アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

九州北部の古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて その4 浮盃 4-2 2022年4月1日

2022-07-26 22:35:11 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
 

浮盃 4-2

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秦国から大量の技術者や若者ー海童たちを連れて 紀元前2世紀のはじめに 二度目に和国上陸を九州築紫にした徐福は、

宗像家(出雲王家の第六代主王臣津野の皇子吾田片隅が宇佐に移住して開いた王家)の宗像家三姉妹(吾田片隅の三人の娘)

のうち市杵島姫を后にします。

そして生まれた皇子穂穂出見(ホホデミ)が立ち上げた王家が 九州物部王家です。 

それから約300年後の二世紀はじめ 九州物部王家の物部五瀬(いつせ)は大和への第一次東征を開始します。

五瀬たちは 最初紀の国に上陸しようとしました。

 徐福が最初に上陸した出雲で 出雲王家の高照姫と結婚して出来た徐福の長男五十猛の息子高倉下は母親の大屋姫

と共に紀国に移住して勢力を強めます。

 

その高倉下の子孫たちに 紀の皮河口で手痛い反撃を食い 大将の物部五瀬は戦死します。 

残った九州物部軍は 船で南下して 熊野に上陸しますが、ここでも磯城王朝家のゲリラたちに攻撃されて

身動きが出来なくなります。

困り果てた物部軍は極秘にヤマトの登美家に使者を送り 自分たちを遊馬と屁案内してくれるよ絵に頼みます。

出雲王家の分家大和登美家の加茂建津乃身の導きで 無事にヤマトの磐余の地に落ち着いた物部軍は加茂建津之身に

感謝して彼を支那の神話に登場する太陽に住むカラスの八咫烏として祀り感謝します。 

磐余の地に入り 磐余彦(いわれひこ)と呼ばれる物部軍の大将は 物部の五瀬の弟の 稲飯なのか 三毛入りなのか

分からないので 記紀は「物部のウマシマチ」と言う名前をでっち上げました。

それが神大和磐余彦(神武)のモデルの一人です。

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その熊野に上陸した 物部稲飯と物部三毛入りの両方が主祭神 なので驚きました。

記紀には絶対に出てこない名前ですね。

「斎木雲州先生」の出雲王朝の古代史のまさにその通りなので 驚いた次第です。

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39

道路に埋め込まれた標識どおりに歩いていく。これも熊野古道なのです。

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40

突然きらきらした支那風の門が出てきました。見ると「徐福公園」と書いてあり、びっくり。

早速中へ入ってみることにしました。

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なんとこれが 道教の導師「徐福」だという。説明を読んで またまたびっくり。

なんと徐福は沢山の海童を連れて この熊野川の河口から 和国へ上陸したと書いてあります。

どこから こんな嘘を思いついたのでしょうか。

 

つまり熊野に上陸したのは 徐福ではなくて、徐福亡き後約350年後の子孫の九州物部王家の稲飯と三毛入りなのです。 

しかし嘘もこう堂々と書かれると 感心するなあ。

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阿須賀神社が分からなくて、地元の方に聞きまくり やっと到着しました。

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43

この阿須賀神社の由来書を読むと大変面白い。

フトニ大王(考霊天皇)の7年に徐福がこの地に上陸したと書いてあり、この神社は徐福を祀っているらしいのです。

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この項で前述しましたが、その頃この地に上陸したのは 先ほどの王子神社の主祭神 「稲飯と三毛入り」で

彼らが大和入りしたので 徐福の孫の天の村雲に始まる海部王朝(あまべおうちょう)第七代フトニ大王

(のちほど考霊と贈り名をつけられた)は大和の国から吉備の国へ逃げ 更に出雲王国の伯耆の国へ進出して 

出雲王家と第一次出雲戦争を引き起こしたのです。支那の歴史書に書かれた「和国大乱」の一つです。

 

つまり西暦170年頃に 熊野に上陸したのは徐福ではなくて 徐福の子孫たち「稲飯と三毛入り」のことを  

この神社では 「徐福が上陸した」と書き換えて ついでに徐福を祀っているのです。 

このあたりの神社は 先ほどの浜王子神社のように 歴史も非常に古く その由緒を読むと大変面白いのです。

その由緒は全くのでたらめではなくて 何らかの根拠があり、とても面白いのです。

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以上熊野古道を歩いた時に出会った 二つの徐福上陸地をご紹介しました。

探せばまだまだあると思います。

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今回の北九州で古代出雲を訪ねる旅の最後に徐福二度目の和国上陸地の浮盃(ぶばい)を訪ねました。

どんな場所なのか 昔から気になっていた場所でした。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸した

徐福とその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)は 出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 

徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が強く出来上がっていたのでしょう。

 

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国や磯城王朝を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

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浮盃4-3へ続く

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コメント
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