最近、「引き出し」という言葉をよく耳にするようになった。
元々「抽出し」とか「抽斗」と書いていた。分りにくい字だな~と思うことが何度かあった。
後ろめたさをおぼえながらも「引き出し」という、分りやすい字を使っていた。いまやそれも市民権を得て、堂々と使えるようになっている。
引き出しを多く持ちなさいとか、あの人は多くの引き出しを持っているとか言われる。
机やタンスを多く持っていて、引き出しの数が多いということとは全く意を異にする。
積み重ねた多くの知識を蓄えていること。幅広く対応できる柔軟な知識があること。簡単に言えば「博識」ということなのだろうと思っている。
そこへいくと、我が家にも幾つかの引き出しはあるが、ご覧の通り、ガラクタや過去に必要とした書類や「これも取っておこう、あれも捨てがたい」と、いつの間にか蓄積された、半分はごみ箱行きの雑多である。これだから、いざ取りだして活躍させよう、と思う時にはどこに仕舞い込んだか、上から下への大騒ぎとなるのが落ちである。
引き出し・・・本来の意味のように使いたい。色んなジャンルの知識や参考ネタを頭に叩き込みたい。といつも思ってきた。今でもそう思う。
それがなかなか思うに任せないで、古稀を迎えるに至った。
机の引き出しは、時にはひっくり返して大掃除をすれば、必要と不必要の区別がつき、どうかするとネズミのフンも処分できる。
しかしねー、本来の引き出しはというと、ガラクタや使い古された、手あかのついた言葉や知識がほとんどで、しかも隙間がないほど詰まっている。
新しい風を吹き込み、新しいものを取り込む余地がなくなっているというのが本音である。これじゃいけん、と思うのだが、新しいものが、引き出しに収まりきらず、いつの間にか勝手に宇宙遊泳してしまことも少なくない。
それを年のせいにするほど、自分を甘やかしてはいないつもりであるが、やっぱり引き出しが増えるという実感に乏しい。
そうだ、引き出しの使い方には「友達という引き出し」もあったようだ。小生の引き出しには、いい友がたくさんいてくれることを誇りにしよう。所詮他力本願だねー。