秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

芭蕉と鳴滝

2009年11月01日 09時02分16秒 | 京都非観光迷所案内
相方の叔母さんが鳴滝にお住まいで、先日から用足しのお手伝いに何度か足を運んでます。

この近辺って今までは通過地点で、ほとんど散策することって無かったんですけどね。
今回は約束の時間より早めに家を出て、以前から気になっていた場所へ行ってみました。

まず、鳴滝の語源となった滝。イニシエの頃は西大路までその滝の音が聞こえた、
と云われたそうですが、私の頭の中の地図をどうひっくり返してもそんな落差の
ある場所は浮かんできません。

恐らく何度かの大水で川相も変わり、川自体も縮小したのでしょうね。

この滝が地名の由来となった滝なのかは分かりませんが、なにしろ大昔の話ですからねぇ。

昔、滝の音が異常に聞こえて、知恵のある人が「これは洪水の前触れかも知れない」
といって村民を退避させたところ、大水害が起こったけど難を逃れたので「鳴滝」
の名がつけられたと云う伝説も残っています。

いずれにせよ、当時の滝の面影は今は失われています。この滝の音では上の国道
までも聞こえませんからね。

規模は小さいけど、こんな車が頻繁に行きかう道路を少し下がっただけで、別天地
があったとは・・・・・。

この日は日中は少し汗ばむほどの気温でしたが、滝の傍は涼風が吹き渡り、夏でも
ずいぶん過ごしやすいのでは、と思えました。

おそらくそんな事から三井秋風もこの地に山荘を構えたのでしょうか。
その秋風の山荘を松尾芭蕉が訪ねた折に書き残したのが

「梅白き のふや鶴を 盗まれし」

これは島原の遊女太夫左門を失った秋風に芭蕉が送ったのではないか、という説も
あるようです。

↑これは石碑の裏側。

無知無学の私には真偽のほどは分かりかねますが、川原の近くまで降りて、街道の
ほうを見上げながら、もしかしたらあの辺りに茅葺の庵が建っていて、そこに芭蕉と
秋風が立って滝を眺めていたんだろうか、と思いをめぐらせてみました。

迷所案内を見てこの碑を訪ねる人はいないと思うけど、場所は福大路交差点を
周山方面へ。少し走ると酒屋さんがあって、その脇の石段を降りたトコです。









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2 コメント

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昔は (タカユキ)
2009-11-01 12:22:54
双ヶ丘の東側に大きな池があったそうです。
ひょっとしたらそこへも流れていたかも
知れませんね。

京都は今でもたくさんの川が暗渠になって
流れているので、名残があるのかも。

地図で区、町の境界線は、案外、川だった
ところが多いらしいですね。

しかしこの場所も観光の盲点ですな、、、、、、。
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水の都かも。 (秀明)
2009-11-01 13:54:12
双ヶ丘の池は南北80m、東西4,50mもあった
そうですが、江戸時代までに自然に枯れて
しまったそうです。

なにしろ為政者の大きな仕事の一つが治水で
あった、といわれるくらいですから京の都は
本当は水の都だったのかも知れませんね。

なにしろ京の地下水量は211億トンもあるそうです
から・・・。

前回のタイトル「タカユキさん」への「さん」
が抜けてました、スンマセン。
(送信暦で打ち込んだもんで・・・。)
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