「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「過渡期」

2018年12月10日 | つれづれ噺

                                 

今年は珍しく忘年会の回数が少ない。声をかけてもらった全てに参加してもせいぜい3回である。
自身が働いて小遣いがある程度自由になって以来、12月の忘年会と名の付く飲み会が、これほど少ないのはまさに新記録と言えるようだ。

昭和の高度成長を謳歌してきた我々世代は、汗も流したが遊ぶのもよく遊ばせてもらった。
通称「駅前」という繁華街は、それはそれは賑やかさと華やかさがあふれ活気があった。夜のとばりが下りると年がら年中お祭り気分の毎日であったような。そのうえで12月となると忘年会という、特別な意識を持った飲み会が続いた。

それがここ数年縮小の一途をたどって来た。もちろん現役時代に比べるべくもないが、それでも片手に余る回数がカレンダーに記されていた。寒いねーなどと言いながら、いそいそと駅前ネオンの灯りに群がったものである。

今年の3回も夜の開催は1回こっきり。昼間のランチ会食に毛が生えたような会合が2回。
“酒なくてなんの己が忘年会” ではないが、わずか1杯か2杯しか飲めない生ビールでも、昼間に飲むのと夜に飲むのとではまるで味わいが違う。下戸の小生でさえそう思うのだから酒豪の趣には、とても我慢できないことであろう。

しかしである。よーく考えてみると、健康長生き、ピンピンコロリを目論むのなら、遠い過去と同じように、夜の街を二次会だ三次会だと徘徊するのは考えモノである。それでなくても自然徘徊の不安が近づくお年頃なのだから。
とすると、色んな宴会などの開催が、夜から昼間へ移行するのは極めて自然な流れというべきか。

それならいっそ逆らうべからずだ。年輪という摂理に従って、互いの健康を気遣うのが賢明な生き方のようである。「古い状態から新しい状態に変化していく過程の時期」を『過渡期』という。
どうせなら、自ら過渡期を受け入れ歓迎して、新たなスタイルの楽しみ方を考えるのが、身の丈に合った賢い生き方と言えるのかも。

コメント
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