浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

父と母

2016年02月24日 | 日記

長崎に転勤してまもなく、母が言った。

「あなたが生まれたところへ行ってみようか!」
厳密に熊本弁で言えば「アンタバ 生んだ所へ 連れて行くバイ!」

むかし昔、大昔のこと。昭和51年(1976年)夏、私が40歳、母は67歳。
長崎県佐世保市は父と母が結婚し、長女と次女が生まれた地。長崎県大村市は私が生まれたところ。
だから、私が長崎へ転勤したことは、母にとってもうれしかっただろう。

当時の長崎駅から国鉄大村線に乗った。大村駅の次、小さな竹松駅で降りた。いつも利用しているように
スタスタと駅を通り、国道らしい広い通りに出た。「右へ折れて少し歩くと桶屋さんがある・・・」
あった!
「そこから左へ海岸の方へ入る・・・」
母の記憶はここで途切れた。

もう40年昔の町、変わっていないのは国鉄の駅と桶屋さんだけ、母は浦島太郎のようにボー然と変わり果てた
思い出の町に立っていた。

当時は我が家が遠くに見えたらしい。遠くに大村湾が広がり、手前に大村海軍飛行場。父はその端にあった
海軍航空隊水上機部隊に所属していた。

昭和12年7月、中国で盧溝橋事件勃発、日本は泥沼の戦いをはじめてしまった。風雲急を告げ、佐世保港では
水上機母艦の改装が進んでいた。父たちの水上偵察機部隊が乗る母艦だった。
大村湾に沿う一本の滑走路、ここから渡洋爆撃、つまり、日本列島の西端にある長崎大村から東シナ海を越え
中国大陸へ、爆撃隊が飛び立った。
その爆撃機が轟かす爆音の下で私は生まれたと母が語った。母は私たちが住んだ家を探したが、もはやその面影を
見つけることはできなかった。

無言の母と二人。母の胸中を察すれば、私には言うべき言葉もなかった。

その朝、父は「行ってきます!」と家を出たはずだ。7歳と4歳の二人の姉、赤んぼの私を抱いた母が見送った。
父は玄関を出た。
しかし、二度と玄関を跨ぐことはなかった。
第二次世界大戦の戦死者310万人。このように玄関を出た人が再び帰ることがなかった。

父は翌年、昭和13年2月24日、戦死した。
私は生後5か月、母は二人の姉と乳飲み子の私を抱いて竹松駅から郷里の熊本へ向かった。

私は78歳、母と50回忌の供養をした日から30年近くが経とうとしている。
きょうは父と母のために、そして戦争で亡くなった多くの方々のためにお経を読もう。
戦禍で亡くなったアジアの人々、戦火を交えた国々の人々への鎮魂も忘れまい。

糸島を走っているうち黄金のミモザと遭遇した。

満開!民家のお庭、バス停は「高祖」高祖山の山裾、南山麓で暖かいのだろう。

姉夫婦の家の庭では梅が満開。

帰路、みぞれ、小雪が降った。気温は6℃まで下がった。