『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳(韓国語→日本語)  静かな事件2

2021-06-29 11:47:15 | 翻訳

☆☆ 趣 味で勉強している韓国語サークルで取り上げた作品を翻訳しました。営利的な目的はありません。☆☆

2017第8回 若い作家賞 受賞作品集から「静かな事件」

著者  : ペク・スリン

著者略歴: 1982年 仁川生まれ。2011年 京郷新聞新春文藝に短編小説「嘘の演習」が当選し登壇。

      2015年 若い作家賞を受賞。

「静かな事件」2

私が転校した学校は地理的に私たちの町とアパート団地の中間ぐらいにあった。そのために学校の構成員も私たちの町の子供が半分ぐらいとアパート団地の子供が半分ぐらいに分かれていた。両親は新しい学校へ登校する前に何度も私にせっかくならアパートに住む子供たちと親しくなれと口を酸っぱくして懇願した。しかし、そんな懇願ができたのは両親が一度も転校したことがなかったからだと、わたしはまもなくわかるようになった。転校生には友達を選ぶ権利がほとんどないということを両親はあらかじめ知ることはできなかった。転校生として初めて教卓の横に立った瞬間私に注がれた80の瞳。推測し評価しどの部類に入れなければならないか判断するために、私を素早くすみずみまで調べていた視線を私は長い年月が経った今でも覚えている。新しい学校での初日私は、教室の床に唾を吐く半分の子供たちに違和感を感じる他の半分の子供たちと自分が近いと思ったけれど、同じロゴのバックパックを背負って通い、勉強に命をかけるのは取るに足りないことだというように授業時間にはうつぶせになって寝て、それぞれ帰宅しては課外学習を受けていたその子供たちは、私が自分たちとは違うということをたやすく見抜いた。クラスの子供たちはちょっと静かに共存しているように見えたけれど、物理的な性質が違い、合流地点を過ぎた後にもそれぞれ白と黒を維持しながら並んで流れる南アメリカの二つの川のように、互いに混ざる方法がなかった。さらに私には勉強の才能があり、それが転校した後初めて受けた中間試験で証明されたために、私はアパートに住む子供たちと付き合うことができた。しかし、彼らが三々五々集まってする課外学習に属すことはできなかったし、何よりも彼らとは帰る方向が違った。

 もし転校した学校にヘジがいなかったら、新しい生活はなおさら陰鬱になっただろう。しかし、よそから来た私を警戒する目つきで眺めていた子供たちの間にヘジがいて、おかげで少しずつ新しい環境に適応することができた。ヘジと親しくなったのはヘジだけがこちらとあちら、どちらにも加わることができずどっちつかずだった私を、排斥しないただ一人の子供だったからだ。ヘジは学校に居るとき、そんなに目立つ子供ではなく、むしろ静かなほうだったけれど、学校から出れば口数が増え闊達になった。ソウルの地理を全く知らない私を近くの大学前のファーストフード店や映画館のような所に連れて行ったのもヘジだった。私たちの中学校に付設されている男子中学校にかようムホが私たちと一緒になる日も多かった。初めて会ったとき、ムホは背がようやく私くらいで痩せた体格に可愛い顔で、同年輩の男だというよりは弟のような感じだった。さらに3名もいる姉たちのナプキンのお遣いをして育ったせいか、女の子と付き合うのが好きだった。ムホは町のほかの男の子たちと違って私に意地悪い冗談を言わなかったし、何よりも私の前で悪たれたことを言わなかった。私たちは徐々にしょっちゅう付き合うようになった。ヘジやムホと違って私は学校の前の塾に通っていたから、かれらが遊んでいるときに後から遅れて合流するスタイルではあったけれど。

 ヘジと二人で、あるいはムホまで入って3人で、夕方遅くまで遊んでいて日がだんだん沈む頃、帰宅するために険しい坂を上って崩れた路地にさしかかると、私たちはどこかに隠れていた野良猫と決まって出くわした。そこには本当に水道もなくたくさんの猫が暮らしていた。

駐車している車の下を住処にして横たわっていたり、無断投棄された黒い袋の周囲をしきりにのぞき込んでいるときに人が通り過ぎると、びっくり仰天してどこかへ消えてしまう野良猫たち。

 多分ヘジと親しくなってから間もなく、一緒に帰っていた晩のことだっただろう。ヘジにそのころ見た不思議な光景について話したのは。それは町の入口の空き地で一人の小父さんが数多くの猫に取り囲まれていた場面についての話だった。その小父さんは背が低く、ひげをきちんとそらないせいか、奇妙ですごく恐ろしく、父より年上のように見えたけれど、実際年上かわからなかった。ヘジは私の話の中に登場した人物が誰かよく知っていた。その小父さんはムホの家のある路地に住む人で、ずっと以前大きい事故で家族をみな失ってから、町の猫たちを捜しまわって餌を与え始めたそうだ。その町に住んでいる期間私はその後もたまに猫小父さんー私たちは彼をずっと猫小父さんと呼んだーに出会った。私は5匹、6匹、10匹の汚い猫たちが特有の臭いを放ちながら一か所に集まっている光景と酒でも酔ったようにいつも目を充血させて立っていた小父さんが恐ろしかった。しかし、ヘジは全く怖くないのか、私と一緒にいても猫小父さんに会うと、町の普通の子供たちのように彼に近づいた。お遣いで小父さんにお好み焼きや常備菜をもってきてあげる時もあったが、大部分の場合、黄色い縞模様の猫や腹と口の周りが白く、背中は黒い猫をなでながら、他の猫が小父さんがわけている餌を食べる姿をしゃがみこんで見物した。何も言わず、私は彼らのそばに近づくことができず、ヘジや小父さんの足に毛をつけてのろのろ通り過ぎる猫たちをかなり離れて見守った。餌を全部食べた猫たちが散らばるとヘジも私のそばに再び戻ってきた。小父さんもいつもそうしてきたようにそのまま空っぽの餌袋をもって、暗い路地の奥へ消えた。

 塩峠での生活は次々適応できたけれども、猫小父さんの存在のように最後まで適応できないものもあった。いつでも聞こえてくる発情した猫たちの鳴き声や、薄い壁を越えて伝ってくる隣の老人の痰を吐く音や大きくボリュームを上げたテレビの音だった。一体全体私にとってどうしてこんなことがありうるのか。どうして?という声をよく張り上げていたドラマの主人公たち。その時期のドラマでは貧しい男が国家試験に合格した後にお金持ちの女と会うために昔の愛人を捨てることが本当に多かった。母と父は私がヘジと付き合うのを好んでいなかったけれど、上位圏の成績を変わらずに維持していたので、私にやたらに何だかんだと言わなかった。両親は私を良い私立高等学校に送るためにソウルへ上京してきたという話をいつでも語った。お前は今後素晴らしい人にならなければ。そんな話はしつこく私の足の裏にべたっとくっついて、どこでも歩くたびにべたべた、音がするほどだった。両親が私に口止めしたので、私は再開発の予定のために塩峠に引っ越してきたという話を誰にも言わなかった。季節が変わっても私たちが待っていた再開発の噂は聞こえてこなかった。しかし、母も父も簡単に動揺しない性格で、相変わらず毎朝路地を庭箒で掃き続けた。猫たちは毎晩ごみ袋をほじくり返して行くせいで、明け方の路地にはごみが転がっていた。猫を見るたびに、どこかで赤ちゃんの泣き声のような猫の鳴き声が聞こえてくるたびに、お母さんは本当に不吉な動物ねと言った。そのたびにお母さんは本当に身震いして、顔をすごくしかめたので、私もまたわけもわからないまま体を震わせた。

 日が暑くなり始めると、騒音より耐え難かいのが悪臭だということを私は学んだ。騒音は窓を閉めればある程度解決したけれど、悪臭は窓を閉めても窓の隙間から入ってきた。その町には私が以前暮らしていた所でただ1回も嗅いだことのないあらゆる臭いが漂っていた。バキュームカーが通り過ぎるたびにひどい悪臭や猫の排泄物の臭い、何よりもいい加減に道に捨てられた食べ物のゴミが腐る臭いがいつも空気中にいっぱいだった。私たちは暑くて死にそうでも窓を開けることができず扇風機を付けて暮らした。お母さんは家中の隅々に芳香剤を置いた。私はアパートに暮らす子供たちが私の体から町特有の臭いを感じないか気になった。

夏中、悪臭はだんだんひどくなった。蒸し暑さと暴風雨を繰り返しながら腐敗の速度も速くなった。ある週末だったか、連日雨が溢れていた日、蒸し風呂のような居間にお膳を広げて座って家族みなが夕食を食べていると、母が父に引っ越しするのは駄目だろうかと尋ねた。再開発話が全く聞こえてこないので、この家を貸し出して無理してでもローンを組んで別の町で借家を手にいれるのがましではないだろうかという話だった。

「子供には何といっても教育環境が重要じゃない。」

 お母さんが汗をぬぐいながら、私のほうをじろっと見た。私はどんな間違いも犯さなかったけれど、なぜかそうだというようにがっくりうなだれた。

「ふーん。」

 ろくに乾いていない運動靴の中敷きの臭いがする居間の真ん中でお父さんがうめくように深い息を吐きだした。このごろ、お母さんが私の教育環境を心配し始めたことには原因があった。私と同じぐらいの成績の子供たち付き合うように努めることにとても疲れたので、私はますますヘジとくっついていた。ヘジが家へ来る時もあったし、私がヘジの家へ行く時もあったけれど、ビールで髪を脱色してみようとしてお母さんにばれて𠮟られてから、私たちはヘジの家で遊ぶことが多かった。その家を思い浮かべると、今も鮮明に思い出すことは、私たちが玄関の戸を開けるまで家中に淀んでいた暗さと鼻を突くすえた悪臭だった。ヘジのお父さんが何の仕事をしていたのか今でもわからないけれども、するっと開いた戸の隙間からランニングシャツ姿の小父さんが横たわっているのをよく見かけた。ヘジのお母さんは週末だけ家にいた。初めは、私の母と違ってがらがら声で、一度も聞いたことのない下品な冗談をいつでも言うヘジのお母さんが実はちょっと怖かった。けれども大きい体に花模様のTシャツを楽しく着て、何よりもヘジと似た顔の彼女を私は好きだった。とにかくヘジの家は趣味の分からない家具と什器で足の踏み場がなかった。私の家よりはるかにせまいので、ヘジの部屋がないその家で私たちがいる場所は屋上だけだった。私たちははしごで屋上に上ってテントを張りその中でラジオを聞いた。パラムパラムパラム。始まりの合図がなり、DJの声が聞こえると私たちはテントの床に並んで寝そべった。都市ガスが入っていないヘジの家の屋上には巨大なLPGボンベが並んでいて、その横に建ててある長い棒には洗濯物の紐がかかっていた。ヘジは神経を使わないようだったけれど、羞恥を知らないで風にはためく下着を見ると、きまりが悪く視線をそらした。染料が全部抜けたようにくたびれたブラジャーとパンティー。冷たい床に横たわって好きな歌手の歌を聞く間、テントの上では洗濯物の影がちらついた。

一度、その狭苦しいテントの中でヘジが私の眉毛を整えてくれたことがあった。「目をつぶらなきゃ。」ヘジの言葉に私はおとなしく目をつぶった。ヘジは私の眉毛を水で濡らし石鹸を塗った。目をつぶったせいか石鹸の人工杏の香りが濃厚に感じられた。「始める。」ヘジが言って私は目をぎゅっとつぶった。その頃、ヘジには私ではなくても付き合いの長い友達たちがたくさんいたけれど、私にはヘジが外の世界のすべてだった。私の顔の上でサクサクと音を立てて、動かしていた剃刀。その瞬間、私はほんの一瞬でも眉毛の形が崩れたり、傷がついたらどうしようといった心配をしなかった。愛に飢えた幼い子供のように。盲目的に私はヘジを信じた。ヘジの手がとても用心深く私の額の上で曲線を描いて動くのを感じながら。「終わった。」ヘジが鏡を見せてくれた。その中にヘジの眉毛とそっくりな眉毛になった私がいた。その晩、私ははしごを使って屋上から降りてきて、猫がいる路地を通って、家に戻るや否や、その時まで開けなかった最後の引っ越し荷物の箱のテープをはぎ取った。故郷の友達たちが贈ってくれた陶器の人形と小さい花瓶、プラスチックの写真たてのようなものでどちらにしても役に立たないけれど、当時の私の目には美しく見えていたものを取り出して私の部屋に飾った。

(つづく)


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翻訳(韓国語→日本語) 静かな事件1

2021-06-26 20:37:14 | 翻訳

☆☆ 趣 味で勉強している韓国語サークルで取り上げた作品を翻訳しました。営利的な目的はありません。☆☆

2017第8回 若い作家賞 受賞作品集から「静かな事件」

著者  : ペク・スリン

著者略歴: 1982年 仁川生まれ。2011年 京郷新聞新春文藝に短編小説「嘘の演習」が当選し登壇。

      2015年 若い作家賞を受賞。

「静かな事件」1

 死んだ猫を始めて見たのは私が18歳から19歳にかけての冬だった。雪のニュースが目立ってなかったその年の冬。30センチの雪、あられ、粉雪、国語辞典で雪を指し示す互いに違う名前を発見するたびに、私は雪の来るのを待ち望みながら、ノートに書き写して退屈な冬を過ごしていた。私たち家族がソウルに定着して生活を始めてから3年近くたった時だった。たまたま雪が降れば、白く屋根を葺き替えた古い家並みと路地の入口に死んでいたその猫は、今ではこの世界のどこにも残っていない。しかし、それは明らかに存在した。行政区域上、正式名称は別にあったけれど、私たちが始めて上京し暮らした町をそこの住民たちは塩峠と呼んだ。塩商人たちが下の渡し場から塩を背負って越えてきたので塩峠と呼んだという話もあったけれど、険しい峠を越えると雨が降ったように汗があふれ袖に塩ができるほどだ、そんな話を町の子供たちは塩を背負ってきた話よりも信じた。町の子供たちが信じたと、私は書いているけれど、本当は町の子供たちが信じたか、そうじゃないか、私にはわからなかった。私にとってその町の友達とはヘジとムホがすべてだったけれど、彼らが私にそう言ったから、そう今まで信じているにすぎない。

 塩峠で暮らしていた時については、実はヘジとムホ以外のことは話すことができない。彼らは突然引っ越ししてきた私と違って、とても幼い時からこの町でずっと育ってきた。同じ路地をおむつ姿で走り回って、同じ小学校を卒業した。性別が違って中学校は別々に通ってはいたけれど、彼らの間には幼馴染だけが共有する親密感があって、その大部分は時間が作り出すように強固なので、私が入り込む余地がなく、それでよく私は彼らと一緒にいるときに寂しかった。だからと言って、彼らが私を疎外したとか、私と距離を置いたという意味では決してない。むしろその反対だった。彼らは新しい生活に適応できなかった私を積極的に迎えてくれた少数の人々に属していた。私は中学校の最後の1年をヘジと一緒に登下校しながら過ごした。ヘジのお母さんは初め私に関心は特になかったけれど、転校した学期の中間試験で全校3位になると友好的な態度に変わった。振り返ってみると、その町の大部分の人が私たち家族にそのように接していたようだ。初めはよそから来たことで私たちを警戒した人の態度は、知り合うにつれて徐々に友好的に、それでも少し距離をおいた礼儀正しさに変わっていった。

「それはあんたたちがちょっとお金がありそうにみえてね。」

 ヘジはあるときそのように言った。「お金がありそうにみえる」という言葉が何を指すのか正確にわからなかったけれども、おぼろげにはその意味を推し量ることができた。私の両親は毎朝町の路地をほうきで掃くただ2人の人物で几帳面にごみを集めて捨て、週末は故郷から持ってきた古い電蓄でポップソングを聞いた。その町で父はスーツで出勤する唯一の人で、その町のおばさんたちの中で高等学校を卒業した人は母しかいなかった。母は急な坂道を上ったり下ったりして市場に通うたびに、肌に染みができるかと思って、日傘をきちんとさした。母が持っている日傘は3本だったけれど、それは多くはないけれど少なくもない本数だった。母はその日の服装によって、気分によって、空の色彩によって日傘を選んで出かけた。その町にそんな女の人は母しかいなかった。だから、町の人たちが私たちを異質だと感じたのはどう見ても当然なことだった。そぶりは見せなかったけれど、私たち家族はやはり町とは釣り合わないということを誰よりもよく知っていた。

 つまり、塩峠は私がその時まで暮らしてきた所とは完全に違った。私たちが引っ越しした日、父が運転する車の後部座席におとなしく座ってうとうとして目が覚めた時、私たちの旧型エラントラはくねくねと続く狭い坂道を力いっぱい上って行った。車窓越しに平屋の古びた家並みが並んでいる光景が見えた。「お母ちゃん、ソウルなの?」私が想像していたソウルの姿と違ったとしてもあまりにちがったから、私は驚いて目を大きく開けて尋ねた。車はさらにしばらく上っていった果てに止まった。母が先頭に立って門を開け入って行って、私は路地の奥の青緑色の大門の家がこれから住むようになるのだということ受け入れなければならなかった。春の気配がめぐり始めた3月中旬で、ひときわ明るい日だった。日の光の中でペンキが剥げた塀や壁や、丸い尻をさらけだしてどこにでもしゃがむ子供たちの小便の跡が乾いて道の表面のそこら中に残る路地は、もの悲しいほど貧しかった。私は中に入ったものが傷つくかもと引っ越しトラックに載せる代わりにソウルまで直接持ってきた紙箱を抱きかかえながら、両親に従って用心しながら大門の奥へ入った。気分のせいか、家の中に入ると下水道の臭いがぷうんと押し寄せた。どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。まもなく私たちの後から小型トラックが家の前に到着して、従業員がうちの所帯道具を狭く古びた家の中に少しずつ持ち込んだけれど、私はこれから暮らしていかなければならない場所がこの家だという事実を受け入れることができなかった。家は前に暮らしていた所より信じられないほど小さい一戸建てで、部屋が二つに居間が一つで構成されていたが、今の壁をなしている4面の幅が均一ではなく、床は台形の形になっていた。そのうえ相当部分は寝室に入っていく空間がなく、居間にぽつんと置いた母の桐箪笥で遮られた。ソファは入る余地がなく、結局捨てることした。黄色く変色したトイレの洗面台、水垢が付いた床のタイルを見た瞬間、私は故郷に置いてきた私たちの家が懐かしくて涙が出そうだった。

「再開発のためだ。」

 その晩、大体の引っ越し荷物をおろし、まだ散らかっている寝室に入って、本当に納得できない顔つきで、なぜ私たちがこんな家で暮らさなければならないのかと尋ねる私を屋上に連れて行った父は、次のように説明した。

「あそこに何が見える?」

 父が指先で西の丘の上を指した。

「アパートです。」

 私は故郷に置いてきた私たちが暮らしていたアパートを思い浮かべながら無愛想な口調で答えた。

「そうだとも。あれは全部アパートだ。私たちが住んでいたアパートより何倍も高いアパートだ。この町にもあんなアパートが遠からず建つだろう。」

 だから父はその晩、その一帯がすべて塩峠と同じ貧困層地域の密集地区だったが、数年の間に不良住宅再開発事業が推進されてアパート団地が造成され、塩峠がその地域に残っているただ一つの貧困層地域だという話を私にした。ソウルのアパートは高すぎて、いずれにしてもお前が持っているお金は家賃かわりに一括で渡す保証金を払う貸家しか手に入れることができないのだ。そのような場合には再開発を待つのがいいだろう、という友達のチョ小父さんの言葉が一理あるように父の耳に入った。それで両親は不動産に明るいチョ小父さんのアドバイスに従って、ソウルへ引っ越すにあたって、崩れかけている町の崩れかけている家を1軒買ったのだ。

「長くて1年、それとも2年だろう。」

 父はそう語った。

「その時まで、不便だろうけど家族みんなで力を合わせて暮らしてみよう。」

 丘の向こうをぎっしり埋める高層アパートの整然とした窓ごとに明かりが透明に光った。いつか私も見たことのあるチョ小父さんはこんな家を買い入れて、最近ソウルに3軒アパートを持つお金持ちになった。父は大したことがないと1年、あるいは2年だというけれど、私は自信がなかった。しかし父はいつも正しかったから。私は心の中で考えた。父について屋上から降りる途中、階段に明かりをつけるために前の持ち主がつるした白熱電球の上に、カゲロウがぶつかってあっけなく落ちた。

「とにかくお前は今までのように勉強だけがんばれ。あとはお父ちゃんとお母ちゃんが全部わかっている。ソウルへ来たのも全部お前のためじゃないか。」

 父は部屋へ入ろうとする私の背中に向かって念を押すのを忘れなかった。部屋へ入って故郷で使っていた布団のなじんだ匂いを嗅ぎながら眠ろうとしたけれど、簡単に眠れなかった。父と母がその日遅くまで家中を整理しながら立てる小さい騒音を布団の中で聞いた。

(つづく)


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四季折々1005  紫陽花の相模原北公園

2021-06-21 21:37:09 | まち歩き

紫陽花は相模原市の市花なので相模原北公園に多様な紫陽花が植えられている。梅雨の今が旬。

アナベル。

ホンアジサイ。

潤水。

ダンスパーティー。

アバンダンス。

ドーナツガクアジサイ。

ミセスクミコ。

インマクラータ。

グリューンヘルツ。

うつり白。

大島自生(青ガク)。

ソフティ。

シロテマリ。

ザ・クリスマス。

「飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮になほ色のこる庭のあぢさゐ」(藤原家良 1192年~1264年)


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