なんでもアラカルト

エッセイ・イラストを対等に扱ったまったく新規な本の出版に関連する記事(Daily)

「なんでもアラカルト」2008012前半(12/2-14)まとめ(20091101転記)

2009-11-01 10:44:30 | Weblog
「なんでもアラカルト」200812前半(12/2-14)まとめ
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20081202>>>「なんアラ」SE秦野菖蒲店店頭販売危機脱出その後は?
「なんアラ」10/3のブログで下記を記載した。
<以下10/3「なんアラ」ブログ一部>
つまりこのひと月で7冊も販売されたのである。
こちらでメール上などで把握されている方はお二人しか居られないので、数名の方々がこのブログ及び直接のお願いメールを読んで頂きSE秦野菖蒲店に足をお運び戴いたことになる。
ここに改めて感謝の意を表すると共に、「なんアラ」はやはり暖かいサポートがあって始めて成り立っていると実感したものである。
販売内訳は創刊号・通巻2,7号が各1冊と通巻8号が3冊、そして何とまだ正式販売表明をしていない通巻9号も1冊販売されていた。
重ねて御礼を申し上げます。
以上の如く、「なんアラ」SE店頭販売は当面の危機を脱出した。
そしてその2ヵ月後となる一昨日11月どの締めをするためにSE秦野菖蒲店を訪れた。
結果は2冊販売のみに留まっていた。
しかもその2冊は数日前に家内を通して「なんアラ」サポーターであるTNさんが購入いただいた情報のみと言うことである。
店長の顔も少々苦笑い状態であった。
確かに景気が悪くなってきていることが直接・間接に影響を受けていることは間違いない。
後はこの「なんアラ」が如何に人の役に立ち、購読する価値があると読者が実感できることしか対応は無いと考えている。
地道に拡販活動を続けて行く事としよう!!!
再度現在のSE秦野菖蒲店店頭販売の状況を下記に示すと共に、SEでの店頭販売が途切れないために是非足をお運び頂きたいと思っている。
<以下現在のSE秦野菖蒲店の状態>
1.最近まで有った本棚から「なんアラ」見本は撤去されています。
2.受付カウンターの後に有った「なんアラ」創刊号~通巻9号も事務所に移動されています。
3.お買い求めの際は「なんアラ」通巻?号とカウンターに言って頂ければ事務所内から持ってくることになっています。事前に「なんアラ」チラシ等で各号の内容を御確認下さい。
4.購入数が増えてくると、上記1&2が復活することになると思います。
以上よろしくお願いします。
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20081203>>>お袋逝く!
「なんアラ」で何度も登場したお袋があっけなく逝ってしまった!
退院後3日目となる昨日朝、いつもどおり朝食(エンシュアリキッド40cc位と重湯少々)を9時前にとった。
その後ベッドを倒し、その20分後には家内が枕の位置を確認していた。
そしてそれから約20分後に家内の叫び声で飛んでいったら、尋常ならざる状態を悟った。
119番通報すると共に救急隊の指示で家内と分担して心臓マッサージを続けた。
救急隊が到着後も本当に懸命な蘇生対応を行ってもらった。
受け入れ先の足柄上病院も決まり、救急車で搬送中はずっと手首を掴んで祈るような思いで5分間を過ごした。
病院到着後も心臓の痙攣的な脈は時折出るものの、血液を循環させる行動は遂に最後まで発生しなかった。
その間次女親子、家内、長女親子と到着したが、回復は望めなかった。
そして11時38分に死去が医師の下に宣告された。
司法解剖はせずに老衰と言うことで了承した。
享年88歳、後1ヶ月で89歳に届く所であったが、本人は満足してあの世に逝ったと思っている。
異常事態発覚から僅か3時間の出来事で、いまでも信じられない光景が次々と脳裏を駆け巡っている。
これから1週間はお袋の哀悼の記事記載としたい。
明日(12/4)の18時お通夜、明後日(12/5)12時半告別式、いずれも松田町メモリアルホールと日程が確定し、本日はこれからいろんな諸届けや連絡に奔走される一日となる。
合掌!!!
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20081204>>>通夜当日
昨日お袋の通夜・告別式の全ての日程・準備が確定し、これからいろんな行事に入るので次の「なんアラ」ブログ記載は全ての行事が終了した明日の夜となる。
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20081206>>>お袋通夜・告別式無事終了
昨日の「なんアラ」ブログはやはり記載不能となった。
本日は2日分をまとめて記載する。
内容はやはり供養の意味でも、お袋の通夜・告別式の話しとなる。
一昨日の通夜には本当に多くの方々のご参加を戴き、通夜の形態も対面式かつ氏名焼香に変更してもらったことが功を奏して参加いただいた方々のお顔を直接拝見してお礼のご挨拶が出来て満足している。
特に多くの自治会関連の方々がお袋を偲んでご参列いただいたことはとても嬉しく思えた。
通夜の晩の夜を徹したお勉めは流石に堪えたが、何とか乗り切って昨日の告別式となった。
こちらも多くの方々の御協力で無事お袋の荼毘も終了して、親父の3回忌以来にお会いした御住職YKさんとも人生について何度もお話出来る機会が持ててとても満足している。
忌中払いの席では義兄も入れて故郷奈良に関する話に発展してお袋の供養には更に良かったと思っている。
「なんアラ」ブログにお袋の逝去掲載して以来、多くの方々からお悔やみ、励ましのメールを戴いた。
又直接告別式に出席いただいたり、弔電も頂いた。
この場をお借りしてお礼申し上げます。
昨夜自宅にお袋の位牌・遺骨・写真と共に戻ってきた時には流石に疲れ、ブログ記載の気力も湧かず、今朝の2日分まとめてのものとなった。
明日からも暫くは「なんアラ」に関連するお袋の想い出を記載して行きたいと思っている。
お付き合い下さい。
その間にも「なんアラ」通巻10号の方も進行していて、和歌山県在住のTTさんから「介護を考える」と題して5番目の投稿を戴いている。
こちらも着実に進めて行きたい。
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20081207>>>お袋の思い出1
12/2にお袋が急逝して明日で1週間となる。
12/3の「なんアラ」ブログで宣言したように、1週間はお袋の冥福を祈り関連記事を記載することにする。
本日は12/5の告別式後の忌中払いに挨拶した際に、お袋の思い出を参加者の皆様に紹介したのでその内容を記載してみる。
お袋は88歳と11ヶ月で他界したが、その人生を振り返ってみると、30年区切りで3つの場所で生活を送ったことが分かった。
まず最初の約30年は奈良県五條市で生まれ、育ち、そして出産(姉と私)、子育てが始まるまでその五条市で過ごしたことになる。
五条市での想い出は私から考えてみると幼すぎてその記憶はあまり多くないが、鍛冶屋の弟子となった和歌山県出身の親父と結婚し、お袋も充実した人生を歩み始めたと考えられる。
その間五条市と大阪河内長野市の親戚との繋がりが最も大きく、先月11/8に開催した「なんアラ」奈良講演会にも出席願った位である。
そして次の約30年は奈良県新庄町(現在の葛城市)で鍛冶屋としての分雫と言う称号をかざした農機具作りに没頭した父に陰に日向に支え続けた人生だったと思われる。
決して財政的には豊では無かったが、精一杯の生活を送っていたことが想像出来る。
この間では私の姉が高取町に嫁ぎ、私が徳島県阿南市の家内と結婚することにより新たな親戚関係が発生したことになり、お袋もその交際範囲が広がったことになる。
最後の約30年間は父母共に現在の神奈川県松田町で新たな人生を過ごした。
ここでは鍛冶屋から古木置物製作業に転職した親父に付き添い小田原を始めとして秦野・南足柄近辺のフリーマーケットでその古木置物作品を展示販売していた記憶がまだ鮮明に残っている。
その間親父の広範囲な付き合い(蜜柑山・畑・山菜取りを通したアナログ人脈ネットワーク)に翻弄されながらも見事にそのサポート職務(?)を全うしたと思う。
親父の死後6年弱はこれまでの慌しかった人生を噛み締めるように、穏やかで且つ自分のやりたい事をやり通した年月であったと思われる。
そしてこの6年間に私の二人の娘に出来た可愛いひ孫が更にその人生を豊にしたと思っている。
以上お袋の3世代約90年の人生を振り返ったが、明日・明後日の「なんアラ」ブログではそのお袋が「なんアラ」にどのように関与してくれたかを紹介したいと思っている。
昨日「なんアラ」通巻9号で執筆いただいた横浜のYIさんの奥様がわざわざ自宅に弔問戴いた。
心より御礼申します。
・・・
20081208>>>お袋の思い出2(携帯俳句)
昨日の「なんアラ」ブログに続いてお袋の思い出を記載する。
今回は「なんアラ」通巻3号に投稿した「俳句の携帯通信」について述べる。
この内容は昨日記載したお袋の3世代の後半、80歳を超えてからの話である。
しかも携帯電話がそろそろ世に出回り始め、われら家族も同時に家族割引対象となる3個購入し、お袋にも少々無理かなと思ったが、親父の徘徊対策としての意味も含めてお袋にその使用方法について理解することを求めた。
当初は電話としての機能を呑み込むことに苦しんだようで、徘徊する親父と一緒に連れまわされた折に、時々こちらに無言電話を発信してくるGPSとしての機能しか果さなかったようだ。
親父がグループホームに入所してからは気楽になったのか、最初は使い方にちょっと戸惑っていた携帯のメールに興味を持ったようで、僅か1年間だったが散歩中に作った俳句をその場で携帯電話から私に送信してくる離れ業をやってのけて家族や周囲の人々に大きな驚きを与えた。
以下「なんアラ」通巻3号投稿文をご覧になり当時のお袋を偲んで下さい。
<以下2005.10.31発行「なんアラ」通巻3号P.49より転載>
俳句の携帯通信
お袋は現在85歳で健在である。 耳が遠くなり、軽度認知症もあるが週に4回のデイサービスを楽しみにしている。 親父は2年前に亡くなったがその前から続けていた携帯電話による俳句作成について話してみたい。 親父が重度認知症で介護施設に入るまではいつも二人で散歩をするのが日課で団地でも有名なおしどり夫婦であった。その親父がグループホームに入りお袋一人での散歩を余儀なくされた時、携帯電話によるメール通信を思いついた。お袋に勧めたらその当時は結構難しいメールを81歳の年齢にもかかわらず見事に使いこなし私に3-4日に一度送ってきたのである。 結局それはほぼ1年ばかりしか続かなかったが延べ86件の数に及んだ。ここでその中から10件を紹介して読者の皆さんの参考にして戴ければ幸いである。但し漢字変換は難しいので、ひらかなのみで送ってきた。 誤字もそのまま掲載するので各自想像しながら読んでいただきたい。何だか掛け言葉らしいものも含まれている。作成日も入れてあるので季節感も味わって欲しい。
1.せみがらおとりてよろこぶこどもたち(20010725)
2.さんぽよりかえりてふろえきもちよし(20010731)
3.さるすべりしろあかぴんくさきにけり(20010816)
4.しんぱいなたいふうさりてはれまみえ(20010822)
5.とうさんとこすもすゆれるおもいでが(20011005)
6.こうえんはおちばじゅうたんきれいだな(20011026)
7.けんかうでたのしいひびかんしゃす(20011211)
8.かぜきつしまんかいざくらはなふぶき(20020322)
9.さんぽみちさわやかへんちひとやすみ(20020609)
10. あしふみはずしこしうつ(20020816)
最後の10番は俳句ではなく息子へのメッセージだったのだが、これで大した怪我も無かったにも拘わらず以後はメールを入れることはピタット無くなった。
この丁度半年後に親父は亡くなった。何か感じるものがあったのかもしれない。
以上であるが、明日は通巻6号に投稿した話題を記載する予定である。
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20081209>>>お袋の思い出3(お袋のパワー)
お袋逝去からあっという間に丸1週間が過ぎ去った。
本日の「お袋の思い出3」を持って、追悼週間は終了しようと思う。
明日からは通常の「なんアラ」ブログにもどり、通巻10号の編集作業状況を中心に記載して行き、お袋の49日法要が終了するまでは適時お袋と「なんアラ」の繋がりを述べてみたいと思っている。
さて本日の「なんアラ」ブログは「なんアラ」通巻6号に投稿した「お袋からパワー注入」に関して述べてみたい。
これは昨日の「なんアラ」ブログで述べた「携帯俳句」の続編の様なもので、晩年のお袋の様子がとても爽やかで、活力に溢れていたことが分かる内容である。
そしてそのパワーを「なんアラ」読者にもお裾分けしたい衝動にかられ作文してみたのである。
<以下2007.4.30発行の「なんアラ」通巻6号より転載>
お袋からパワー注入
「なんアラ」の編集・企画を担当している私も今まで合計10件のエッセイを執筆している。その中には親父のこと(創刊号で「親父が残したもの(国鉄時代の貨車)」)が1件、お袋のこと(通巻3号で「俳句の携帯通信」)が1件含まれている。
親父は亡くなってから今年で5年になる。一方お袋は親父が存命のときは親父の重度認知症にも幸い(本人にとっては災い?)して、毎日散歩を強要されていた。その後親父が徘徊を繰り返すようになってグループホームに入所してからは本当にマイペースでささやかな散歩を楽しんでいた。その様子が上記「なんアラ」通巻3号に掲載されているので参照願いたい。
 このエッセイはその後のお話!
 2年半前に自宅で転び左大腿骨骨折し、手術後担当医師の「歩行は無理」との判断とは裏腹に本人の努力で見事に復帰したことは身長135センチ、体重35キロの体格のどこにそんなパワーがあるのだろうかと驚いたものだ。そのお袋が同じ年の暮れに、今度は周りの一瞬の隙をついて庭に出たところ再度転倒して今度は左膝を骨折し再手術したときには担当医は勿論、流石に私ももう歩行は無理だと諦めざるを得なかった。しかし意に反して本人の「歩かねば・・・・」と言う意思は強くリハビリを続けた結果、又もや見事に歩行出来るようになり、しかも以前よりしっかりしていると周りから誉められ本人もその気になって今まで週2回のデイサービス、月1回のショートステイ(3泊4日)を楽しんでいるようであった。
 そして昨年末そのショートステイ滞在中、急に歩行困難になった。今度は右足大腿骨付近が痛いという。慌てて上記病院に通院したところ骨には異常が無く、痛み止めの薬を12日間貰って様子を見ることになった。最初は歩行が出来る状態では無く、トイレは自室のポータブルタイプを使用していたが家族の我々は勿論本人が最も寝たきりを恐れているらしく何とか歩こうとする努力が見られて敬服するばかりであった。
 その後臨時に移動が出来る手すりを3台レンタルで持参戴き、早速通常のトイレまでの歩行を家族とレンタル業者の立会いの下に実施した。何とかトイレまでは辿り着いたが帰りが又一苦労で、その都度歩き方に工夫を凝らし何とかベッドまで一人で戻ることが出来た。その様子を見ていた業者のおじさんからその異常とも思えるパワーに喝采をもらい照れている様子が今でも脳裏に焼きついている。
 と言う訳で現在お袋はこの正月で87歳になったがその「信じられな~いパワー」に改めてエールを送ると共に我々次世代、そして子供の次々世代、更には孫の世代に益々のパワー注入を続けてもらいたいと思っているこの頃である。それを目の当たりにしている孫の不思議そうな顔が更に印象的であった。
以上であるが、これで哀悼の意味で続けてきたお袋に関する連続記載は終了としたい。
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20081210>>>「なんアラ」通巻10号エッセイ6件目到着
昨日の「なんアラ」ブログで述べたように、お袋の初七日も終わり、平常の「なんアラ」ブログ形態に戻ろうと思う。
昨日「なんアラ」通巻10号用のエッセイ原稿がお隣にお住まいのYHさんからメール送付されてきた。
YHさんは創刊号よりこの通巻10号まで私を除き唯一のエッセイ投稿皆勤賞の方である。
今回のテーマは「人種の壁、宗派の溝」で、時代の趨勢にマッチしたYHさんらしい内容であった。
通巻10号の6件目としてエントリーさせて頂いた。
YHさんには特別にもう1件、通巻10号の記念号としての寄稿文を執筆願いたい旨メール返送しておいた。
特別寄稿文は4~6件程度を考えていて、通常の25件のエッセイ・イラスト対応頁とは別に、イラストなしの単独の文として目次と本文の間に4~6頁別枠で挿入するつもりである。今ふと考え付いたが、イラストレーターの方に特別寄稿イラストを提出願うのも悪くは無いと思えてきた。その分、製作費用も増大するが・・・。
今回のYHさんの原稿到着で、「なんアラ」通巻10号用エッセイ25件中私の分を除くと、残り18名18件となる。
今月末が締め切りなので、後20日年末の忙しさは重々承知であるが、執筆をお願いしている方々にはこの場をお借りして予定に入れて頂く様宜しくお願いします。
さて本日はお袋死去に伴う手続きの残務整理に出かけると共に、青色決算説明会に小田原に出向くつもりである。
そして明日は神奈川大YO研究室でのYSPS研究所としての特別講義、明後日は1週間お休みした塾講師の再開と目白押しである。
・・・
20081211>>>青色決算と「なんアラ」
昨日小田原合同庁舎で開催された、「青色決算説明会・消費税等説明会」に参加してきた。
小田原はバイクでわが松田町から約13キロの地点にあるが、場所を間違えてうろうろすること30分、漸く目的の合同庁舎の2階会議室に到着した。
既に「青色申告決算書(一般用)」説明会は始まっていたが、まず最初に参加者の少なさに驚いた。
本日も引き続き同内容・同場所で開催されるが、昨日のその時間の参加者は約15名であった。
今年の参加で3回目となり、南足柄・湯河原の会場でも約30~40名の参加者はいたのでびっくりした。
今年は4つのパートに分かれているからなのかも知れない。
他の3つは「青色申告決算書(不動産所得用)」、「年末調整のしかた」、「消費税関係」であり、直接私のYSPS研究所と関連が無いので参加しなかったが、資料だけはまとめて貰う事が出来た。
さてこの「青色申告決算書作成」と「なんアラ」とどうつながるかについて、ちょつと述べてみたい。
「なんアラ」はあらゆるジャンルを取り扱ってきたし、今後もジャンルの漏れの無い様に、編集者として未登場分野の開拓に力を注ぎたいと思っている。
ではこの税金も含めたお金が絡むジャンルはどこになるのだろうか?
もっと範囲を広め貯金や相続までくるとそれだけでもしっかりとしたジャンルになると考えられる。
バックナンバーを紐解いてみて、上記内容に該当するエッセイは4つ見つかった。
SYさんの「郵便貯金余話」(通巻3号)、YTさんの「お金の価値」(通巻3号)、AKさんの「自営業の実感」(通巻4号)、YHさんの「金融原理主義の翳り」(通巻9号)の4つである。
以上の4つのジャンルは最初が通信、残りの3つは哲学-価値観に入っている。
税金や青色申告・消費税などを直接扱ったものは見当たらなかった。
今後この様な分野も是非取り上げて行きたいと考えている。
奮ってエッセイ投稿下さい。
本日はこれから神奈川大での院生特別講義に出かける予定だ。
昨夜作り上げた原稿のハードコピーとパソコン・プロジェクターも持参するつもりだが、参加者は約5~10名と聞いているのでゼミのつもりで直接会話が出来る雰囲気を楽しんでこようと思っている。
・・・
20081212>>>神奈川大FO研での院生講義
通常の塾講師は本日から再開するが、今年全体で見るとYSPS研究所としてのコンサルタント業務の一環として大学での講演・講義を数回実施してきた。
昨日はMLS(マテリアルライフ学会)の創立(約20年前)以来、企画・編集委員会・常任理事会でご一緒し、学会を盛り上げてきた先輩・同士である神奈川大FO先生の計らいで大学院生対象の講義をすることになった。
残念ながらFO先生は現在名古屋で行われている耐久性に関する国際学会に参加されていて不在であったが、院生のKNさんが講義会場・ディスプレイ装置の手配をしてくれ、講義終了後の昼食懇談まで付き合ってもらった。
講義そのものの詳細は又「文化財的Archival教育」ブログで述べるとて、YSPS研究所の主テーマである保存科学に関してFO研究室が打ち込んでおられる研究内容に関し、直接・間接的に触れることが出来てお互いに有益な講義であったと思っている。
参加者は学部・院生を含めて9名で有ったが、多くの質問を戴き活発な議論が出来たとことに満足している。
KNさんとの談話は40年前の私の大学院生時代を思い起こさせ、当時大阪大応用科学科HM・JS研究室で行った9-VinylAcridineの合成・重合・物性測定の内容が今でも新鮮に議論できて、物理・化学の真理を追究する姿勢に普遍性があることを実感した。
懇談会に於いて「なんアラ」ブログにも言及すると、KNさんはとても関心を示して、ブログ閲覧を約束してくれた。
若者の意見が聞けるチャンスであると期待している。
・・・
20081213>>>塾講師再開!しかしドタキャン
今週は「なんアラ」ブログもお袋の想い出から徐々に通常の生活模様記載にシフトして来ている。
昨日は12/1以来休止していた塾講師に久しぶりに出かけた。
通常1日の塾講師で80分の授業が3駒、連続してある。
今回は事前に1駒目の中3年生数学は本人の都合で別な日に既に終了している旨の連絡は貰っていて、2駒のつもりで新松田駅に向っていた。
新松田のホームに立った所で携帯に電話が入った。
通常はメールしか受信しておらず、直接電話を受けることはほとんど無い。
でもバイブにしているコールが鳴り止まず、仕方なく出ると塾長からの連絡であった。
いやな予感がしたが、2駒目の高3年生国語が本人からの連絡で風邪で休みたいとのことであった。
所謂ドタキャンである。
と言うことは20時からの高2年生英語の1駒のみとなってしまった。
でももう既に電車はホームに入ってくるところだったので、今更引き返せず、途中の海老名で約1時間半時間をつぶした。
久しぶりの塾講師も無事終了して帰宅したが、又体調が悪くなってきた。
こちらも風邪の症状が復活してきたようだ。
悪化しないうちに、これから病院に行くことにしよう!!!
・・・
20081214>>>ミニコミ誌「トンボの眼」イベント
現在ミニコミ誌「トンボの眼」を定期購読して各地で開催されているイベント情報を入手しながら、時々魅力あるイベントには積極的に参加している。
このミニコミ誌「トンボの眼」はASさんが編集長を務められていて、何度か直接お会いしてお話ししたことが有る。
ASさんはとても精力的に活躍されている方で、文化財一般なら何でも手を出されている印象が強い。
今回のイベント情報も、「日本神話をユーラシア文化の中で考える」5回シリーズや、「富山湾・氷見でキトキトの魚を食べる会」、「鳴門・大塚国際美術館と倉敷・大原美術館」などとても魅力があるものが多い。
特に最後のイベントはどちらの美術館とも一度は訪れたいと思っていたので、家内とも相談して参加を検討するつもりである。
このミニコミ誌「トンボの眼」は「なんアラ」ともいろんな面で共通することが多い。
つまりミニコミ誌の創刊の時期がほぼ同じであること、日本各地でイベント開催していること、そして何より最終的に何を目指しているのかがミステリアスであることなのだ。
今後とも「なんアラ」としてだけでなく、「YSPS研究所」、「文化財的Archival教育」としても注目していきたいと思っている。
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