豊姫 その1
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239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国しましたが、魏の役人
テイシュンが付いてきました。北九州の伊都国において 魏の皇帝からの詔書と金印は直接
親魏和王の認定を受けた宇佐豊玉姫に手渡されました。
そして豊玉姫亡き後 大和が第二次東征軍と磯城王朝との混乱時期に、九州の伊都国に滞在する
魏の和国駐在武官、張政によって 親魏和王の宇佐豊玉姫の後継者に 豊玉姫の娘の豊姫が指名されました。
魏書では 台与トヨ と書かれました。ヤマト国と書かれたのを ヤマタイ国と間違えて
読んだ人がいるようですが 台与はタイヨではありません。トヨです。
豊姫は傘縫村の檜原神社で月神を祀り若日霊女貴(わかひるめむち)と呼ばれます。
また豊の国から大和へやってきた征服王朝の御姫様なので 豊来入姫(とよきいりひめ)と呼ばれます。
※豊来入彦、豊来入姫では豊の国からやってきた征服王朝ということがバレルので 記紀は
「豊鍬入彦(とよすきいりひこ)」「豊鍬入姫(とよすきいりひめ)」と書き換えます。
豊の国から鍬(すき)を持ってきた王と姫??? なんのこっちゃ。
当時は陰暦を使う時代だったから、月も満ち干を見て月日が決められました。それで月神は
月読の神(つくよみのかみ)と呼ばれました。
毎月の満月の夕方に月読の命の礼拝が行われ、春秋の満月の夜には大祭が行われました。
その大祭には多くの人が参列し信者が次第に増えていきました。
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豊姫は笠縫村の檜原神社で月読の神を祀りました。
神社の鳥居は古代出雲式の二本柱の鳥居です。豊姫は出雲王家の血は入っていませんが
檜原神社が大神神社の末社となっているために、大神神社の鳥居様式となっています。
三輪山の麓の大神神社(おおみわじんじゃ)は登美家はじめ出雲族が 八千矛王を祀るために建てました。
八千矛王は古代出雲第八代大名持(主王)で、八重波津身少彦(副王で記紀では事代主と書き換え)と共に、
秦国からの渡来人徐福とその部下の矛卑(ほひ)により幽閉殺害され、記紀では大国主と
書き換えられました。
※ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社宮司家です。
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檜原神社境内の「豊来入姫宮」です。
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ちなみに我が家の神棚の神様の御札です。
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親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後任として魏の承認を得た豊来入姫女王と豊来入彦王に このままでは
ヤマトの政治権力が奪われてしまうと危機感を抱いたイクメ王は 出雲の富家に密使を
送りました。内容は「出雲兵を大和に送り 豊国軍を追い出したら、三輪山方面と磯城郡界隈の
領地を与える」というものでした。
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イクメ王はまずその前に豊国軍を利用することを考えて 豊彦王に佐保彦追討を命じます。
豊彦軍は 佐保彦軍を破り ヤマトから東国へ追いやりました。
サホ姫は佐保彦軍と共に 近江の国へ逃れ、更に尾張の国の丹羽郡に隠れたといわれます。
佐保彦はさらに東へ行き 甲斐の国で日下部連と名を変えました。
豊彦軍は佐保彦軍を山城の国まで追いかけましたが、そこから転進して彦美知宇斯大王を
攻めるため丹波国に向かいました。
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豊国軍がヤマトから離れ、山城、丹波へ向かった隙に ヤマトから豊国軍によって
追い払われて 山城の国にいた賀茂家(登美家から賀茂家へ名前を変えていました)当主の
加茂田田彦は出雲からの援軍と共に 三輪山へ向かって進軍し 三輪山周辺の旧領地を回復して
さらに磯城王朝家の領地の一部も手に入れました。
笠縫村にいた豊来入姫女王は 加茂田田彦軍、出雲軍に追い出されて 兄の豊来入彦のいる
丹波へ逃れました。
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丹波では前述したように 彦美知宇斯王と武内宿祢の軍が 豊国軍とイクメ王の物部軍に
取り囲まれて降伏し、イクメ王は名実ともに大和の大王となるのです。
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しかし勝利したはずの西軍も不仲になります。豊国軍は「今度は自分たちがやられる」と
疑いだして 東へ移動しました。近江の国に住み着いた豊国軍は「豊郷」の地名を付けました。
尾張の地に移住した兵士は 武豊や豊明の地名を付けました。
豊明は月神のあかりを意味したそうです。
豊国勢はさらに関東へ逃げ、下毛野に落ち着いて その地の開発に成功して豊彦の子孫が下毛野国造家
となっていたのです。
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下毛野国赤城神社の広い境内です。
追われた豊来入彦は この地まで逃げてきてこの地の開拓発展に大いに貢献したという。
それで祀られているのです。
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赤城神社の立派な拝殿。その奥に本殿があります。
しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣してこの地を平定した」
「この豊来入彦将軍を祀っている」
などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんです。
イニエ王(崇神)は九州から一歩も出たことはなく、したがって大和の大王ではないし、豊彦王は
イクメ大王(垂仁)によって大和から追い払われたのだし。偽書も困ったもんだ。
追放された豊来入彦が 大王に派遣された将軍になっている。記紀は政権交代で追放された前王朝の
大君や皇子は すべて大王が派遣した将軍にされています。
つまり記紀は歴史書ではなく、持統や不比等らが自分たちの立場を正当化するための偽書(ぎしょ)、おとぎ話なのです。
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その2へ続く
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