浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

七代後の子どもたちへ

2016年02月01日 | 日記

土曜日の朝だった。

寒い!朝寝を決めこみ、聞くともなしにラジオを聞いていると、
「“七代後の子孫たち”のことを考えたことがありますか?」という話・・・

エー、ナニナニ?寝ぼけ眼は閉じたまま、耳を澄ます。落合恵子さんが語る。

「ネイティブアメリカンの女性が教えてくれたこと。何か重大な判断を迫られたとき、
七代後の子孫にとって、それが良いことか、悪いことか?を考えながら決める」という。
まことに含蓄のある言葉(箴言)。

七代前の私のご先祖様がもし何かをしたとする、ざっと数えて30年×7=210年ムカシの話。
年表を広げてみると、1800年(寛政12年)伊能忠敬が蝦夷地を測量したとある。
その少し前、天明の大飢饉が起こり、多くの人が飢えたのが1783~1788年。
ロシア船やイギリス船が来航、お隣の清国は衰えをみせ、アヘンに蝕まれはじめる。

我が家に残る遺産はいまは皆無に等しい。ただ一つ誇れるものは10数体の仏(ホトケ)さんのみ。
仏像のひとつに文化8年という墨書の銘がある。言い伝えによると、ご先祖は京都まで仏像を求めに
行ったという。最初の目的はお寺の仏像を求めるための旅であった。その際、我が家にも小さな仏を
求めたということか?現在もお寺に伝わる大きな仏像と我が家の小さい仏像がそっくりであることを
考えれば、そう推量するのが自然だろう。

仮に200年昔、私から何代前のご先祖であろうか、さぞ難儀なことであったろう?
寺のご住職と檀家総代の私のご先祖が京の仏壇屋さんへ行った。代金を支払い、重い仏像は
京から淀川を下り、瀬戸内海を横切り、大分鶴崎の港から細川藩の参勤交代の道を通ったのだろうか。
久住の山裾を抜け、阿蘇の外輪山を越えてきたのだろうか?
あるいはまた、京都から仏師を招き、寺の中で仏像を刻んだか?小さな10数体の仏像はそのサンプル
として運ばれてきたのか?

ご先祖様のおかげで、私たちは朝夕、礼拝ができる。ご先祖様は七代後の子どもたちのことへ思いを
いたしたのだろうか。

冬の一日、急ぎ、ウィキペディアを渉猟し、そんないろんな思いをはせたことであった。

ネイティブアメリカンの女性の話を紹介したのはセッセイスト落合恵子さん、1月29日午前9時~
NHKーR第1『とっておきラジオ』ミュージシャン大友良英さんと落合恵子さんの「音楽とことばの
セッション」という番組であった。