蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

耳を澄ませば……

2015年08月05日 | 季節の便り・花篇

 脳が溶けそうなほどに暑い真昼が過ぎ、ようやく翳りを感じ始める夕風の中を冷たい井戸水をたっぷりと撒いて、緑の木々や鉢の山野草の火照りを鎮めた。撒き終わった庭の片隅で小さな白鷺が飛んだ。風に吹かれる清楚な揺らぎが、遠い遠い微かな秋の気配を呼び込むように涼を届けてきた。
 親しい友人が昨夕届けてくれた鉢の蕾が開いた。サギソウ……この凛とした一輪から、我が家の庭の「小さな秋」が始まる。

 湿地に自生する花でありながら栽培種も多く出回っており、「夢でもあなたを想う」という花言葉と相俟って、愛好する人は少なくない。しかし、毎年咲かせ続けるのは結構難しく、わが家でも何度も枯らしてしまった苦い経験がある。
 そして、虫好きの私にとってこたえられないのは、この花の花粉が長い口吻を持つスズメガ科の蛾によって媒介されることである。飛翔力に長けたスズメガが蜜を吸うときに花粉が複眼に付着し、遠いところまで運ばれてほかの湿地の花に授粉することで、遺伝子の交流が頻繁に起きるという。自然が見せてくれる驚異的な知恵は感動的でさえある。
 だから、本来ならば繁殖力は強い筈なのに、湿地が乾燥して失われたり、宅地化やゴルフ場開発で埋め立てられたり、心無い愛好者や業者の盗掘が絶えないこともあって、既に絶滅した湿地も少なくない。環境省のレッドリストで「準絶滅危惧種」に指定されている貴重な山野草である。
 そう思うと、夕暮れのこの一輪が一層健気で愛おしく思われてくる。
 少年時代、毎日のように庭先を訪れていたスズメガも、その仲間で蛾にしては珍しく鱗粉のない透明な翅を持つアオスカシバも、今ではめったに見ることが出来ない。生態系は、間違いなく変貌し続けている。

 今年は例年になく、クマゼミを凌駕してアブラゼミが元気よく、忘れかけていたニイニイゼミも頑張っている。ツクツクボウシは昨年より11日早く初鳴きを聴かせ、薄明のヒグラシのカナカナ、日が差し始めるとクマゼミのワシワシをアブラゼミのジリジリとニイニイゼミのチ~ジ~が追いかける。ツクツクボウシが次第に数を増し、暑熱の中に潜む秋を少しずつ育んでいく中で日が暮れ、再びヒグラシがカナカナと夜を引き降ろしてくる。蝉が紡ぐ夏の一日のリズムである。
 ミンミンゼミは最近聴くことがなくなった。

 数え残した抜け殻を加えて、今年の夏のセミの羽化は78匹になった。手の届かない枝先に、今年の夏の想い出として一つの抜け殻を残してある。木枯らしに震える真冬、枝先にその姿を確かめて寒さを忘れるのも悪くない。

 真っ赤なミズヒキソウが立った。雑草の部類に入る草には違いないのだが、好きで生い茂らせている。雪の中に立って真っ赤な実を提げるマンリョウの実はまだ青く、緑一食で彩りの少ない庭に、小さな粟のような真っ赤な花穂を立てるミズヒキソウの風情は捨てがたい。立原道造の詩「のちのおもひに」を知るまでは、私にとってもただの雑草だった。

   夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりの林道を

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
   ──そして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
   だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

   夢は そのさきには もうゆかない
   なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
  
   夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
   そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
   星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

 八朔の下の塀に、いつの間にか一匹の蛹がとまっていた。多分、クロアゲハだろう。
 スミレを食い尽くしたツマグロヒョウモンも、パセリ8株を茎だけにしてしまったキアゲハも、どこか見えないところで蛹になっていることだろう。

 こうして、暦の上ではあと3日で夏が終わる。
 流汗淋漓の日々はまだまだ続くが、せめて気持ちの中で耳を澄ませて、「小さな秋」の目覚める囁きを聴こう。
                   (2015年8月:写真:サギソウ)