蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

濃厚接触に憧れて

2020年04月19日 | つれづれに

 週刊誌に「大自然との濃厚接触」という一行を見つけた。「これだ!」と思った。

 暗雲立ち込める巷の喧騒をよそに、人っ子一人いない自然の風の中を歩く。蹲り腹這いになって、小さな野の花にカメラを向ける……そんな日々を、もう20年も続けてきた。由布高原に、男池の畔に、九重高原・長者原の湿原の木道に、群馬県・嬬恋の原野に、阿蘇の草原に、そして近場の博物館裏の散策路に、加えて我が蟋蟀庵の庭の片隅に、落としたシャッターの数は、もう数えきれないほどになった。

 昆虫写真は、高校生の頃から撮り続けていた。昆虫採集を早めに卒業し、やがて食草と共に採取して育て、羽化の姿を写真に撮って放す……そんな、わくわくする「自然との濃厚接触」を趣味にしてきた。
 そして、小さな野の花に開眼したきっかけは、庭の片隅に無造作に咲いているユキノシタを蹲って撮ったことだった。立った目線では、無造作に咲いている地味な花だったのに、カメラのファインダーに捉えた絵は繊細で美しかった。自然が織りなす見事なまでの造形美は圧巻だった。山野草に詳しいカミさんの親友を師と仰いで、一気に高原の山野草探訪にのめり込んでいった。
 山歩きも高齢者ばかりとなり、若い人たちの自然との濃厚接触が少なくなった。山歩きをしていた青春の頃、出会うのは若者ばかりだった。山ウドを教えてもらった高齢者との出会いは、貴重な記憶である。

 座り、蹲り、腹這いになって目を凝らすと、そこには全く異なった自然が拡がっていた。17~85ミリのズーム、60ミリのマクロと接写レンズ、70~300ミリの望遠、しかもこの望遠は接写機能がついているから、羽のある蝶や昆虫も、離れたところから接写することが出来る優れものである。
 しかし、全部担ぐと、けっこうな重さになる。歳を重ねて、その重さが肩にこたえるようになった。しかも、20年使い続けたカメラの調子が、3年ほど前からおかしくなった。シャッターがなかなか落ちないのだ。その都度、レンズを着け直したり、電源を入れ直したりを繰り返して、やっとシャカッ!と落ちる。シャッターを落とすときは息を止めているから、何度もこれを繰り返していると息切れして喘ぐ有り様である。そのせいで、シャッターチャンスを逃すことも多くなった。羽のある蝶は、花に長くはとまっていてくれない。
 一度修理に出して、目が飛び出るほど(新しいコンパクトカメラが買えるほどの)高額修理代に泣いたことがある。新調した方が早いには違いないのだが、残された余生の時間を考えると無駄な投資とも思われ、喘ぎながら騙し騙し使い続けている。
 最近、家電品や台所用品などを買い替えるとき、いつも感じる惑いである。「あと10年もちます!」といわれて、「そうか、こいつは俺より長生きするのか…」と。「5年寿命の物、ありませんか?」、と本気半分で尋ねて業者を苦笑させることになる。

 久し振りにカミさんに「これ、何を撮ったの?」と言わせた。我が家の庭で、帝王の座を占める父の形見の松の古木である。日ごろ何気なく見ていた新芽に接写レンズを向けると、こんな写真になる。芸術写真を撮っているつもりはない。これこそ、「大自然との濃厚接触」である。
 淀川が満開を迎え、昨年の父の日に次女が贈ってくれた羽衣ジャスミンが、タワー仕立ての鉢の中で細長いピンクの蕾をいっぱい着けた。開花迄、あと数日だろう。長く伸びたコデマリが、白い花房を風に委ねて揺れている。

 濃い黄砂が、景色を曖昧に霞ませる週末である。
                                   (2020年4月:写真:松の新芽)