蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

明日の重さ

2015年08月16日 | 季節の便り・旅篇

 今年初めて、ミンミンゼミの合唱を聴いた。都市部では殆ど聴くことがなくなったこのセミが、此処国東半島の六郷満山を包む深い木立の中では、まるで当たり前のように鳴いている。アブラゼミもツクツクボウシもクマゼミも霞むほどに、豪快に鳴き上げていた。
 もう幾度訪れたことだろう。丸く豊後水道に突き出た半島の中央に両子(ふたご)山(721m)や文殊山(616m)がそそり立ち、そこから放射状に28の谷筋が海に下る。その谷筋の山腹の深い木立の中に、33の古寺が散在する霊場である。東京便が福岡空港を飛び立って暫くすると、この半島を左下に見ながら高度を上げる。見下ろせば、認知症が進んだ脳の断面図を見るような佇まいが、国東半島の姿である。

 大分県宇佐市の宇佐神宮を中心とする八幡信仰、神仏が習合する天台宗密教寺院群は「国東六郷満山」と言われる。だから、寺院参道の一角に鳥居が立っていたりする。
 地図の上では、それぞれの寺院は側近くあっても、一旦谷筋を下って別の谷筋に登り直さないと辿り着けない。勿論、山道は通じているが、離合も出来ない細い道であり、対向車の影におびえなければ走れない心細い道が連なっている。何度も車でお寺を廻りながら、その都度心細い思いをした。対向車が来れば、どちらかが(気の弱い方が…いや、心の寛い方が)下がるしかない。曲がりくねった細い山道をミラーを頼りにバックするのは、決して楽しいドライブではない。
 ただ、初めて訪れた40年ほど前は、野の道や田圃の畔、小暗い木立の下に、幾つもの野仏がさりげなく置かれていた。山野草と同じく、心無い旅行者が持ち去ったり、悪徳業者の盗難に遭って、今では随分姿を消してしまっているのが寂しい。

 旅の二日目、初めて訪れた峨眉山・文殊仙寺、私の干支・卯年の守護仏である文殊菩薩を祀ってある。普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍である文殊菩薩、「三人寄れば文殊の知恵」と言うように、智慧を授ける仏様である。
 深い木立の中を2体の仁王が立つ山門から、300段ほどの苔むした石段を上がった奥に、崖に抱かれて峨眉山・文殊仙寺が潜む。本殿近くの左の崖は一面イワタバコの群生地であり、盛りを過ぎた淡い紫の花が咲き残っていた。
 初めて訪れて以来、一目で虜になった。蝉時雨に包まれた木立の深さ、岩に抱かれた静寂、そして卯年の守護仏…いずれ彼岸に渡る日が来たら、遺骨の半分をこっそりこの木立の奥に散骨して欲しいと思うほど、この古刹に入れあげている。(残り半分の遺骨は、沖縄・座間味の海に散骨する)
 引いたお御籤が「大吉」と出て、小さな文殊菩薩の像をいただいた。若住職の短い講話の中で、「文殊の知恵とは、明日を想うこと」という意味の言葉が印象に残った。残り少ない「明日」ではあるが、後に訪れた熊野磨崖仏下の胎蔵寺の住職にそう告げたら、「一日一日が大切な明日です」とたしなめられ、励まされた。明日と言う時間に、長短の重みの差はない、この一刻一刻を大切に重ねて、一日一日の明日を愛しんでいこうと思った。

 両子寺(ふたごじ)に詣り、昼食の後は富貴寺を訪ね、熊野磨崖仏は足の疲れを労わって今回は見送り、その麓の胎蔵寺で「芽」という小さなお札のシールを干支のウサギの石像に貼り付けた。住職の勧めで家内を呼んで健康祈願のお祓いを受けて背中を叩かれ、木札に「健康祈願」と書いて納め、護摩焚きに委ねた。1000円の志を置いたら、祈願済みの国東名物「魔無志あめ」なるものを一袋いただいた。何故かマムシの粉が入った甘露飴である???「精をつけて明日を生きなさい」という、これも仏の慈悲か(呵呵!)

 心配したお盆の渋滞も鳥栖ジャンクションの一瞬であり、ほぼ定刻に天神に帰り着き、街で夕飯を摂って、19時40分に無事帰り着いた。
 この日の歩数計は7,200歩、その殆どが山道と急な石段である。国東半島・六郷満山の古刹は、健脚でないと歩けない。先年痛めた膝に不安があったが、何の支障もなく数百段の石段をこなすことが出来た。
 毎朝重ねているストレッチと、セルフ・リハビリのお蔭か、それとも文殊菩薩の慈愛のまなざしが密かに注がれていたのか、ひとつ自信を取り返した「姫島キツネ踊りと六郷満山・国東半島2日間」の旅だった。
              (2015年8月:写真:文殊仙寺山門の仁王像)

幻夜、狐跳ねる

2015年08月16日 | 季節の便り・旅篇

 18時45分、夕暮れの残暑を引き摺るようにフェリーが伊美港を出た。波ひとつない海は油を流したように穏やかで、雲間に没しようとする夕日が不気味なほどに真っ赤だった。大分県国東半島北北東の外れ、姫島までの狭い海峡を20分で渡る。姫島港に降りて3分も歩くと、もうそこが盆踊りの会場だった。

 長年の憧れだった。お盆は家にいてご先祖と静かに過ごすことが習慣になっている世代には、遠い小島の盆踊りは縁ないものと諦めていた。しかし、仏様は広島の兄のもとの仏壇に移り、お寺の納骨堂に孫たちと参ったあとは、もう私たちを縛り付けるものはない。西日本新聞旅行社のツアーを見て、その日のうちに一番乗りで申込んだのだった。
 孫二人と娘と、気の置けない家族だけの6日間。いつの間にか大学1年と高校1年に育った二人は、もう膝の上で戯れていた頃の幼さは微塵もなく、大きく羽ばたこうとする青春真っ盛りである。ひたすら爆食、爆買い、爆睡の6日間はあっという間だった。「驛(うまや)」での牛タン三昧、居酒屋「浜太郎」での海鮮尽くし、白髪の義弟がギャルソンとして手伝うAUTHENTIC LIVING BUTCHER NYC.でのTボーンステーキとリブアイステーキ(厚さ3センチほどもある熟成肉を、5人で1.1キロを食べて大満足!)、馴染の「きくち亭」でのフレンチ・ランチ、浴衣で天満宮にお礼参りした後に訪ねた豆腐料理専門店「梅の花・自然庵」での引き上げ湯葉会席、存分に食べ、存分に寛ぎ、したたかに眠って、名残りを惜しみながら3人は帰って行った。
 孫たちと天神で別れたその足で、21人のツアーバスに乗り込んで国東半島に走った。お盆が始まれば、高速道路にさほどの渋滞もない。

   歌えとせめかけられて 歌いかねたよ この座敷
   座敷は祝の座敷 鶴と亀とが舞い遊ぶ
   亀のじょうは 色は黒けれど 目もとよければ様殺す
   殺しはこの町に二人 どれが姉やら妹やら
   もろたら妹をくれて 妹みめがようで姉まさり
   さそなら妹もさそが 同じ蛇の目の唐かさを
   唐かさ柄もりがしても お前一人はぬらしゃせぬ……

 何やら意味深長で、そこはかとなく隠微な気配もある「姫島盆踊り歌」が歌い手を替えながら延々と繰り返される中に、島内7会場を踊り連ねて、19番の踊りが披露される。観光化した徳島の「阿波踊り」や熊本の「山鹿灯籠踊り」とは違って、小さな島の盆踊りは実に素朴でいい。小学生や中学生、小さな子供達やお母さんお父さん、一般の島民…もともとは先祖供養の念仏踊りが盆踊りの原点、お盆で島に帰ってきた人々も交えて、様々なグループが思い思いの扮装で島の夜を2時間かけて踊りあげる。
 圧巻は18番目の「狸踊り」、そしてラストを飾るのはCMやニュースで全国区となった子供たちの「キツネ踊り」である。お腹をポンポコリンに膨らませて臍を描き、真っ黒真ん丸に塗った目に、笠をかぶって徳利を肩にかけ大福帳を腰に下げた「狸踊り」の滑稽味。白塗りの顔に豆絞りの手拭いで頬かむりし、朱で髭を描き提灯や唐笠をかざして、駆け回り飛び跳ねる子ギツネたちの仕草の可愛らしさ!はるばるやって来た価値は十分にあった。
 人いきれで汗に濡れた肌に、吹き渡る海風が心地よかった。

 凪いだ海峡を、フェリーの船底の車載部分に茣蓙を敷いて蹲る難民のボートピープル状態で渡ったのが、この旅の第一のオチ。そして、汗にまみれた長旅の疲れと、4時夕飯という変則的なツアーに小腹を空かせて11時にホテルに帰り着き、シャワーを浴びて冷たいビールで夜食のお握りを食べようと思ったら、このホテルにはアルコールの自販機がなかったというのが第二のオチ。
 それでも満ち足りた思いで、子ギツネの躍動を瞼に甦らせながら爆睡の眠りに沈んだ。
                   (2015年8月:写真:姫島キツネ踊り)