ようこのかまど

おいしいからうれしくなるのかな、うれしいからおいしくなるのかな。

恒例!おばあちゃんちで気ままにパンを焼いて食べてもらう。

2011年08月16日 | こむぎこ日記
第1弾。
そりゃまずはあんぱんでしょ。


第2弾。
切りっぱなしパン。はちみつでこねてみた。
焼きたてを皆でちぎって食べたら、これが意外と評判良かった。





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怠け者の私は、宮城行きをまじめに振り返ることを長い間後回しにしてきました。
事後勉強会があるということで、やっと筆が動き出したというわけです。情けない。
拙いですが折角なので、ここに載せておくことにしました。


今でも一番印象に残っている、というか見ておいてよかったなと思うのは初めに降り立った石巻の光景。現地に持って行ったメモを読み返したのですが“「がんばろう日本」「がんばろう宮城」の立て看板が行きと帰りで全く違って見えた”と書いてありました。どういうことかというと、津波の被害にあった景色というのが、あまりに空っぽすぎて…
正直、現地に行って生の光景を見れば、本当に必要とされている支援とか、報道だけじゃ伝わりきらないこととか、いろいろなことがわかると思っていた自分がいました。涙があふれ出したり、怒りに打ち震えたり、「私もがんばろう」と熱くなったりするのかなあと期待していたのです。
しかし実際はただただ茫然とするばかりで、少なくとも自分に引きつきけて考えることなど全くできず、口を開けば「本当にここに町ができるの?」と言ってしまいそうなほど、無口になるしかない絶望感ばかりが見えてくるような風景でした。「これでもまだ復興と叫べるか?」本当にその通りです。
バスの中で今回のスタディツアーのスタッフさんからもお話があったように、テレビ番組などで被災地の状況が紹介される場合は必ず作り手の意図があり、ストーリーやメッセージがあるのであって、そういうものばかり見慣れて何か分かった気になった私などがその場に放り出されても、そこから何かを感じ取ることさえ難しいということを知りました。
ちょうど、ツアーに行った時期に私が大学で受けていた実習の担当の先生がガイダンスでおっしゃっていた言葉があって、「本実習の主目的は学生が問題提起力と解決力を養うこと、またその難しさを味わうことだ」と。ひとつの結果を何か見せられたときにそこから自分の理性的な目で問題点を探り出してどう解決していくかを考え実行する。その最初の段階が特に座学の授業などではなかなか教われないが実際働き出したら一番重要な部分でもあるとその先生は口をすっぱく言っていて、私はこのテーマの大切さを(実習からはいまいち感じられなかった分むしろ)このツアーのおかげで途中まで実感することができたように思いました。実際、自分の大学の卒業生の被災地での医療活動の報告を聞いていてもそうだったようです。特に活動するための情報自体が乏しいような地域に入った医療チームは、第一のミッション自体が「とにかく実際に行ってみること」だったそうです。
さて、石巻を見ていろんな意味でショックだった私はそれから自分の考える糸口やとっかかりとなるようなもの、宮城の新たなスタート地点のヒントとなるようなものはないか、ずっと探していました。(そういうものまで根こそぎさらっていってしまうのが津波の恐ろしさであることも感じましたが、)私にとって探していたそれとは、「人々が、そこに生活していた名残り」だったのだと思います。
雄勝で行った泥かきで、私はそういうものと出会うことができました。開封済みのお味噌の袋とか、カセットテープとかがたくさん出てきた。そこで初めて、「ああ、ここで人が暮らしてたんだ」ち実感した気がしました。また、新聞記事の切り貼りしていあるスクラップブックの一ページが出てきた時は、その前に聞いていた気仙沼で活動しておられる学芸員さんのお話を思い出しました。「がれきには誰かの思いが詰まっているのであって、撤去が必要なのは分かっているのだけど、いったん自分の壊れた家の残りが見つかるとやはり嬉しくて、次には『いつ撤去されるのか』と不安になって毎日見に来る人がいる」というお話・・・
それもこれも合わせて考えた後でもう一度見た仙台の街中はちょっと異様な感じでした。一見すれば日常が回復しています。でもきっとその中にはたくさんのサヨナラをせざるをえなかった人々がいるはずで、明るい復興の裏に隠してある深い悲しみが癒えるまでには、とてつもない時間が必要だということを改めて思いました。
話がそれましたが、とにかくそんなこんなで、やっと頭が動き始めるきっかけとなってくれた泥かきのボランティアでしたが、もちろん得られたものはそれだけではありません。参加させてもらえた作業で、「水路が一本だけ通るようになった」という事実は、自分にとって次に繋がるとても明るい記憶になってくれました。あれだけの時間と人数をかけてそれだけの結果、ということが自分の体で経験できたので、作業した場に着くまでに通ってきた村や町全体が元通りになるにはやはりものすごい時間がかかるということも同時に感覚的に分かることができたと思います。
そんな長い時間の中、これから恐ろしくなるのはひょっとしたら「無関心との闘い」なのかなと思います。たとえば、もうすでにほとんどの医療チームは撤退している状況です。当たり前ですが、世の中全体も前よりはだいぶ落ち着いてきました。JAや工場で聞いたお話でも分かったように、現地の方々だって、元の自分の仕事をすることで復興したい、また元気になりたいと思っていると思う。その意思を尊重することはすごく大切だし人を助ける基本だと思います。派遣された医療チームも、「いずれは撤退するのだから�患者さんの受ける医療の継続性と�地域医療の自立、復活を常に第一に考えて活動していた」と聞きます。
だからといって被災地以外が完全に離れてしまっては無理です。でも、今回の震災でさまざまな問題に気づかされたのは被災地だけではない。学芸員さんも「津波は受け継ぐべき大切な文化である」とおっしゃっていましたが、日本全体が(それどころか、夏休みに会ってきたオーストリアの知り合いによると世界全体が)それぞれ考えるべき問題を与えられたということではないかと思います。人生観が変わった人もたくさんいるそう。今回のようなことが起きたときに自分はこのままでは思い通りの支援ができないと思い医局を出る決心をした人、むしろ家族を守りたいと思って診療科を変える人etc。私などは、震災時に必要なのはスピードが大切な救急医療だけで私は不向きと信じ込んでいたのですが、実際は今回の震災で問題になった医療の大部分は阪神淡路の時とは違って慢性の、たとえば糖尿病の患者さんだったのだそうで、今まで日本であまり注目を浴びてこなかった家庭医制度や訪問診療、精神科などもそれぞれのニーズにあった支援ができるとして活躍中です。高齢化についても、仮設住宅も介護に適した設計にしようとか、在宅医療ができる街づくりとか、いずれ東北のみならず日本全体で問題になるであろう事柄が山積み。皆の興味の範囲も自ずと広がっているはず。他人事でなく自分の問題として引き付けて考えざるを得なくなってきます。
今回のツアーに参加してみて、「がんばれ東北」などと軽々しく言えなくなってしまいましたが、今の宮城の状況を何も役に立てない私のような学生にも見せてくださった気持ちを考えると「一緒にがんばろう」くらいは言ってもいいのかなと、最近は思えています。


最後に、これ。
http://youtu.be/QmCMDJsJiJk
“A Song for Japan”
なかなか素敵な曲と企画、そして素晴らしい演奏だと思いました。
今度、地域のお祭の野外ステージで、うちの吹奏楽でも演奏させてもらいます!

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