蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

銀の真珠に包まれて

2006年04月11日 | 季節の便り・旅篇

 それは不思議な体験だった。標高500メートルを越える山あいに吹く風は、まだ冬の刃の鋭さを残していた。震えながら飛び込んだ畑の中の露天風呂は32度のぬるま湯である。ひたすら鼻の下まで身を沈め、じっと耐える。10分程過ぎると、いつの間にか全身隙間なく小さな無数の泡で包み込まれていた。柔らかな日差しを浴びて、水中で揺らぎ輝く泡は銀色。全身に真珠の粒をまぶしたような自らの裸身は一種SFっぽく、時のたつのを忘れて見入っていた。

 雷鳴を伴う夜来の風雨が過ぎるのを待って、午後高速に乗った。玖珠インターで降りて四季彩ロードを駆け上がり、湯坪を抜ける頃から濃密な霧が山道を包んだ。速度を控えながら走り抜ける道の両山肌はしっかりと焼かれ、間もなくこの斜面はキスミレの群落と林立するワラビに覆われる。木立の芽吹きはまだ浅く、山の春は少し遅れ気味のようだった。
 九重連山の山容は総て霧の底、硫黄の匂いを車窓に嗅ぎながら長者原から牧の戸を越え、下った瀬の本から豊後竹田方面に折れる。北斜面の濃霧が嘘のように、連山の南斜面は綺麗に晴れ上がり、早春の日差しがうららかだった。久住町から左に折れ、山あいの道を暫く走ると、長湯温泉である。芹川の小さな流れ沿いに、幾つかの宿が点在する。与謝野晶子・鉄幹初め、多くの文人墨客が訪れて歌碑を残す著名な湯の里でありながら、アクセスの不便さが幸いして、今も鄙びた湯治場の面影を残す静かな温泉である。
 春山の散策シーズンを前に、身体の不調が続いた。原因不明の腹痛が2週間取れず、MRI、胃カメラ、エコーと検査を重ね、体重が4キロ落ちた。結局原因が分からないままに痛みが消え復調したものの、どこかスッキリせず、気分転換に湯治に赴くことになった。申し合わせたように、いつもの山仲間の正昭さんも術後の静養期間にあり、山歩きをしない温泉行きで意気投合したのだった。
 長湯温泉・Y荘。7000坪の敷地に、僅か7つの客室。しかもこの日は板前でもあるご主人の都合で、私達夫婦ふた組の独り占めという贅沢が待っていた。酸味と塩分を含む少し錆色の露天風呂に心ゆくまで浸かったあと、関西で修業したというご主人が見事な懐石料理でもてなしてくれた。女将の飾り気ない素朴な客あしらいも心地よい。
 ここの湯の特質は「炭酸水素塩泉」という炭酸ガスを豊富に含んだ珍しいお湯質にあり、しかも「源泉掛け流し」。その極め付きはドイツの2カ所以外、世界に3つしかないという「天然炭酸泉」である。文豪・大佛次郎が名付けて「ラムネ温泉」という。
 翌朝、宿を発って芹川沿いまで下り、その「ラムネ温泉」を訪ねた。屋根に松の木を植えた不思議な建物である。昨夜の「炭酸水素塩泉」の1.7倍という高濃度の炭酸ガスが、私達を「アマゾンの半魚人」に変身させてくれる。これは病みつきになる温泉である。近くには四方開放されたおおらかな露天風呂もある。衆人環視の中でこの湯に入るのはかなりの勇気が要る。だから「女性は無料」という粋な計らい…しかし、さすがに昼間はいる人は稀…だそうな。さもあらんと笑いながら、いで湯の里を後にした。
   (2006年4月:写真:長湯温泉・Y荘・露天風呂)

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