世の中には様々なボランティア活動がある。
ここで「ボランティア活動」という言葉の意味をちょっと復習してみると、次のように書かれている。「単なる無報酬の奉仕活動という意味ではなく、自己の自発的・主体的な意思によって社会問題の解決や必要とされている活動を理解・共感し、勤労とは別に労働力、技術、知識を提供すること」とある。
額面通りに受け止めると、ボランティアと一口に言ってもなかなか複雑で、うかつには手が出しにくくなる。
そこで、あまり深刻には考えず、ちょっと困った顔をしている人の話を聞いてあげることで、ご当人の気持ちを和らげ、ほんの少しストレス解消の手助けになればという、ちっちゃなちっちゃな傾聴ボランティアのお話しである。
お互い独身の頃からの長い付き合いの友人がいる。40数年に及ぶマージャン友達でもありライバルでもあった。そんな彼が数年前、脳梗塞に倒れた。幸い命に別状なく、後遺症も致命的なものではなく、私の顔も名前も、丁々発止で遊んだことも、多少おぼろげな部分もあるが、先ず先ず記憶している。
そんな状態だから、間をおいて彼の家を訪ねると、相好を崩して迎えてくれる。
但し、今日は電話もせずこちらの都合だけで、カミさんを伴いいきなり訪ねてみた。残念、週2回の介護施設リハビリの日で会えなかった。ところが、気のいい彼の奥さんは「まあ久しぶりね、上がって」としきりに誘う。こちらも幸い一人ではなかったので、遠慮なく上がり込み、コーヒーをご馳走になった。
本人がいる時よりも長い時間のおしゃべりとなった。その間、こちらは相槌を打つ時間が長いほど、奥さんはしゃべり続けた。時々合いの手を入れながらひたすら聴いた。おおよそこれまでにも聞いたことがある話であり、新鮮さには欠けるがしっかり聴く人になってあげた。「まあ、私がしゃべるばかりでごめんなさい。ところでお孫さんは」ということでわずかに我が家の孫の話をして引き上げた。帰りの車の中で改めて同情することしきり。
「亭主元気で留守がいい」とはよく聞くが、これは世の奥方の一方的な我がままなのである。ひとたび元気が損なわれ、家に居座ることになれば、これほどのカタマリのようなストレスを抱え込むのだ奥さんは。
気を付けようにも、何をどうすればいいのかよくわからないが、脳梗塞など起こしては大変なことになる。と同じように、カミサンが先に倒れたら、お父さんにはもっともっと大きなストレスと哀れさが降りかかるのであろう。
そんな時こそ、もっともっと大きな耳を持った傾聴ボランティアの出現をお願いしたいものである。