私がまず驚いたのは、この仁斎邸に普通に人が住んでいて、表札も「伊藤」となっていたって
ことです。まぁ、当たり前といえばそうなんですけどね。
建物は明治に建てられたたものだそうですが、遺構をもとに再建された、と書かれています。と、
いうことは延宝の大火の後に建築されたのを再現したのでしょうか。
もとは「鶴屋」という商家だったそうです。長男は医者となり、次男(仁斎)は学者となった
ので、商売は廃業したのでしょう。(石田 一良著 伊藤仁斎 吉川弘文館)
里村家、角倉家、本阿弥家や尾形家とも親戚にあたるようです。当時の京都に暮らす
「ハイソな一族」の一人だったんですナ、仁斎先生も。
堀川通りを挟んだ向かい(西側)には山崎闇斎宅があったそうです。今の学生街みたいな地区
だったのかも知れませんね。まぁ、京の都には剣術道場より画塾や学塾のほうがふさわしいやね。
今回はちょっこし硬めの案内でしたナ・・・・・・。
京都にはあちこちに『○○跡』の石碑があって気づかすに通り過ぎてしまうこともしょっちゅうですね。
中学時代の通学路に『在原業平邸跡』があり、よく友達と石碑の前にカバンを放り出しておしゃべりしたものです。
「ザイハラギョウヘイって誰やろ?」
「知らんけど、へ~んな名前!」
「キャハハ…」
なんて言いながら。
前回の『四条西洞院』も職場のすぐ近くでしたが殆ど気が付いていませんでした。(爆)
すよね~。なかには「ダレ、コレ?」って人も
いますが・・。また、そんな人の経歴を調べ
ると以外な真実を発見することもあります。
でも、なかなか足元に注意しながら街中を歩く
ことって少ないですよね。