
最近、大学の購買部に「秋限定!」とか書いてあるカボチャ味やサツマイモ味、クリ味の商品が並べられ、完全に翻弄されている私たち(Kちゃんと私)…
さらに最近腰の重かった料理さえする気にさせるのがこれら秋の味覚たちの魔力です。
というわけで、きのう紹介したレシピに引き続きかぼちゃメニュー(ひとり暮らしだと一回では使い切れない)!
フライパンにアルミホイルを広げ、
かぼちゃとソーセージを並べます。
かぼちゃには一切れずつバターのかけらをのっけてね。
ホイルで包んで、フライパンの蓋もして弱火でじっくり加熱したらできあがり。
こ、これは…
うんんんめええええ!
じりじり待って正解でした。かぼちゃの皮なんかカリカリのカラメル状になってるし。
ほんと、期待以上だったわー。
暗示をかけられているだけかもしれないけれど
涼しくなると、私も例に漏れず「秋だ、読書がしたいなあ…」なんて気がしてくる質です。
(ほんとの読書好きはわざわざこんなこと思わないでしょうね。)
それで、去年の秋は友人Kに本屋さんについてきてもらって紹介された本を大量購入したわけですが
今年の秋はというと、今まで見向きもしなかった本達に“今さら”出会うことが多いです。つまり、もともと名前くらいは知っていた作者や本に急に興味が湧き、「どうしても今!」読んでみたい。そんな気持ちになるのです。
しかし、その“今さらの出会い”の動機が必ず具体的に説明できてしまうのが、この私の残念なところ。
たとえば、次の旅先が舞台の小説、とか。学生でいるうちにサラッと学んでおきたい歴史や宗教が題材の漫画、とか…あ、聴覚障害や手話の勉強をし出してから急にドラマ「オレンジデイズ」にハマったこともありました(リアルタイムで流行っていた時にテレビで観れば、わざわざDVDを借りずに済んだのに!)。
そう、音楽や絵画についても言えることですが、私は一般的にすばらしいと言われる作品たちに触れてみたいと思っても、その作品を何らかの“手段”として捉えるきっかけを与えられなければ自分からはなかなか手を出すことをしません。
それって作品にとってはとても不本意なことだろうと想像すると、なんだか申し訳なくなるのです。だって、きっと作品だって(人と同様に)手段でなく目的でありたいと思うでしょう?
あらあら、小学時代のようこちゃんはもっと本をバンバン読む子どもだったのに?と思い直そうとして….あれだってオーストリア在住中で「日本語の活字に飢えていたから」という理由がうっかり浮かんでしまいましたとさ。
学問においてもそう。あまり学問や研究そのものに興味をもてるタイプではないみたいです。その代わり、臨床実習で病棟の患者さんの疾患について調べてくるように指示されたら勉強らしい勉強をする気が起きる。論文を検索したり、もちろん基本的な事項を簡単な教科書で確認するにしても、そういう動機さえあればスッと入ってくるし、そこで吸収したことならきちんと人に説明できるくらい頭の中に留まります。その点、昨日まで選択して回っていた小児血液グループでは、久しぶりにゾクゾクするような楽しい実習をさせていただきました。単調な国試の過去問漬け生活を送る6年生であるから尚更そう感じたのかもしれませんが…
話がズレましたが、そんな訳で私は作家にも芸術家にも学者にもなれそうにありません。
諦めて、私の心の赴くままに、明日からは旅行に向けた読書第二弾:ムーミンを読んでみます。ちなみにムーミンの作者トーベ・ヤンソンは今年生誕100周年だそうですよ。(ちなみにちなみに、同じフィンランド出身のシベリウスは来年生誕150周年。)