蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

錦秋の名残

2013年11月22日 | つれづれに

 「想い重ねて」……この言葉を添えて、母校・修猷館高校昭和33年卒業55周年記念同窓会の案内を送った。「さんざん会」という同期会の実行委員長を務めて25年になる。
 33年の卒年に因んで付けた名前だが、時に「散々会」とからかわれ、時に「燦燦会」と自賛して胸を張る。
 
 時の移ろいには掉さすこと叶わず、この1年も幾人かの館友を彼岸に送った。452人中(内、女性73名)、判明しているだけでも77名が彼岸に渡った。(内、女性は1名だけという驚異!)消息不明者48名の中の推定物故者を含めれば、およそ2割が既に鬼籍に入った……というより、むしろ70代半ばのこの歳で8割が生きていることの方を慶びたいと思う。
 11月16日、八仙閣に92名の館友が集った。初の試みとして、開宴前に同期の博多座社長A君の講演「博多座奮戦記」、後輩46年卒の女性講談師Kさんの講談「緒方竹虎」の熱演に盛り上がり、総会にはいった。
 今回の55周年記念総会には、格別の感懐がある。「さんざん会」を殆ど一人で支え続けてくれていた名幹事・M君がこの1月にまさかの急逝、彼の奥様をお迎えして総員の謝意を込めた感謝状と花束を贈るという大きな目的があった。彼なしには、今日の「さんざん会」の隆盛は決してあり得なかった。

 30周年を期して、果たせなかった修学旅行を企画(修猷館高校には、当時修学旅行はなかった)、博多駅から列車一本を借り切って湯布院に走ったのが「さんざん会」の実質上のスタートだった。定期列車の間隙を縫って走った走行時間が3時間33分!偶然が齎した奇跡の「3」の羅列に歓声を上げた日が、まるで昨日のように思い出される。以来四半世紀の歳月を重ねて、今日の盛会がある。その全てを支えたのが、一見豪放磊落に見せながら、実は誰よりも細心の気働き・気配りが出来る名幹事M君だった。
 終生バスケットボールの指導に情熱を傾け、通夜と葬儀にはたくさんの教え子たちや仲間、館友が集って、涙ながらに送った。悲しく、それでいて心温まる盛大な告別式だった。

 彼が心を残しながら企画半ばで逝ったあと、G君を中心に新体制が整い、55周年記念総会が実現した。久しぶりの懐かしい再会もあった反面、常連の幾人かが体調不良などで参加叶わなかったことに、懸念と一抹の淋しさが付きまとう。
 M夫人を前に、実行委員長としての涙の追悼の挨拶から始まり、伝えることの出来なかった「ありがとう!」を感謝状に添えて花束と共に贈ってM君の奥様の内助の功を讃え、恒例の館歌斉唱でお開きとなるまで、八つの円卓に彼を偲ぶ話は尽きなかった。
 胸に温もりを抱き、再会を期して、館友たちはそれぞれ夜の巷に三々五々散って行った。

 足並みが乱れた錦秋の秋、紅葉が朽ち葉に衰えていく季節だった。同窓会の翌日から体調を崩して急性腸炎となり、貧血を起こして点滴に通う羽目になった。右ひざのリハビリはまだ続いているが、漸く普通に歩けるようになった。
 「不惑」の世代を生き、やがて「知命」(天命を知る)50歳を前にしてスタートした「さんざん会」の仲間たちも、既に「古希」を半ば過ぎようとしている。それぞれ何か身体に異常を抱えた友が多いのも仕方ない世代である。
 同窓会機関紙「菁莪」への報告の最後に、こんな言葉を添えた。

 「M君、長い間ありがとう。君は多分今頃、彼岸に渡った仲間たちと「冥途のさんざん会」を結成して、待っていることだろう。しかし、残された私たちは、君の分まで一日も長く元気に生きることで、君の恩に報いたいと思う。暫く待たせるよ。」
                  (2013年11月:写真:庭の錦秋の名残)