなかったのか」との素朴な疑問が私の脳裏をよぎるのである。

「天地不仁、以萬物爲芻狗。」
(天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。)

「芻狗(すうく)」とはわら細工の犬で、厄払いや雨乞いのために、犠牲の代用品として神前に供されたものだという。
では自然は、いったい何の目的で、2万数千名もの(罪のない!)善男善女を犠牲にしたのか・・・?

そう老子に問えば、「いや、自然には意味ある目的なんて、ないのさ」と彼は答えるだろう。
「なるほど天地は仁ならず、というわけか」
そう思っても、「しかし、理不尽だよなあ」という不条理の思いを私は拭い去ることができない。亡くなった2万数千人の中には、極悪非道な悪人だけでなく、謹厳実直なお父さんや、慈愛にあふれるやさしいお母さんも多数含まれていたに違いない。自然は残酷だ。天地は仁ならず、か・・・。でもなあ。

善悪の価値評価や、自然の情愛のような「人間的なもの」を退ける老子の世界観はたしかに斬新で魅力的だが、惜しむらくはそこに一抹も救いがないことである。
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