蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

脚の記憶

2013年11月13日 | つれづれに

 私の山歩きは、中学生の頃から始まった。福岡市近郊の脊振山―鬼ヶ鼻岩―金山、宝満山―仏頂山―三郡山―砥石山―若杉山などの縦走を繰り返した「脚」の記憶は、中学3年間1日で60キロを歩く3度の遠行会でしたたかな自信となった。
 早朝6時に中央区西公園下の学校をスタートし、「一歩々万里を行く」とい幟を靡かせながら、12時間かけて15里を歩き抜く。寒風吹きすさぶ12月14日(初めは1月15日だった記憶がある)、これが忠臣蔵四十七士の討ち入りに因んだものかどうかは、定かではない。当時はウォーキングシューズや、小さなリュック、ウエスト・ポーチ、魔法瓶などという洒落たものはなく、梅干しを入れたお握りを竹の皮で包み、風呂敷で腰に巻き付けて、アルミの水筒を提げ、ズックで歩いた。
 福岡市を西に横断し、糸島まで歩いて戻る強行軍だったが、水分補給の小休止やお弁当を食べる大休止の時間を除けば、時速6キロ近い速歩だった。夕闇が落ちる校舎まで意気軒昂で踏破したのに、そこから辿る1キロの家路が限りなく遠く、足の重みを引き摺った記憶がある。
 この3度の60キロ遠行の自信が、富士登山での忘れがたい記憶に繋がる。高校2年の2学期の終わり、教師の許しを得て(おおらかな高校だった)修了式をサボり、友人と富士登山に出掛けた。富士宮口登山道を目指し、2合目まで行くバスをわざと1合目で降りて、ひんやりと霧に包まれた樹林の中を二人だけで歩き始めた。朽木の陰にひっそりと立つ、純白の奇妙な隠花植物・ギンリョウソウを初めて見た。
 各合目ごとに茶店がある。ついつい油断して甘酒や飲み物を摂りながら8合目で1泊した時、もう帰りの汽車賃しか残ってないことに気付いて愕然!夜中の雨音を聴きながらうとうとして、午前4時に胸突き八丁の最後の登りに挑戦、希薄な空気に喘ぎながら山頂の剣が峰に辿り着いた。7月19日、下界は31度、ここ富士山頂の気温は2度、激しい温度差に唇はガサガサだった。
 一面にうねる雲海から昇る御来光に感激しながら御鉢巡りを終え、「大丈夫、歩けるさ」と嘯きながら、7時に御殿場口に向かって下った。砂走りの長い傾斜を霧に包まれながら駆け、滑り落ちるように下るうちに、新調したバスケットシューズはぼろぼろ。次々に追い抜いて行く下山バスを横目に見ながら、バス代のない私たちは黙々とひたすら歩き続けた。米軍演習場の中である。時折黒人兵がカービン銃を抱えてガサガサと藪の中から現れる。緊張に疲れ、へとへとになって御殿場駅に辿り着いたのは既に午後2時を過ぎていた。

 久住山、大船山、稲星山、白口岳、硫黄山、などの久住連山の山々を踏破し、えびの高原から大浪池―韓国岳―獅子戸岳―新燃岳を縦走し、多良岳―経ヶ岳を歩き…高校・大学時代の息抜きは、もっぱら山に求めた。
 就職して、長い間「脚」の想い出が途絶える。唯一の記憶は、中禅寺湖1周25キロを会社の同僚と歩いた想い出だけである。
 リタイアして、ヒマラヤを登る山の友人と40年ぶりの山歩きが復活して、今日に至る。登り残していた九重連山の星生山、沓掛山、下泉水山、上泉水山、黒岩山、三俣山も彼らと極めた。

 アメリカに渡る度に、娘とカリフォルニア州・ヨセミテ国立公園でキャンプして、ナバホ滝横をずぶ濡れになりながらミスト・トレイルを滝の上まで登ったり、ユタ州・ザイオン国立公園のエンジェルス・ランディング(天使が舞い降りる岩)という急峻な岩山の狭い尾根道を、左右500m落ちる深い絶壁に慄きながら鎖伝いによじ登ったり、無数の奇岩怪石が林立するブライスキャニオンの底に連なるロング・トレイルを終日歩いたり、アリゾナ州・アンテロープ・キャニオンの神秘的な地底洞窟を経巡ったり、南カリフォルニアのヨシュアツリーパークで、ロッククライミングや懸垂下降の訓練をする山男を見上げながら、岩と不思議な形のサボテン系のヨシュアツリーが群生する荒野を散策したり……そんな時、いつも力強い伴侶として握られていたのが、今この膝をサポートしてくれているチェコ製のLEKIというトレッキング・ポール(ストック)である。

 脚に不自由があると、何故かしきりに脚で歩いた記憶ばかりが蘇る。自重しながら、「必ず回復して、もう一度脚の記憶を綴ろう」と心に決めている。
 右肩腱板断裂は、手術と2ヶ月あまりの入院、半年のリハビリで克服し、来年は再びスクーバ・ダイビングに復帰して、優雅な海底遊泳を楽しむことが出来る見通しが立った。
 膝だって克服し、急峻な登山は無理でも、せめて飯田高原・長者原の「自然探究路」の四季折々の散策、御池周辺の山野草探訪、日常の散歩道・天神山散策と「野うさぎの広場」での癒し、夕暮れの「春の森」「秋の森」のそぞろ歩き等々を楽しむまでには、必ず回復してみせる!

 ……と、やや大袈裟な決意にしがみつきながら、リハビリに通う日々である。
          (2013年11月:写真:ブライスキャニオンのトレイルにて)