アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて九州北部へ その3伊都国 3-1 2022年4月1日

2022-07-14 10:40:04 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

伊都国は現在の福岡県糸島市です。

今回の古代出雲を訪ねる旅で 最も楽しみにしていた場所です。

なんせ古代和国の支那への玄関口であり  歴史の表舞台でしたから。

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伊都国 3-1

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魏書には次の記述があるそうです。

「郡(魏領帯方郡)からの使者は(伊都国の)港に着くと 調べられる。文書と贈り物だけが

女王のもとに送られる。ごまかしは許されない」

 

つまり魏国の使者が女王の住む都に来ることを 女王豊玉姫は拒否しているのです。

豊、物部連合王国の女王豊玉姫は 魏に使節を送り 我こそはヤマト国(和国)の女王だと主張して

しかも大和地方には磯城王朝があり、それと対立していることは 内緒にしていたのです。

魏の使者は 港までか、それとも魏の大使館(魏の一大卒「魏国の官名」が常駐する伊都国の建物)までしか

行けませんでした。つまり女王豊玉姫のいる都万を秘密にして都が大和地方にあるように

見せかけていたのです。 

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西暦239年6月に豊、物部連合王国の使節団は魏領帯方郡へ出発しました。もちろん伊都国の港からです。

使節団団長は渡来朝鮮人ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)で 副団長は物部十市根(としね)でした。

魏へは帯方郡経由でしか行けず 朝鮮語の話せる田道間守が重宝されたようです。

帯方郡で待たされて 都の洛陽に着いたのはその年の暮でした。

翌年の正月に使節団は帰路に着き 中朗将に任命された田道間守と校尉に任命された物部十市根には

帯方郡で郡の長官から 青い錦帯と銀印が渡されました。そして郡の長官の指示で帰国する使節団に

魏の役人テイシュンがついてきました。魏の皇帝から女王ヒミコへの詔書と金印、それに贈り物は

直接手渡すことになっていたからです。

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伊都国に着いた十市根はテイシュンを伊都国に置いたまま すぐに都万に戻り 女王豊玉姫と

イクメ皇太子に伊都国に赴くよう伝えました。

テイシュンが伊都国までついてきて 親魏和王のしるしを直接手渡すと言っているので

直接に赴かざるを得ませんでした。

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伊都国でテイシュンは女王ヒミコ(二番目のヒミコの豊玉姫)に 皇帝の詔書、金印、紫帯と下賜品

の目録(五尺刀二振り、銅鏡百枚、高級織物など)を手渡しました。

女王は正装の上に紫帯を肩から掛けて大いに威厳を示したということです。

田道間守と十市根も青錦帯を掛けて参列しました。

 

と言うことで伊都国は古代史の重要な舞台だったのです。しかも魏書など支那の歴史書に記された

ヒミコの内実際に支那人が直接目にしたヒミコはこの豊玉姫女王一人なのです。

あとは みな間接的に聞いた事柄なのです。

 

※ちなみに日本でよく言われる「魏志倭人伝」なる書物は存在しません。誰かが間違えて言い それが

広まったのでしょう。正確には「三国志 魏書 東夷伝」です。

 それに ヤマタイ国もヤマト国を誰かがヤマタイ国と読んだ間違いでしようね。だって豊玉姫女王の娘の

豊姫は魏の和国駐在武官 張春により、親魏和王の豊玉姫の後継者に指定されましたが 魏書では

台与と書かれていて 「たいよ」ではなく「とよ」です。誰かが台をタイと間違えたのがひろまったのでしょうね。 

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243年に豊玉姫女王は魏へ再び使節を送りました。今度の使節団団長にはイクメ皇太子がなりましたが

イクメの名前ではなくて 「伊佐地」(いさち)の名前でした。和国の皇太子が直接出向くことをためらったのでしょう。

245年には 当時外交官として伊都国長官になっていた 田道間守が帯方郡へ行き 黄幢(おうどうー

黄色い吹き流し状の旗)を受け取って帰りました。

例の宇佐神宮でヒミコ女王が 八本の旗を立てて 戦士を鼓舞したと伝わる旗で八幡神社の由来の旗です。

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と言うことで 伊都国は古代の和国で重要な役割の表舞台だったのです。

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伊都国博物館の近くで こんな看板を見て感激しました。

「クイーンズヒル」と書いてあるではありませんか。

女王豊玉姫が丘の上に立ち、服の裾を風になびかせながら魏の役人を待っている情景が

目に浮かびました。

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伊都国歴史博物館です。この建物が建っている場所が伊都国の中心部だったそうです。

博物館の学芸員の方にお聞きしました。

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博物館の玄関に看板がありました。

だからあ、魏志倭人伝は無いと言ってるでしょう。

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こんな人が目の前に現れてびっくりしました。「わっ、びっくりした」と言うと後ろで掃除をされていた

清掃中のおばちゃんが笑い出して「私も初めて見たときはびっくりしました」とおっしゃっていました。

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3-2へ続く

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて九州北部へ その2-2 宗像大社 2022年4月1日

2022-07-11 09:41:52 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

その2-2 宗像大社

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ここでも宗像家の始祖については 全く触れられていません。

記紀作成時の大方針として 古代出雲王朝はなかったことにする、と言うのが大前提なのです。

それをごまかすために 初代大和大王、天の村雲を消して神武なるわけのわからん大王を作りしかも

その架空の大王の出現を 古代出雲王朝の初めまで 引き延ばしたものですから 大王の数がたりなくなり、

大王でないものを何人も大王にでっち上げたり、実在の大王の生存年齢を200歳ちかく引き延ばした大王が

何人も必要になったのです。

ですから 出雲王家の皇子である吾田片隅の事を表にできなかったと思えます。

古代出雲王朝はなかった、大王家の祖先は天から降臨してきたと 持統、不比等のおぞましいコンビが作り上げた

記紀に背く奴はいません。そんなことをすれば あの恐怖の持統、不比等コンビに何をされるのか分かりません。

現にそれまであった各地の風土記も 記紀に合わないものは 書き換えさせられたり、焼却処分させられたのです。

宗像家の苦しい胸の内が よくわかります。自分たちの始祖を語れないのですから。宇佐神宮の宇佐家も同じでしょう。

自分たちの祖先を祀れないのですから。

まあ宇佐家は自分たちの血を引く誉田別大王を祀ることに寄り、少しはうっぷんが晴れたことでしょう。

宗像家も 吾田片隅は表向き祀れなくとも その娘の宗像三姉妹は堂々と祀れますから少しは安心できたでしょう。

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古代出雲王朝の系統図です。吾田片隅が北九州へ移住して 宗像家を作り、その娘たちが宗像三姉妹です。

ちなみに多岐津姫は出雲西部に住まわれたので その地が田儀町となりました。イチジクの名産地です。

※この表は大元出版の斉木雲州先生の多数の本をもとにして私が作りました。

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続いて高宮へ

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ここから高宮へ歩きます。

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うっそうとした原始の森を約10分歩きます。

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高宮に到着しました。

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中を覗くと樹木に注連縄が張られています。

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望遠で覗くとよくわかります。真ん中の樹木の四方が注連縄で囲まれています。

古い形の御幣は縄と紙垂(しで)で四角く囲んだ形の物もあります。

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高宮の説明看板です。神籬(ひもろぎ)の祭場だと書いてあります。

つまりこの木を神聖な、神の宿る木だとして拝んだのです。

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古代出雲王国では 王が亡くなると風葬にされたそうです。遺体は座った形で竹かごに入れられて

口から朱を注ぎ 腐敗臭を防せいだそうです。竹籠は松江市南部の熊野山の頂付近に運ばれて

檜の大木の茂みに隠される。その木には注連縄が張られ、御幣が建てられて神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。

三年後に洗骨して山頂付近の磐座に埋葬される。そこは「埋め墓」となる。

遺骨を下ろした後もその木は注連縄を張られて 神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。ということは神籬とは 元々風葬の

神聖なる樹木なのです。

 

一方 屋敷の庭には 大きな玉石が置かれそこが「拝み墓」となった。古代出雲王家では このように二墓制でした。

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また山の中腹には「斎場」と呼ばれる広場が設けられて 人々が集まり代々の王に祈りを捧げたという。

吾田片隅は出雲王家の皇子なので当然この風習を知っていてたと思います。

その習慣を ここ北九州の宗像家に持ち込んだのでしょう。

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古代出雲王の拝み墓について

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ここが入り口です。出雲大神と書かれています。

現在は松江市のある学校の敷地内にあり、私は許可を取ったうえで参拝しました。

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うっそうとした森の中をしばらく歩きます。

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拝殿です。

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拝殿の向こうには 丸い巨岩が無造作に置かれています。巨岩の数は出雲王の数だそうです。

雲秀先生の御祖先様達です。雲州先生は出雲王朝は 第十七代大名持の山崎タラシ王で滅ぼされたので

巨岩の数は17個あるとおっしゃっています。

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私が見てもどれが墓石なのか 分かりませんでしたが、手を合わせました。

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※ このような墓石の形態は その後テレビで見てびっくりしました。

山岳修験の始祖、役の小角(役行者)に仕えた 夫婦の鬼、前鬼と後鬼の子孫だと伝わり、宿坊を開いて

約1200年の間修験者たちを支えてきた 前鬼小仲坊第61代当主五鬼助義之氏が ご自分の先祖たちのお墓を

テレビで説明されていましたが 直径30センチから50センチくらいの丸い石が 山中に無造作に置かれていたものでした。

五鬼助義之氏は自分の父親や祖父の墓と 前鬼、後鬼の墓は分かるけど その他の60個近い墓は どれが誰か

全く分からないとおっしゃっていました。

これを見て 古代出雲王家の王墓と似ていると感心しました。

最も役の小角(えんのおずぬ)のご母堂の白専女(しらとうめ)は出雲系の人だと何かで読んだ記憶がありますが。

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と言うことで宗像大社高宮は古代出雲の王の拝み墓に 非常によく似ていると感心しました。

ひょっとして この場所は宗像家の王の風葬場所ではなかったのかと 思えてなりません。

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 古代出雲の旅 次は伊都国です。

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて九州北部へ その2-1 宗像大社 2022年4月1日

2022-07-08 23:22:23 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

その2-1 宗像大社

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宗像大社の境内配置図です。本殿のほかに第二宮と第三宮があります。

それと少し離れたところに高宮があり、神社の始まりの神聖な場所だと書いてありました。

最後に参拝するつもりです。

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宗像大社の御本尊は宗像三女神だと書いてあります。つまり宗像三姉妹の事で 宗像家の始祖の

吾田片隅については一言も述べられていません。

最もこの説明看板は文部省の役人のどんな奴が書いたか 書かれていないのでどうせ記紀にのっとった

当たり前のつまらん解説と思いますが、宗像大社の公式ホームページを見ても宗像三女神がご本尊だと

書いてあります。

しかも 宗像三女神は天照大神の娘だそうで びっくり仰天です。

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天照大神は後の世にでっち上げられた 太陽の女神で 主に大王家が利用しました。

物部家の始祖、穂穂出見は徐福の次男ですが 徐福は夜山に登り星に祈りを捧げていました。

そのうち徐福が連れてきた海童たちが 各地に散らばると 各地で星を拝むようになり、各地の妙見山が

その名残りだそうです。

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そののち 朝鮮系の息長家や宇佐家では月を拝むようになりました。

太陽神を「お天道様」と呼ぶのに対して お月様の神様は「月読の神(つくよみのかみ)」

とか「お陰の神様」と呼ばれました。今もお陰様と言うのはその名残だそうです。

※(勝 友彦著 「親魏和王の都」 大元出版)

太陽を拝んでいたのは 古代出雲王朝です。出雲王朝の国教の三神のクナト大神、佐比賣の命、

それに皇子神のサルタヒコの命の三神のうち佐比賣の命が 後年の天照大神のモデルと言われています。

つまり太陽の女神です。

 

大和に出雲系の磯城王朝が成立すると 太陽の女神を三輪山に祀り、その麓で遥拝するようになります。

三輪山に祀られた 太陽の女神を登美家(出雲系のヤマトの大豪族)は登美山(鳥見山)で遥拝するようになりました。

ヒミコの項で書きましたが 長い戦乱の後 大日々が大王になり 登美家のモモソ姫が姫巫女になると

春秋の大祭には 多くの豪族たちが 遠方からも参加するようになり、巻向にその滞在宿舎が建てられました。

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その後二番目のヒミコの宇佐豊玉姫は「月読の神」を奉じていましたが、三番目のヒミコのサホ姫は出雲系なので

太陽の女神を信奉していました。これに反感したのが 豊玉姫の皇子の豊彦と皇女の豊姫です。

魏から親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後継ぎは自分たちだと主張して サホ姫を大和から追い出して

豊姫が四番目のヒミコになり、檜原神社で再び「月読の神」を奉じます。

大和を統一しつつあったイクメ王は 再び出雲軍の力を借りて 豊国軍を大和から追い出しました。

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大和を統一したイクメ王は晴れてイクメ大王となります。活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、

後の贈り名は垂仁)そして降伏させた磯城王朝最後の大王の彦美知宇斯大王の皇女のヒバス姫を后として

大和姫を設けます。

大和姫は最初月読の神を奉じていましたが、そのうちに太陽の女神「日霊女貴(ひるめむち)」を奉じるようになり、

大和姫は丹波から伊勢へ、さらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦(登美家出身)の支持を受けます。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

(太陽の女神は三輪山から移されました)、最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

これを以後の大王家が受け継ぐのです。

つまり大王家の太陽の女神信仰は 出雲王朝の完全なパクリなのです。

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話は元に戻りますが、宗像大社の由緒書きは 出雲王家や宗像家の伝承や記録は全く表にせずに、

記紀に従った普通のつまらん解説になっています。

宗像家も 時の最高権力者の不比等ににらまれるようなこと、つまり宗像大社は吾田片隅を祀っているとは

決して言えなかったのでしょう。

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神門をくぐって中に入ります。

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広い境内の正面に 拝殿と本殿があります。

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拝殿ではたくさんの人が参拝されていました。

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この後ここで何かのお祓いがあるのか、巫女さんが準備をされていました。

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残念ながら本殿は大社造りではありませんでした。

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柱の本数も多く、しかも妻入りではありません。この社がいつ頃造営されたのか 書かれていませんが

かなり後の世になり、大規模に作り直したのでしょう。その時に大社造りはやめたのでしょう。

しかし千木だけは出雲式の縦削ぎです。

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拝殿、本殿の左右と奥の三方にはたくさんの摂社があります。地元の神様をたくさん合祀して

祀られているようです。

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続いて第二宮、第三宮へ

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左右に全く同じ造りの社があり、それぞれ第二宮と第三宮があります。

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どちらの宮も造りは同じでした。

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第一宮と同じく こちらの両宮とも大社造りではありませんでした。

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第二宮には田心姫が、第三宮には多岐津姫がそれぞれ祀られているそうです。

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宗像大社 その2-2へ続く

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春の花咲く大和葛城山、カタクリもきれいでした。 その2 2022年4月13日

2022-07-05 10:39:32 | 季節の風景

春の花大和葛城山 その2

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山頂付近には 猩猩袴(しょうじょうばかま)の群落があり 毎年見に来るのが楽しみです。

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6枚の花弁を持つ花が集合したように見えます。

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猩猩とは能楽に登場する 赤ら顔の大酒飲みの猿の化け物で 花が赤ら顔 葉がその袴に見立てたそうです。

格調高い名前ですねえ。あの「犬の金玉」、「継子の尻ぬぐい」、「姥百合」などの下品な名前とは雲泥の差ですね。

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カタクリの群生地です。遊歩道からかなり離れているので 望遠で撮りました。

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優雅な姿ですねえ。

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春の花の女王と思います。

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春が終わると、鼻も葉も土の中へ消えてしまいます。まさに「スプリングエフェメラル」「春のはかなく

うつろいやすいもの」ですね。

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たくさんのツツジの足元をよく探すと カタクリの蕾がありました。

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山頂には誰もいませんでした。

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中央奥が我が家の裏山の岩湧山です。

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今日は黄砂と檜花粉が凄くて パラグライダーグランドから正面に見える台高山脈の高見山は

霞んで見えませんでした。

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スマホアプリ「ジオグラフィカ」の軌跡です。

今日は機嫌が悪く 下山路のダイトレは「高度ゼロです」と言い続けて軌跡が無く

私が補完しました。名前も私が記入しました。

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最低高度は登山口付近の330mですが 何故ゼロなのか分かりません。

まあ無料アプリなので 文句は言えませんが。

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春の花咲く大和葛城山、カタクリもきれいでした。 その1 2022年4月13日

2022-07-02 23:36:31 | 季節の風景

すっかり春めいた日に 久しぶりに大和葛城山へ行きました。

いろんな春の花に出会えました。特にカタクリはきれいでした。

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沢沿いの道では 鹿子草が咲いていました。とても小さな花です。

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沢沿いでは 沢繁縷(さわはこべ)もたくさん咲いて炊いました。

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植林地帯では あちこちで山吹が満開です。

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沢沿いでは黄華鬘(きけまん)が群落を作っていました。

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こちらは紫華鬘です。

華鬘とは仏具の一つで、元来仏僧に寄進した塙でしたが それが変化して水牛の皮や真鍮などを団扇の形に

切り取り、それに透かし彫りをした 仏堂の装飾品です。それとこの花の関連は分かりません。

透かし彫りの模様とこの花の形が 似ているのでしょうか。

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道端では 射干(しゃが)が咲き乱れています。

この葉がアヤメの葉と似ていて、アヤメの漢名の射干を間違えて付けたそうです。

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深山傍食(みやまかたばみ)も咲き始めました。

京都冷泉家の家紋がカタバミですね。

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水場ではヤマネコの目草が群落を作っていました。

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春の花 山瑠璃草です。瑠璃色をしています。

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山中では あちこちで山桜が満開でした。

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この桜の真上から太陽に照らされて 花が輝いていました。

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出始めた破れ笠(ニシノヤマタイミンガサ)もこれからどんどん大きくなり夏頃には地味な花を付けます。

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山肌をあちこちで ピンク色に染める 小葉の三つ葉躑躅(つつじ)が咲いています。

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まさに三つ葉ですね。

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その2へ続く

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