『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々719  梅の実もぎ

2016-06-30 18:35:41 | まち歩き

神奈川県相模原市緑区城山町にある本沢梅園の梅の実に異変が・・・

毎年恒例の梅の実もぎが週末2回行われていたのが、今年は1回だけ。

初日の土曜日に朝早くから人が集まったが、ほとんど梅の実はなし。

見つけた梅の実はこの二つだけ・・・

駐車場のヤマボウシ。

駐車場はスペースを広げて、たくさん車を迎える準備は整っていたのに・・・ 

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四季折々718  アジサイ祭り3

2016-06-25 21:11:17 | まち歩き

神奈川県相模原市緑区城山町のアジサイロードは田んぼや畑の脇を1キロ以上続く道。

 アジサイロード。

アジサイロードと里山の間には川が流れている。今の季節は夜間は蛍が飛んでいる。

アジサイの影になって蛍は見にくいかも。

 ピンクのアジサイの群生地。

ベンチで一休み。

きれいなピンク。

木陰のアジサイ。

休耕田の脇のアジサイ。

アヤメか、カキツバタか。

「こころをばなににたとへん

 こころはあぢさゐの花

 ももいろに咲く日はあれど

 うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて」

(萩原朔太郎1886年~1942年『こころ』) 

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四季折々717  アジサイ祭り2

2016-06-23 19:16:06 | まち歩き

相模原市緑区城山町城北地区。

アジサイロードのそこかしこにお祭りの幟が立っている。

色とりどりのアジサイ。

売店のテントが出現。

一休み。

木工細工のお店。自分で作れる体験型。

田植えの済んだ田んぼ。 

「飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮になお色のこる庭のあぢさゐ」(藤原家良1192年~1264年)にほんブログ村 写真ブログ 東京風景写真へ
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四季折々716  アジサイ祭り1

2016-06-21 22:23:32 | まち歩き

最近熊が出没するという噂の神奈川県相模原市。6月18日にここ緑区城山町、城山湖の麓ではアジサイをめでながらお祭り。熊も猪も出てこないのどかな里の風景が広がっていた。

 

城山湖から下ってくると、このあたりからアジサイロードが始まる。

「母よ

 淡くかなしきもののふるなり

 紫陽花いろのもののふるなり

 はてしなき並樹のかげを

 そうそうと風のふくなり」(三好達治『乳母車』) 

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読書感想198  「邪馬台国」はなかった

2016-06-17 15:18:10 | 時事・歴史書

読書感想198  「邪馬台国」はなかった

著者      古田武彦

生没年     1926年~2015年

出身地     福島県

初出版年    1971年

再出版年    1992年

出版社     朝日新聞社  朝日文庫

☆感想☆☆☆☆

 日本の古代史において九州王朝の存在を提唱する著者が、その根拠や研究のやり方を述べた著書である。この本で主として取り扱っているのは「邪馬台国」についてである。

 そのポイントは次のようになるであろう。

 日本の邪馬台国論者が依拠している中国の史書は「後漢書」である。「後漢書」に初めて「邪馬臺国」が出現する。

この「後漢書」は「三国志」よりも1世紀半ほど遅い時代に書かれた。「後漢書」を記した范曄(398年~445年)は中国を統一させた西晋が滅んだ五胡十六国時代から南北時代の戦乱の続く時代を生きた人であった。それに対して「三国志」を記した陳寿(233年~298年)は三国時代と西晋による統一の時代を生きた人であった。陳寿は「同時代史」として見聞きしていたことを書き、また西晋が魏から平和裏に政権の禅譲を受けていたので豊富な資料を利用することができた。それに対して范曄は、「漢書」と「三国志」の欠史部分を埋めるべく、「後漢書」に取り組んだが、戦乱の中で前代の史書や残存した資料で文章を構成した。それで「後漢書」の倭伝も「三国志」「魏志倭人伝」に依拠していたが、5世紀の常識や地理的な誤解などから、結果的に陳寿の文章を換骨奪胎してしまった。

その一番重要な点は「三国志」では卑弥呼の国を「邪馬壹国」と記述してあるのに、「邪馬臺国」と書き換えたことである。「壹」の字は蛮夷の国が中国の天子に朝貢した際に使われる漢字であり、天子に対して忠誠であり二心ないという意味がある。それに対して「貮」の漢字は離反を意味し悪徳の象徴のように使われている。一方「臺」の字は後漢や魏の時代には天子の宮殿の場合にのみ使われていたが、五胡十六国時代になると様々な国の天子や王たちも使い始めた。范曄はそうした時代の常識を反映させて「邪馬臺国」と書き換えた。

日本の中で、卑弥呼の国は邪馬臺国=ヤマト=大和という近畿説と、邪馬臺国=ヤマトという九州説が生まれる端緒は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」の「後漢書」の引用にある。それも改悪の引用である。「邪馬臺国」ではなく、「邪麻堆」と記述している。

著者は、魏が卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたことから、卑弥呼の国は「邪馬国」であり、倭国を代表する資格を認めたのが「邪馬倭国」の名称であり、「遠夷朝貢」してきた卑弥呼の国に「邪馬壹国」と表記したと考えている。

それで著者は卑弥呼の国を「邪馬壹国」、つまり「邪馬一国」と呼ぶのがふさわしいと結論づけている。

著者は古くからの中国の古典の写本の字体を調査して、陳寿の「三国志」では「壹」の字を使っていたと確かめている。さらに、音韻の面から、「倭」が三国時代のころには「ゐ」と発音されていたことを確かめている。倭国自身が美称として「大倭」(たいゐ)と名乗っていること、そこから「俀国」という名乗りにつながっていく。また、陳寿の使った里が漢代やのちの唐代のものとは違う短里であること、その行程・里程が正確であるという著者の意見を証明する研究者の提言も載せている。著者は陳寿について次のように述べている。

 

事実、今まで『邪馬台国』についての本を書いた人の中

に、このシュリーマンへのあこがれを書きしるした人

もいるのである。

しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人

伝の著者陳寿のことを。

シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そ

して徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうと

した人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなか

ったのである。ー中略ー

わたしの、とりえとすべきところがもしあるとするなら

ば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。-ただそれだけだ。

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