『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想329  脱北、逃避行

2023-08-04 18:16:27 | 時事・歴史書

脱北、逃避行(文春文庫)

著者  : 野口孝行

生年  : 1971年

出身地 : 埼玉県

出版社 : (株)新人物往来社

出版年 : 2010年

☆☆感想☆☆☆

著者の野口氏はアメリカのアーカンソー大学を卒業後、メーカー、商社勤務などを経て、2002年に民間活動団体NGO「北朝鮮難民救援基金」に参加、脱北者救援活動に携わっていた。2003年12月に広西チワン族自治区南寧市で脱北者2名とともに身柄を拘束され、8か月の実刑判決をうけ、2004年8月に刑期を終え国外退去処分となり、帰国した。その時の体験を綴ったのが本書であり、2010年に出版された。

本書は脱北者や脱北方法に関する第一部と、中国で未決囚が収容される看守所での生活の第二部が記述されている。どちらも貴重な体験であり、記録である。

第一部では、北朝鮮から脱北した人々にとって隠れ住む中国東北地方からの脱出の困難さが大きな壁になっている。中国国外に脱出する方法がなく、中国の公安から身を隠しながら何年も中国東北地方にとどまっている人も多い。脱出方法では東北地方から近いモンゴル経由が中国当局の監視強化のためにつかえなくなり、南部からベトナム、カンボジア経由を選択せざるをえなく、野口氏もそのルートで一回目は成功し、二回目で拘束されたのだ。野口氏のNGOが救援する脱北者は日本から北朝鮮に帰国した元在日朝鮮人やその家族である。日本に支援してくれる親戚がいる人も、全く支援してくれる親戚を持たない人もいる。ベトナム、カンボジアルートを使う時に、韓国の脱北者救援組織の協力をえなければならなかったが、韓国の担当者は、韓国ではなく、日本に帰国したいという脱北者の希望に難色を示した。なんとか協力を取り付け、そのルートを開拓したのだ。電話、特に携帯電話が大活躍する。脱北者が日本の親戚と電話で話し、資金援助を頼んだり、東京のNGO本部と中国やベトナムで連絡を取り合っている。

第二部の看守所の生活は不謹慎だが、実に面白い。いろいろな人が未決囚として拘留されている。野口氏は簡単な中国語以外は話せないので、筆談で会話する。中国人の未決囚も退屈しているので、会話が弾む。収賄容疑で捕まっている共産党の幹部や市の幹部は、野口氏に彼らに連絡していたらうまくベトナムに逃がしてやったと言ってくれる。今度は連絡してくれと連絡先を交換する。金や地位によって看守所の中の待遇も全く違ったものになる。寝る時以外獄舎に戻ってこないで、看守たちと一緒に食事をとったり自由にしている幹部もいる。中には自分の家に帰っている幹部までいる。未決囚の中でお金のある人が食事代を出してお金を出せない人にも一緒に分け隔てなく食事をする。お金をだせない人は皿洗いなどをする。食事の場面では日本人にはとても受け付けないものもある。中庭で飼っていた子犬が大きくなったと言って屠殺して一日中食べる。著者は美味しいと感想を述べている。日本に帰国する空港に行く途中で、蛇屋によって蛇粥を注文し著者に公安職員が食べさせてくれる場面もぎょっとしてしまう。広州の空港では高級な広東料理を公安職員たちと一緒にご馳走になる。警官と国外退去処分になる囚人が一緒に食事するなど日本では考えられない。

地元の有力者にコネがきく南寧の弁護士が4千元(約5万6千円)で野口氏の釈放を請け負うとNGOに言ってきていたのだが、NGOは半信半疑でこの申し出を断ってしまった。

人治の国、中国。恐ろしいが面白い国だし、人々だ。


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読書感想328  ノモンハン1939

2023-07-24 16:27:41 | 時事・歴史書

読書感想328  ノモンハン1939

著者    : スチュアート・D・ゴールドマン

出身地   : アメリカ合衆国

経歴    : ジョージタウン大学で博士号、1979年から2009年まで30年にわたり米国議会図書館議会調査局で、ロシア、ユーラシア地域の政治・軍事情勢の研究に携わる。

出版年   : 2012年

邦訳出版年 : 2013年

邦訳出版社 : (株)みすず書房

訳者    : 山岡由美

☆☆感想☆☆☆

気が重い本だった。ノモンハン事件は第二次世界大戦前夜に日本とソ連がモンゴルと満州国の国境線をめぐった戦いで、日本が大敗した戦争と聞いていたからだ。しかし詳しくは知らない戦争なので、本書を手に取った。

日本では国境線を巡る局地的ないざこざのような位置づけのノモンハン事件を、本書では当時の国際情勢の中から読み解いている。スターリンが戦略的な視野の下に布石を打っていくのに対して、日本は戦略的な思考がない。関東軍(満州国在住の陸軍)は東京の陸軍参謀本部の命令を無視して勝手な下克上を繰り返している。1931年柳条湖事件をきっかけにした満州事変、1937年盧溝橋事件をきっかけにした日中戦争も下克上であり、日本政府も陸軍参謀本部も結果にひきずられて認める形をとってしまう。下克上の当事者たちは罰せられることなく、第二次世界大戦を指揮していく。上意下達が陸軍の中で徹底されていない。それに対してソ連軍はスターリンの粛清によって特別赤旗極東軍は1938年だけで師団・軍団将校の7割、軍司令部員の8割を失いながらも、スターリンの命令に絶対服従で上意下達が徹底していた。本書では次のように述べられている。

  「戦争とは他の手段をもってする外交の継続にすぎない」とはクラウゼヴィッツの言であるが、ソ連の政府首脳はこのことを充分に理解していた。ノモンハン地区の軍事的問題は、はるかに広範な文脈に位置付けることで最善の解決を得られると認識していたのである。軍事行動は政治行動に従属させられ、政治との調整がはかられていた。時間軸にも細心の注意が払われ、八月の攻勢が二重の効果を生むこととなったのだ。勝利が決定的となったときでさえ、赤軍は厳しい統制下におかれたままだった。戦果に酔いしれることもできず、その機を捉えてさらなる軍事行動を行うことも、またー赤軍にしてみれば認められてしかるべきことであったろうがー国境線を越えて、組織的戦力を失った日本軍を追尾することもできなかった。ジューコフの第一軍集団は、ソ連とモンゴルの主張する国境線の内側で停止し、敗散した敵を丁重に遇して紛争を速やかに集結させた。

スターリンはナチス・ドイツのヒトラーの反ボルシェビキに強い脅

威を抱き、コミンテルンを通じて各国の共産党に民主主義政党との

統一戦線を組み、反ファシズムの戦いへの参加を命じた。スペイン内

戦では共和国軍と協力しフランコ軍と戦った。ドイツ、フランス、イ

ギリスという資本主義国家の反ソ連という連携にくさびを打ち込ん

だ。スターリンが恐れていたのはドイツと日本という東西から挟撃

されることであった。日本が中国との戦争に深入りすればするほど、

ソ連への軍事侵攻の余力を失うので、蒋介石が日本と停戦協定を結

ぶことがないように、国共合作(対日戦のために国民党と中国共産党

は協力する)を応援し、大量の軍事援助を蒋介石に与えた。ヨーロッ

パでは統一戦線戦術、中国では国共合作をソ連を守る盾としたのだ。

日本の陸軍では中国での戦争が長引く原因の一つとしてソ連の中国

への軍事支援があり、ソ連を叩く必要があるという議論があった。ノ

モンハン事件は5月、7月、8月と3回にわたって戦われた。航空機、

戦車、火力のすべてにおいてソ連軍が質量ともに上回った。関東軍は

壊滅的な敗北を喫した。いろいろ原因はあるだろうが、赤軍の戦闘力

の軽視、情報の不足、軽視がある。8月のソ連軍による大攻勢は、独

ソ不可侵条約が締結される前日に開始された。東西2面から挟撃さ

れる恐れがなくなったソ連軍が日本軍を集中して叩いたのだ。独ソ

戦が始まり、ドイツが日本にソ連を叩け、北進せよと迫ったが、結局

南進論に決まり、真珠湾攻撃に至った。ノモンハンでの敗北が判断を

曇らせた原因でもある。ジューコフはモスクワを守り切っていた。北

進していたら、ソ連は敗北したというのが著者の見立てだ。

ノモンハンでデビューしたジューコフは300門に上る対戦車砲や

速射砲、200門を超える重砲を配置して集中した火力攻撃を加え、

歩兵部隊や装甲部隊に砲兵中隊をつけて支援させた。モスクワ防衛

戦でも同じ戦術を繰り返している。このジューコフの戦術、火力の集

中攻撃はソ連の伝統的な戦術となったようだ。現在のウクライナでも使われ

ているのだろう。


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読書感想311  鎌倉北条一族

2022-07-01 11:27:42 | 時事・歴史書

鎌倉北条一族の画像

著者    :  奥富敬之

生年    :  1936年(昭和11年)

出版年   :  2000年

出版社   :  (株)新人物往来社

☆☆感想☆☆☆

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている北条氏の120年にわたる興亡を描いた歴史書。北条氏がどのような一族だったかがわかるものになっている。個人的な野望とかではなく、時代の変容につれて権力の推移が下克上となって北条氏を押し上げ、また奈落の底に落としている。

 北条氏は源頼朝と北条政子の結婚によって歴史の表舞台に出てきたが、もともとは伊豆の小さな土豪で兵力も少なく、隣接する伊東氏が300騎の兵力を維持していたのに対して30騎から50騎の規模だったと言う。三浦半島を根城にした三浦氏は3000騎を用意できる規模だったと言う。それ以後、兵力が足らず、借り武者や新付けの武者で補った。それが、競争相手の豪族を倒し、承久の乱で後鳥羽上皇を倒し、一挙に北条氏の領地が拡大し、そうした土地の管理する人材を借り武者や新付け武者から始めて家臣として拡充していった。

 名執権と言われた泰時が北条一族を統率するために作った家令と家法の制度の中の家令が得宗家に奉公する家臣、御内方である。外様とは将軍家奉公の地頭御家人のことである。家法とは北条一門に対する惣領家としての権力を強化し権威付けたものである。得宗とは義時の法名である。泰時の時代には北条氏は男子だけでも30名を超える大豪族になっていて分流の傾向が顕著だったため、他の豪族たちとの競争に勝ち抜くために北条氏としての結束が必要とされた。それで泰時は義時の遺領配分を弟妹に厚くし、義時を毒殺したと言われる5番目の妻伊賀の方の息子政村も御とがめなしとしたのだと言われている。泰時は叔父の時房を連署にし、両執権体制をつくり、有力御家人11名を新設の評定衆に任じ、御家人の意向を幕政に反映させようとした。そして関東御成敗式目(貞永式目)を制定し、「東国武士による、東国武士のための、東国武士の政権」を、合議制と法治主義の2本の柱の下で成立させたのである。

 泰時の孫の時頼が執権だったときに、最大の豪族だった三浦一族を滅ぼし、北条氏の惣領家独裁体制、つまり得宗専制が始まった。時頼は執権を引退した後も最高権力者であり続けた。誰が執権になろうが、権力は得宗が握っている。評定衆も名誉職化してくる。「北条氏による、北条氏のための、北条氏の政権」に変質。社会的には貨幣経済の発展で御家人たちの階層分化が深まり、没落する御家人が増加した。そうした御家人の救済にあたったのが、元寇で若くして亡くなった時宗の外戚だった安達氏だった。安達氏は外様御家人の代表として、幕政改革にあたったが、得宗家の家臣である御内方との利害が衝突し、内管領の平頼綱によって滅亡させられる。こうして内管領が得宗家すら傀儡化する時代が到来する。8代目の貞時は平頼綱を滅ばしたが、徳政令を出したりして御家人の窮乏を止めようとしたができず、内管領の力も抑えきることはできなかった。不運は重なり、貞時の息子は3人までも障害児で4番目の息子が無能と言われた高時だった。このときの内管領は長崎円喜。鎌倉が陥落するときに高時は最後まで戦ってくれた一族の金沢貞將に空席となっている執権に任命すると言う御教書を与えた。「一家の滅亡、日の中を過さじと思はれけれども、多年の所望、氏族の規模とする職なれば、今は冥途の思い出にもなれかし」すると、貞將は「我が百年の命を棄てて、公が一日の恩に報ず」と突撃したと言う。高時の遺児、時行は信濃に逃れてそこから鎌倉の北条氏の復権を図った。幾度も成功や失敗を重ねながら、1353年鎌倉幕府滅亡から20年目に足利氏によって捉えられ斬られた。

 「平家物語」も哀れだが、北条一族の興亡も理想と現実の狭間で苦しむ様に哀れみを感じる。時行も静かに信濃で暮らしていれば北条氏の命脈をつなげることができたかもしれない。それをしないでどんなに不利でも理想を追い求め奮闘する姿がこれぞ鎌倉武士の鑑に違いない。高時の最後の言葉も無能であっても人柄の良さを感じさせる。あと内管領になっている平頼綱や長崎円喜が平重盛の血筋なのは驚いた。新しく有能な武士を集める時に敗者の中から選らばざるをえないのかもしれないし、もともと血筋がいいから、主君を主君と思わない傾向も潜んでいるかもしれない。


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読書感想296  ユダヤ人の歴史

2021-03-05 20:56:41 | 時事・歴史書

ユダヤ人の歴史の画像

読書感想296  ユダヤ人の歴史

 

著者     レイモンド・P・シェインドリン

経歴     ペンシルヴァニア大学で東洋学、コロンビア

大学でアラビア文学を専攻。アメリカ・ユダ

ヤ教神学院教授。スペインにおける中世アラ

ビアの詩文学を教えている。

出版年    1998年

邦訳出版年  2003年→2012年 (文庫化)

邦訳出版社  中央公論新社→(株)河出書房新社

訳者     入江規夫

☆☆☆感想☆

紀元前から始まるユダヤ人の歴史は追放と虐殺の繰り返しだ。第2次世界大戦のナチス・ドイツによる集団虐殺が史上初めての暴挙かと思っていたが、ユダヤ人の歴史ではよく起きていたことだった。キリスト教とイスラム教の中でユダヤ教の教義を守り民族のアイデンティティを守りぬいた人々のしぶとさには感嘆せざるをえない。ユダヤ人の歴史を知る上で鍵となる言葉がいくつかある。特に迫害と関連のあるワードである。

第1に、「ディアスポラ」。バビロニアによって国外に追放されたユダヤ人は、バビロニアを征服したペルシャ帝国によって故国への帰還と宗教の再興が認められた。しかし、ペルシャ帝国の興隆に伴って上流階級のユダヤ人はほとんどバビロニアの地にとどまった。最初で最も長く続いた、ディアスポラ社会、つまり故国を離れたユダヤ人社会がバビロニア(つまりイラクに1951年まで続いた)とエジプトに成立したのだ。このバビロニアのユダヤ人の長老たちが古代イスラエル王国からの古い文献を基に編み出した書物「トーラー」(聖書の最初の5冊からなっている)が宗教的な行事にからめて民族的アイデンティティを作り出した。このディアスポラス社会は紀元70年までには、中東全土からローマ、スペインを含むヨーロッパ西部のローマ帝国の属州内に広がっていた。

第2に、「アシュケナジム」。中部、東部ヨーロッパのユダヤ人の起源とされている。ビザンチン帝国下でキリスト教徒に変わり、迫害されていた、南イタリアにいたユダヤ人は、8世紀のフランク王国のシャルルマーニュとその息子のルイ1世にプロバンスやライン地方に移住することを奨励された。アシュケナジムは遅れた農業地帯に商人としての技量を買われた。ユダヤ人は中世ヨーロッパで土地の所有を認められなかった。例外はあったが。一般民衆からは嫌悪と憎悪の対象だった。町に住み、商人や職人として身を立てていたユダヤ人はギルドの発達により職人と商人としての身分を奪われ、質屋だけが生業として認められるようになる。11世紀に十字軍がはじまると、ユダヤ人の大量虐殺がライン地方で始まった。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、スペインでもユダヤ人排斥運動と虐殺が始まった。十字軍の遠征によりベニスなどが地中海貿易を独占するようになり、ユダヤ人の貿易における地位を低下させた。そしてドイツにいたユダヤ人は東欧、ポーランドへ移った。

第3に「セファルディム」とはスペイン、ポルトガル系ユダヤ人のこと。「マラノ」とはユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人のこと。イスラム教支配下でのユダヤ人の社会は繁栄を極めた。キリスト教国化が進む中で、スペインの地理、住民、アラビア語や財政、税金に精通したユダヤ人はスペインの支配者にとっては行政官として価値ある存在になった。文化的にもギリシャの科学や哲学をヘブライ語やアラビア語から翻訳するうえで力になった。しかしイベリア半島で異端審問が始まると、対象はイスラム教徒にとどまらず、ユダヤ人や、改宗したユダヤ人である「マラノ」にまで及んだ。ほとんどの「セファルディム」と「マラノ」がイベリア半島を去り、オスマン帝国へ移った。オスマン帝国は軍事技術や農業技術では先進国だったが、商業や貿易、法律的知識において劣っていたので、スルタンのバヤジッド2世は歓迎した。バヤジッド2世はスペイン王フェルディナンドがユダヤ人を追い出して自国を貧しくし敵を豊かにしたことを見て、賢明な国王か疑いをもったと伝えられている。オスマン帝国の最盛期を過ぎると財政逼迫し、ユダヤ人の財産を没収しようと画策するようになる。それで、「セファルディム」と「マラノ」は最先端の資本主義国オランダに移る。アムステルダムは「オランダのエルサレム」と呼ばれるほどユダヤ人は繁栄した。「セファルディム」のアメリカへの移民は17世紀にはじまり、増加していった。

第4に「ポグロム」とはロシアや東欧でおこったユダヤ人弾圧、虐殺のことである。これによりアメリカ合衆国への移民が加速した。

第2次世界大戦が終わったとき、ヨーローパのユダヤ人はイギリスとスイスに残るだけでほとんど痕跡をとどめなかった。著者はドイツがユダヤ人壊滅に費やした富や資源を連合国に対する戦いに振り向ければ有効に使えたのではないだろうかと提起している。バヤジッド2世の言葉が浮かぶ状況だ。

第2次世界大戦中、フランスのロスチャイルド家の人々はドイツ当局の捜索から逃れることに成功した。数少ない快挙だ。フランス革命後、フランスはユダヤ人に国籍を与えた。オスマン帝国でも19世紀にユダヤ人に国籍をあたえた。近代社会の中でユダヤ人もユダヤ社会への帰属意識より国家への帰属意識が強くなっている。特にアメリカでは民族的な伝統は薄れているという。

楽しい本ではないが、ユダヤ人やヨーロッパの人々の関係が整理された。


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読書感想289  反日種族主義との闘争

2020-11-30 00:01:39 | 時事・歴史書

読書感想289  反日種族主義との闘争

著者:李栄薫 金洛年 車明洙 金容三 朱益鐘

   鄭安基 李宇衍 朴尚厚

出版年: 2020年5月

邦訳出版年: 2020年9月

出版社: (株)文藝春秋

☆☆感想☆☆☆

本書は昨年出版された「反日種族主義」に対する数多くの批判の中で、重要だと思われるものを選んで反論したものだと李栄薫氏は述べている。構成は次のとおり。

 プロローグ:幻想の国

第1編 日本軍慰安婦

第2編 戦時動員

第3編 独島

第4編 土地・林野調査

第5編 植民地近代化

特別寄稿:作られた中国の反日感情

エピローグ:悪い風俗、浅薄な文化、国家危機

まず、李栄薫氏は前作の「反日種族主義」を刊行したことで、大きな解放感を味わったことと、韓国社会から受けた大きな恩恵への最小限のお返しができたことに安堵したと語っている。各編は前作よりも具体的詳細に論述している。それはそれで興味深いが、プロローグで韓国という国の精神文化のあり方が紹介されている。特異な精神文化だ。

ここでは、文大統領の「中国と我々は運命共同体だ」という発言に見られる中世起源の幻想に大統領だけでなく多くの国民が支配されていることはなぜなのかと問う。朝鮮王朝が滅びた後も、国土を中国の一部、国体を中華帝国の一環であるかのごとく感じ取る“文化遺伝子”は生き残ってきたからだという。朝鮮王朝は中国の明の諸侯国として樹立され、朝鮮の支配層は自分たちの国土さえも次第に中国的な風景であるように感じ取るようになっていった。洞庭湖を境にした湖南と湖北を模して、防波堤として作られた碧骨提を洞庭湖に見立て全羅道を湖南とよび、その北側の忠清道を湖西と呼んだ。さらに壬辰倭乱に援軍を派遣してくれた明の万暦帝、朝鮮という国号を下賜した洪武帝、明の最後の皇帝である崇禎帝を宮中の後苑に祭り、年間7回も祭祀を行った。祭祀を通じて18~19世紀の朝鮮王朝は消滅した明の皇室の一員に昇格し、中華の嫡統を受け継いできたのだ。中国と精神において一体化した。そして親中事大主義として復活したのが文大統領の「運命共同体」だという。それに対して蛮族の日本には反日種族主義で応じるのも朝鮮時代から引き続く“文化遺伝子”ゆえだという。

さらに文大統領をはじめとした「民主化勢力」の歴史観も中国を世界の中心とみなす朝鮮王朝の“文化遺伝子”の複製版だと指摘している。1970年代に出版された「転換時代の論理」「八億人との対話」、1980年代の「解放前後史の認識」。これらの著作が「民主化勢力」の歴史観を完成させたという。中国はヒューマニステックな革命の国で、北朝鮮は物質的には貧しくても精神的には豊かな国なので、韓国の物質と北朝鮮の精神を統合する必要があり、低い段階の連邦制を通じた平和統一こそ、韓国が実現できなかった民族・民主革命の道だという。

こうした視点は理解しがたい文政権を歴史的な視野から理解する一助になるだろう。


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