読書感想111 われらが歌う時(上下)<o:p></o:p>
著者 リチャード・パワーズ<o:p></o:p>
生年 1957年<o:p></o:p>
出身地 アメリカ合衆国イリノイ州。<o:p></o:p>
出版年 2003年<o:p></o:p>
邦訳出版年 2008年<o:p></o:p>
邦訳出版社 (株)新潮社<o:p></o:p>
翻訳者 高吉一郎<o:p></o:p>
感想<o:p></o:p>
フィラデルフィアに住む黒人音楽学生のディーリアは、憧れていた黒人コントラルト歌手マリアン・アンダーソンのワシントンで開かれた歴史的なコンサートに参加した。黒人であるがゆえにアンダーソンはワシントンの一流会場を借りることができず、屋外で無料コンサートを行ったのだ。7万5千の人が集まった、その会場でディーリアは亡命ユダヤ人の物理学者と出会った。彼は群衆の中で歌う、ひときわ美しい声の彼女に魅せられた。1939年のことだった。まだ、白人と黒人の結婚が禁止される法律が多くの州に存在していた時代だ。二人は結婚しニューヨークに新居を構え、3人の子どもを授かった。彼らの家庭には音楽が溢れ、いつもクラシックの歌曲やピアノが響いていた。両親は上の息子2人を学校に通わせず自宅学習で教育した。人種差別の実態を教えず努力次第で何にでもなれるという教育方針で。音楽や数学、物理の英才教育が行われた。クラシック歌手の神童ぶりを発揮する長男のジョナを、音楽学校にいれようとするが、黒人であるということが障害になり、合格できない。やっとボストンにある全寮制の音楽学校に、亡命ハンガリー人の校長によって入学が許可されたのは11歳のときだ。1年後に1歳年下のジョーイも入学してピアノを専攻する。黒人青年が白人少女に恋をして殺される時代に、ジョナは学園で音楽知識の塊りのような白人少女に出会う…。<o:p></o:p>
物語は2人の人物によって語られていく。一人はディーリアでもう一人は次男のジョーイ。1939年から50年間の一家の歩みだ。ジョナは両親の期待に応えて人種の壁を越えようとし、末っ子のルースは白人的な一切を否定して、黒人としてのアイディンティを求め、過激なブラック・パンサーの運動に身を投じていく。<o:p></o:p>
ここで黒人とは何かという問題が出てくる。3人の兄弟は黒人の血より白人の血のほうが遺伝的に多いのだ。母方の祖父も祖母も白人農場主の血を受け継いでいる。アメリカでは一滴でも黒人の血が混じっていれば黒人として扱われる。3人の兄弟の祖父の言葉が示唆的だ。<o:p></o:p>
「下方進化という言葉をしっておるかね?」私はうなずいた。私は文学好きの少年だった。「混血児は地位が低い方の階級に所属しなければいけないという意味だ」…<o:p></o:p>
「純血万歳。でっち上げだ。血が一滴でもって? どれだけ遠くの祖先までさかのぼっても、他の血が一滴も混じっていない? アメリカに生きている白人は一人残らず黒人なのだが、白人の振りをして生きているだけだ」彼はしばし沈思した。「下方進化ということは、私らは皆を取り込むべきだということだ。他の人たちを一人残さずね」<o:p></o:p>
白人、黒人を越えた可能性を、混血という言葉の中に<o:p></o:p>
感じる。両方を越える豊かな地平を。アメリカに新しい時<o:p></o:p>
代の風が吹いてくる。そんな希望が浮かんだ。また著者の音<o:p></o:p>
楽や物理学に対する博覧強記の知識には圧倒された。音楽に<o:p></o:p>
ついて詳しく書いてあるものを読むだけではつまらないの<o:p></o:p>
で、映画化されたもので、本書の中にある音楽を聞いてみた<o:p></o:p>
くなった。<o:p></o:p>
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