私の場合、坂上田村麻呂と聞いて思い浮かべるのは清水寺縁起と
「アルテイの乱」程度です。
だから、東山山頂にある「将軍塚」が田村麻呂の墓だとばかり思って
いました。だから今回この墓を偶然見つけたときは、???でしたネ。
しかし、東山のほうは正確に田村麻呂の墓と書かれた資料は無く、
私の勝手な思い込みだったようです。(一部資料には関わりがある、
と記載されていることもありますが)
静かな住宅地にある公園、といった風情です。この日もご近所の方
が数名ボランティアで草刈をなさっておられました。
田村麻呂は身長191センチ体重120キロの巨漢で、眼光するどく、
アゴヒゲは金糸で編まれていたとか。
しかし平時は談笑し、老少も親しむ、と書き残されていますから、正に
気は優しくて力持ち、の絵に描いたような豪傑だったようです。
この墓が田村麻呂のものである、と指摘されたのは近年で、それ以前
はこの地に馴染みの深い中臣氏の墓ではないか?とみなされていた
そうです。そういえば公園の入り口に中臣氏に関する看板が建っていま
いたな。
しかし、大正時代に発見された木棺墓は、ハタシテ2メートルもあったん
でしょうかね。
最後の余談。田村麻呂の小像が天保時代に盗難にあったそうです。それ
を買い戻して清水寺に寄附したのが明石博高。
勧業政策をはじめ、その他モロモロ、明石氏の京都に対する貢献度を
京都市民はもっと評価すべきでアル、なんてエラソーなこと言ってすん
ません・・・。
田村麻呂の墓。京都市山科区西野山岩ケ町。