アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 甲斐の国笛吹市 一の宮浅間神社 その1 2023年11月20日

2024-03-19 06:44:41 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

甲斐の国を訪ねて   その2    笛吹市  一宮浅間神社 その1

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甲斐、相模山旅の帰路 笛吹市の 「一宮浅間神社」に立ち寄りました。

凄い門構えで 沢山の人が出入りしていたからです。

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広い境内には 沢山の参拝者がいました。

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拝殿の前には 沢山の着飾った子供たちがいました。

そうか 今日は 天気も良いので 七五三に沢山の家族が来ていたのでした。

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支那の歴史書「三国志、呉書」に次のように書かれているそうです。

「黄龍2年-西暦230年ーに呉王孫権は自国軍を大幅に増強するために 二人の

将軍に1万の兵士をつけて夷洲(沖縄)と亶洲(九州)に行き 兵士を大量に連れて

帰るように指示した。しかし将軍らは亶洲を探し当てることができず 夷洲から

住民数千人を連れ帰るのみであった。孫権はこれに激怒して 将軍らは誅殺され

た」

この話が 沖縄人か呉人から 九州物部王家のイニエ王にもたらされたらしい。

当時物部王家は筑後平野にいたから イニエ王は呉軍の再来を恐れたのかも知れ

ません。

またイニエ王は 物部第一次東征軍が大和入りしたあと 磯城王家に

完全に飲み込まれてしまったことも知っていました。

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イニエ王は232年に 第二次東征を決意します。そして有明海を南下し 

薩摩の国 笠沙の地に到達し そこで美しい姫に会います。

彼女は阿多(南さつま市)の豪族竹屋守の娘で阿多津姫といいました。

イニエ王は彼女を妃に迎えます。

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記紀はこの史実を神話に変えました。

邇邇芸命(ニニギノミコト)は大山津身神に対して 娘の「木の花咲くや姫」を妃に

迎えたいと申し出た。大山津身神は 「姉の岩永姫も一緒に迎えてください」と

言いました。「もし岩永姫を返すならば あなたは短命になるであろう」と警告し

た。岩永姫は非常に醜女だったので 邇邇芸命は姉の岩永姫を返した。

それで邇邇芸命は短命となった。

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また記紀は イニエ王(のちの贈り名を崇神)を大君として扱い 「御真城入彦(み

まきいりひこ)」と名前まで変えている。

いかにも任那から和国へやってきた王としているが イニエ王は筑後平野から薩摩と

日向へやってきた 地方の王であり 生涯九州の地からでていません。

イニエ王は決して大和の大君などではないのである。

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イニエ王は薩摩から阿多津姫と共に日向へ回り 大淀川を遡り生目(いくめ)の地に

着いてそこで暮らした。阿多津姫はそこで王子を生み その王子は土地にちなんで

イクメと名付けられた。

そのイクメ王子が 後のイクメ大君(のちの贈り名を垂仁)である。

生目の地にはイクメ大君を祀る生目神社が建てられている。

※生目神社は このブログ 33薩摩日向を訪ねて に載せています。

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一宮浅間神社 その2へ続く

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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 甲斐の国 その1 富士河口湖町 2023年11月20日

2024-03-19 06:33:10 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

甲斐の国 その1 富士河口湖町  産屋ヶ崎神社

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河口湖湖畔の紅葉を楽しんで 散歩道を歩いていたら 小高い岡に祠がありました。

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屋根の下には 石の祠が一つポツンとありました。

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神社の前からは河口湖越しに富士山が正面に見えます。

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祠の横に神社の由緒が書いてあります。

山彦と乙姫は海の国から帰り、この岬に産屋を造り ウガヤフキアエズを生んだとあります。

それでこの地を 産屋ヶ崎というと書いてあります。

 

産屋(うぶや)とは 住居とは別に出産のために 造られた小屋のことです。母系社会の古代では

出産は神聖なものとされていたようです。

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主祭神は 穂穂出見(ほほでみ) 俗名 山彦。それと 豊玉姫 俗名乙姫とあります。

これは古事記の竜宮神話のお話がもとになっています。

 

神話では 弟の山彦は 兄の海彦から 釣り針を借りて 釣りをしますが 大きな魚に

針を食いちぎられて海の底に持っていかれてしまいます。

兄の海彦は 山彦に釣り針を返せ返せ としつこく迫ります。思い悩んだ山彦が 海辺で

悩んでいると 塩筒の翁が現れて 目無しかごを造り それに山彦を乗せて海底の

海神の宮に行かせました。海神の宮で 山彦は乙姫に見染められて 仲良く幸せに暮らしました。

ところが 兄の海彦の釣り針が気になっていて 海神に相談すると 魚を集めて 針を持っていた

魚を見付けてくれました。

 

そこで釣り針をもって 和邇(ワニーサメのこと)に送られて 地上の国に帰って来た。ワニを返すときに

お礼に刀剣をワニに渡したという。これが ワニがサヒ持ち(刀剣)の神と言われる所以です。

以後ワニは 山彦の助けをするようになります。

 

また この時身ごもっていた乙姫が 山彦に付いてきましたが 急に産気づきました。

乙姫は 山彦に産屋を造るように言い 出産の準備をします。そしてくれぐれも小屋の中を

覗かないように 念を押します。

 

ところが 小屋の屋根に鵜の羽や萱を葺き終らないうちに 乙姫は出産します。山彦はそれを覗いて

しまいますが なんと 姫はワニの姿になって出産していたと言います。

そして生まれてきた王子は 鵜の羽や萱を葺き終らないうちに生まれたということで

ウガヤフキアエズ と姫が名づけたということです。記紀では 彦渚武ウガヤフキアエズの命という

長い名前になっています。

 

姫は出産の様子を見られたことを怒り 竜宮に帰ってしまいました。

神話はさらに続きます。海の宮に帰った乙姫は 妹の玉依姫を生まれた王子の養育のために

地上に遣わします。 玉依姫は 成長したウガヤフキアエズと結婚して 生まれたのが

神武大王だと言うのです。

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この神話には重要なキーワードが いくつか登場します。

ワニ、渚武(なぎさたけ)、穂穂出見(ほほでみ)、ウガヤフキアエズ、豊玉姫、玉依姫などです。

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まず豊玉姫です。彼女は 支那の歴史書に登場する第二のヒミコで 宇佐王家の豊玉姫です。

このお方こそ正真正銘の「ヒミコ」なのです。第一のヒミコのモモソ姫、第三のヒミコの豊姫

(豊玉姫の娘で 支那の歴史書では 台与「とよ」と書かれました)、第四のヒミコ大和姫 などは 

支那人が和人から聞いた 伝聞事です。

 

しかし宇佐豊玉姫は 支那人から 直接「親魏和王」の認定を受けたお方です。

しかも支那人が直接声をかけて 肩に錦のタスキを掛けた正真正銘の和国の女王なのです。

姫巫女であり 女王でもある いわゆるヒミコこと宇佐豊玉姫皇后に 和国駐在武官テイシュンは

伊都国で 魏の皇帝の詔書と金印、紫帯及び下賜品目録を直接手渡しました。

 

女王は正装の上に紫色の錦帯を肩から斜めにかけて 大いなる威厳を示したそうです。

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記紀はこのお方を 完全に無視しています。完全に無視する理由はあります。

一つは 和国が当時支那(魏)の属国だったことを潔しとしないことがあるでしょう。

そんなことは 記紀には間違っても書けませんよね。

しかしいわゆるヒミコの時代は 和国は支那の属国だったことは 事実、史実なのです。

もう一つのほうが大きな理由だと思いますが、記紀では神武が東征して大和入りして以来

大王家は連綿と続く万世一系としていることが 作り事だとバレてしまうからです。

 

九州物部王家と豊王家が連合し、物部豊連合王国が第二次東征して 東征の途上で別動隊が

古代出雲王朝を急襲し 多数の兵士の流血の末 出雲王朝は降伏したこと。

イクメ王が ヤマトへの 途中吉備に滞在し ヤマトから 吉備に逃れていたフトニ大王(贈り名を

孝霊)の皇子吉備津彦兄弟を平定したこと、またイクメ王が 大和入りしてそれまで約300年続いた

磯城王朝を滅ぼしたこと。磯城王朝第11代大王彦道主大王が イクメ王に降伏し娘のヒバス姫をイクメ王

に差し出して名前を彦タツヒコと 変えて稲葉国造になり ヤマトを去り イクメ王は 幾多の流血戦を

経て 名実ともに大和の大王となられたことは 絶対に秘密なのです。イクメ大王は後世 贈り名を

垂仁と名付けられました。

 

たくさんの血を流した結果、九州物部王家による物部王朝が始まったことなど、隠さなくては 

「万世一系」が崩れてしまうのです。

流血による政権交代など、記紀の制作を指示した持統女帝にとって 最も忌み嫌う事なのです。

ましてや 支那からの渡来人(徐福)の末裔の 征服王朝なんて国民は誰もそっぽを向きますからね。

そして大和政権の祖先は 天孫降臨したなどと 更に嘘の上塗りをしたのです。

 

つまり歴史上もっとも有名なヒミコの 宇佐豊玉姫女王は おとぎ話の 乙姫様に替えられたのです。

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次に彦渚武です。

記紀では九州物部王家の 80年ほど離れた前後二度にわたる東征を一つにまとめて書いています。

第一次東征は 165年頃 九州物部王家の彦渚武王の皇子たち三人による東征です。

物部五瀬を総指揮官として 紀ノ川から大和入りしようとしましたが 高倉下の子孫の名草の戸畔(とべ)

による迎撃で 五瀬は戦死します。

 

残った物部稲飯と三毛入りの兄弟は紀ノ川河口から南下して熊野川河口に着きます。

しかしそこでも磯城王朝の兵士たちにゲリラ戦で苦しめられて前に進めず 秘密裏に協力を求めた大和の

出雲系登美家当主加茂建津之身の案内で磐余の地に入り 一応は目的を果たしたかに見えましたが

結果的には失敗と言われます。

 

宗教的な式祭を取り行う姫巫女をもたない物部王家は 太陽の女神を崇拝し祭祀する姫巫女を擁する

登美家に取り込まれてしまいます。武力だけでは民衆の支持を得られなかったのです。

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230年頃に九州物部王家は 再び東征を実施します。これが第二次東征です。

イニエ王は南下して各地で兵力を集めながら 薩摩で地元の豪族の美しい姫と出会い その姫ととも

薩摩から日向へまわり そこで一時落ち着きます。

その姫は阿多津姫と言い イニエ王の皇子を生みます。

阿多津姫は記紀では この花咲くや姫と名前を書き換えられます。

阿多津姫が生んだその皇子がイクメ皇子です。「日向の橘の小戸で禊給いし」 と 現在各地の神社神職

による祝詞の中で 言われるのがこのイクメ王です。

阿多津姫は短命で日向の地でなくなります。

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イニエ王は宇佐王家から豊玉姫を皇后として迎え入れ、ここに物部、豊連合王国が出来上がります。

宇佐家は代々月読の神をまつる家柄でした。

物部の武力と 豊玉姫の月読の神を祀る宗教性で大和を征服しようとしたのです。

宇佐豊玉姫は豊彦と豊姫を御生みになります。のちに豊来入り彦、豊来入姫と呼ばれるお二人です。

この豊彦を神話では ウガヤフキアエズと呼びました。しかもご丁寧に 先祖の彦渚武王の名前まで

付けて彦渚武ウガヤフキアエズの命と名付けました。

 

後年 豊彦王は 結局イクメ大王(垂仁)と出雲族に追われて東国へ逃げます。

詳しくは当ブログの「2015年9月 上州日光を訪ねて」をご覧ください。

 

また記紀はイニエ王を大和の大王として でっち上げて 崇神大王としていますが イニエ王は

西都原で亡くなり 第二次東征は 豊玉姫、イクメ王、豊彦らが行ったので 九州から一歩も出ずに

この世を去ったので 大王ではありません。地方の王で終わったのです。

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次に ワニです。出雲地方では 現在も サメのことをワニと呼びます。

私が育った松江市のスーパーでは 今も「ワニの肉」が売られています。

特にお正月前には沢山並びます。

古代出雲では 幸ノ神三神が国教でした。

つまりクナト大神、佐毘売のミコト、それに皇子神のサルタ彦です。

ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今の

ヒンドゥーの「象神 つまり ガネーシャ」のことです。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか「大山

(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられて、「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけに

その名前が残っています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」


と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて

居ます。

サルタとは ドラビダ語で 鼻の長いという意味で つまりヒンドゥー

の象神ガネーシャのことです。

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古代出雲では 幸ノ神三神のほかに 竜蛇神も信仰されました。そしてワニも 神聖な生き物として

尊敬されたそうです。紀元前三世紀末に 石見の五十猛海岸に沢山の海童たちと共に上陸し

第八代主王の八千矛(大国主と書き換えられた)と副王ー事代主の八重波津身を相次いで

幽閉殺害したり 出雲王国内で 徐福やその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司家の祖先)

や海童たちとの共存を嫌った 出雲王家の皇子たちは 大和地方に移住しました。

その中の一人は 和邇を本拠地として 和邇家を名乗りました。現在の奈良県天理市和邇町です。

第一次東征で 熊野で苦戦して身動き取れなかった物部軍を ヤマトに引き入れたのが登美家の

加茂建津之身であり 和邇家の人も物部に協力しました。

 

記紀の執筆者は 制作指示者の不比等らに命令された事以外を書くと 即 死罪なので 本当の

ことは書けませんが 神話の中にそれとなく真実を忍ばせたと思われます。

乙姫様が ワニの姿になったということは彼女が 出雲系と思わせたかったのでしょう。

しかし宇佐家は 出雲系の宗像家とは血縁関係がないと思いますが 記紀が書かれた当時は

執筆者の太安万侶たちは 豊玉姫が 出雲王家の血を引いていると 知っていたからこそ

こんな神話をかいたのでしょうね。

 

宇佐王家と宗像家は 隣国ですから 婿入り、嫁入りで 血縁関係が出来ていたのかもしれません。

またワニが サヒ持ち(刀剣)の神として山彦を助けたということは 大和入りした物部家を出雲系の

登美家、和邇家が 支えたことをにおわせているのでしよう。

神話に真実をそれとなく におわせて書き入れたのは 執筆者たちの精いっぱいの抵抗だった

のでしょう。

後日 太安万侶は出雲の地に監禁幽閉されますが ひそかに出雲王家と連絡を撮り 真実を伝え

て 向家はそれに礼を言ったと 向家に伝わるそうです。

当ブログの 「2014年4月10日の松江市阿太加夜神社」に詳しく書いています。 

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次に 穂穂出見です。

徐福は 石見の国五十猛海岸に 初めて上陸した後は和名を「火明かりーほあかり」と名乗り

出雲王家の高照姫を娶り 長男五十猛(のちの香語山)を設けた後 いったん秦へ戻り皇帝から

更なる資金と街道をもらい 二度目は 佐賀の浮杯に上陸して 饒速日(にぎはやひ)と

名乗ります。そして出雲系の宗像家の三姉妹の末娘の 市杵嶋姫を娶り 次男穂穂出見と長女

穂屋姫を設けます。穂穂出見が 九州物部家の始祖となり、穂屋姫は異母兄の五十猛と結婚して

天の村雲を生みます。雨の村雲は出雲族たちに助けられて 初代大和の大王となります。

ですから 神話で 穂穂出見が山彦となったことは 九州物部家を山彦としたのでしょう。

また香語山の子孫たちは 海部家や尾張家を名乗ったので 神話で兄の海彦に 弟の山彦が

喧嘩で勝ったと言うことは 兄の五十猛(香語山)の子孫に 弟の穂穂出見の子孫が勝ち

山彦が海彦を大和から追い出したという 事実を暗示しています。 

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次に玉依姫です。

残念ながら 調べたのですが わかりませんでした。斉木雲州先生の本や大元出版の本を

調べたのですが 玉依姫は でてきませんでした。

記紀や神話では 乙姫こと豊玉姫の妹が 玉依姫であると書かれています。記紀の執筆者が

同じ漢字の「玉」をつけて 姉妹としたのか 分かりません。

もしかすると 活玉依姫(いくたまよりひめ) から 玉依姫を考え着いたのかもしれません。

活玉依姫は 古代出雲王朝第八代副王(事代主)の八重波津身のお后の一人で 三島国(今の

大阪府三島郡島本町から高槻市富の里あたり)から輿入れされたお方です。

姫を二人お産みになり 長女は踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)で 次女が五十鈴依姫です。

また長男は 天の日方奇日方(あまのひかたくしひかたー以後奇日方と略す)です。

徐福、矛卑、海童たちに事代主や大名持が幽閉殺害されたあと、活玉依姫(別名玉串姫)は

出身地の三島の国へお帰りになりました。息子の奇日方や大勢の出雲族が付いて行ったので

三島の国は 出雲王国の一部となったと言われます。

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奇日方は 大勢の出雲人や三島人を連れて 更に大和の葛城地方(今の御所市)へ移住します。

そして鴨都波神社を建てて父事代主を祀ります。

詳しくは 当ブログ 「12 葛城地方へ移住した出雲族」に書いています。

奇日方は 東出雲王家富家(とびけ)の出身だったので 自らを登美家と名乗ります。

また古代は神の事を「かも」と発音したので 賀茂王家とも呼ばれました。

 

遅れて葛城地方へ移住してきた 徐福の長男五十猛(のちに香語山と名乗る)と徐福の九州での

市杵嶋姫との長女穂屋姫との間にできた 天の村雲を 登美家が支えて初代大和の大王とします。

 

そして活玉依姫の長女 つまり奇日方の妹の 踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)を天の村雲の

后とします。さらに 踏鞴五十鈴姫の生んだ 二代目大和大王 沼川耳(後の贈り名を綏靖すいぜい)の

后に 同じく活玉依姫の娘の 五十鈴依姫を嫁がせます。

 

ですから初期大和政権に大きな役割を果たした 活玉依姫を 神話の世界で玉依姫として 記紀の執筆者

が、真実を伝えるためにそれとなく 登場させたのではないかと 思います。私見ですが。

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ちなみに雨の村雲を 記紀は消し去って初代大王を 神武という名前の架空の大王として 

しかもその時期を出雲王朝の初めまで引き延ばしました。以後の大王の名前は おおむね事実と

合致していますが 大和政権が 数世紀も前倒して引き延ばされたために 大王の数をふやしたり

つまり大君でない人を大君にしたり (イニエ「崇神」、仲哀「息長帯比売皇后の部下」) 

大王の在位を大幅に伸ばさないとつじつまが合わなくなりました。

そのため 在位が 150年とか170年とかの 大王が何人も作られました。

ネットで大王一覧表を見ると100年以上の在位期間の大王が何人もいて 笑えます。

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その2 笛吹市一宮浅間神社へ続く

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