蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

祈りの朝に

2019年10月05日 | つれづれに

 暦の上では秋たけなわというのに……33度!観測史上、10月の最高気温を記録。そんな大宰府である。
 夏バテの名残を引き摺りながら、今日も照りつける日差しの苛烈さに辟易している。また秋が短くなる。四季折々の風情を大切にしてきた日本が、急速に亜熱帯に変わりつつある。有識者の温暖化予測には、どこか大きな「嘘」が感じられてならない。

 ジジババの不調を心配した長女が、早朝・深夜の格安航空券を使って助っ人に来てくれた。その前日、通勤途中の階段で人にぶっつかられ、転倒して半月板を痛めたというのに、びっこ引きながら予定通りやって来てくれた。気が緩んだのか、俄かに身体が重くなった。
 カミさんと二人、すっかり娘に甘えて家事万端を引き受けてもらった。僅か6日間の滞在だったが、老々介護予備軍みたいだった我が家に、暫しの安らぎが戻った。「持つべきものは娘」と実感しながら、朝晩少し涼しくなった日々に元気を取り戻しつつある。
 あまりにもシンドイので、掛かりつけのホームドクターに検査を頼んだ。しかし、結果は全ての数値は正常値、心配していた前立腺も異常なしだった。やっぱり、夏の暑さに負けただけらしい。(歳のせいと敢えて言わないところは、切ない負け惜しみである。)

 いつもの朝のストレッチを終えて、6時過ぎに朝のミニ散策に出る。我が家から歩いて5分も掛からない所に、石穴稲荷神社がある。石の鳥居を二つ潜り、赤い鳥居が立ち並ぶ石段を30段ほど上がると本殿。その脇を更に30段ほどを登ったところに奥の院がある。
 奇岩怪石がごろごろ転がる昼なお暗い空間に、お狐さんが睨みを利かす。不気味ささえ感じる此処は、かつて子供会の肝試しの場だった。公民館に泊まり、児童公園でのキャンプファイヤーで盛り上がった後、2人一組でこの奥の院のノートに記帳させに行かせる。中学生になっていた長女たちは、途中で子供たちを怯えさせるお化けの役だった。
 以来カミさんは、昼間でも怖いからと、奥の院までは登って行かなくなった。

 「かんなびのうましところ」……二の鳥居の側に置かれたパンフによれば、古くから博多商人の間で、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷、福岡県飯塚市の大根地稲荷と並ぶ、九州三大稲荷として信仰を集め、特に霊験あらたかなお稲荷様として親しまれてきたという。詳しい文献資料は残ってないそうだが、明治の由緒書きや信者の家々に伝わる伝承によれば、菅原道真公が太宰府に下られた際、道真公をお守りして一緒に京都から太宰府に来られた神様とする伝説が有力という。(因みに、太宰府は菅原道真公なしには語れない。意地悪な言い方をすれば、それしか語るものがない……こんな言い方をすると、太宰府に住めなくなるかもしれない。それほどに、道真信仰が熱い土地柄である。)
 更に、こんないわれも書いてあった。幕末、尊皇攘夷の公卿五人が太宰府に身を寄せた。その筆頭で後に明治政府の太政大臣となった三条実美公が、太宰府の延寿王院に滞在中に大事な太刀を紛失した。困った実美公は石穴稲荷神社で所願成就の祈禱を行ったところ、たちどころに太刀が現出し、ご神徳のお蔭を感謝した実美公は幣帛を奉納、その後も五卿らと石穴稲荷を訪れた。三条実美公が奉納した唐櫃は、今も大切に保管されているという。
 明治31年には、膝を痛めた横綱千代の山が怪我の回復と必勝祈願に参拝、翌年の場所で全勝優勝を果たしたという。
 日頃は意識しない小さなお稲荷さんだが、どうしてどうしてとんでもない由緒を持っていた。
 
 一日の家族の平穏を祈り、お狐様の頭を撫でた手で肩の神経痛を撫でることが、この夏以来の習慣になった。仄暗い杜の中に何本ものウバユリが立つ。地味な花を愛で、やがて楕円形の実が次第に大きく膨らむ。その変わりゆく姿を見守るのも毎日の楽しみである。
 小さな池では、時折アオサギが佇む姿も見かける。
 昨夜は、この森から久し振りにフクロウの声が届いた。

 38度の酷暑に負けたのか、今年はオキナワスズメウリもカラスウリも花実を着けない。
朝晩のハナミズキの落ち葉を掃くだけの、寂しい秋である。
               (2019年10月:写真;仄暗い石穴稲荷奥の院)