『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想248  バッタを倒しにアフリカへ

2018-11-08 01:12:05 | 旅行記

読書感想248  バッタを倒しにアフリカへ

著者      前野ウルド浩太郎

生年      1980年

出身地     秋田県

現職      国立研究開発法人国際農林水産業研究センター

        研究員

出版年     2017年

出版社     (株)光文社

☆☆感想☆☆

 「小学生の頃に読んだ科学雑誌の記事で、外国で大発生したバッタを見学していた女性観光客がバッタの大群に巻き込まれ、緑色の服を喰われてしまったことを知った。バッタに恐怖を覚えると同時に、その女性を羨ましく思った。・・・虫を愛し、虫に愛される昆虫学者になりたかった。それ以来、緑色の服を来てバッタの群れに飛び込み、全身でバッタと愛を語り合うのが夢になった。」

博士号を取得したが、日本ではバッタの被害がなく、バッタの研究をする機関がほとんどない。それで、2年間の任期つきで日本学術振興会海外特別研究員として西アフリカのモーリタニアのサハラ砂漠へ行って、サバクトビバッタの大発生と集団飛翔の観察研究をすることになる。しかし、著者が子供の頃からの夢を叶えるのはモーリタニアに来てから3年以上経ってからである。日本学術振興会の任期は2年なので、研究滞在費を賄うために、インターネットの世界に飛び込んでいく。ブログから始め、雑誌プレジデントのオンライン記事、ニコニコ動画の討論会に出演、そしてついに京都大学の白眉センターの助教として研究費の支援を受けることになる。バッタの研究というテーマがぶれず、資金を集めるためにいろいろ手を尽くしている。そうこうするうちに支援してくれる人も集まってくる。モーリタニアの生活は淡々と描いているが、すさまじい。さばいたばかりの山羊の首が転がっているところで山羊料理をごちそうになったり、サソリにさされたり。しかし楽しそうに描かれている。子供の頃の夢を実現しようとする一念が羨ましいかぎりだし、フィールドワークの素晴らしさを感じさせてくれて、著者の成功を応援したい気持ちになる。 


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読書感想245  お伽の国―日本 海を渡ったトルストイの娘

2018-10-04 19:10:18 | 旅行記

カバー写真

読書感想245  お伽の国―日本 海を渡ったトルストイの娘

著者     アレクサンドラ・トルスタヤ

生没年    1884年~1979年

出版年    2007年

出版社    (株)群像社

翻訳者    ふみ子・デイヴィス

☆☆感想☆☆

 トルストイの晩年に秘書として仕えた末娘が本書の著者となるアレクサンドラである。アレクサンドラの回想録「父との日々、娘」を原書として日本に滞在していた2年間、1929年からアメリカへ出国する1931年までのことがここでは書かれている。1910年にトルストイが亡くなった後、アレクサンドラはトルストイ家の領地のヤースナヤ・ポリャーナにトルストイ思想に基づいて学校を設立し農民の子供たちを教育していた。1917年のロシア革命でもトルストイを敬愛するレーニンによって学校は存続が認められた。しかし、レーニン死後、ソビエト当局による学校への監視と統制が厳しくなり、ソビエトを脱出する決心をするに至る。ソビエト出国にあたっては日本人の友人による講演依頼に応えるという口実で、ソビエト当局から許可を得て日本へ来た。アメリカへの亡命が許可されるまで、日本に滞在したが、日本にはトルストイ信奉者が多く、暖かく迎えられた。多くの講演を行ったり、ロシア語教室を開いたり、岩波書店の依頼で本を書いたりした。多くの日本人と知り合った。そうしたことが本書の中に記述されている。アレクサンドラがトルストイの意思の継承者であるということがわかるエピソードがいくつかある。その中の一つ。岩波書店の社長の岩波茂雄が千円の援助を申し出たときに、父の意思どおり無償で出版ということで印税を放棄しているからと、申し出を断っている。岐阜のある市町村から講演に招かれたが、手違いで講演会が中止になった時のことだ。知らずに到着すると間に立った担当者の青年が、何も言わずに講演の段取りをするが、お金がなさそうで心配になってくるレベル。講演会に集まった聴衆は法被姿の少年や籠を背負った行商人、村のおじいさんやおばあさん、通訳もレベルの低い文学的な素養のない男で、著者もなにか変だと思いつつ、少し話して演壇を降りてしまう。それでも聴衆はぼんやりしているだけ。そして担当者の青年は100円を用意して講演料を払ってくれた。あとで実は手違いで講演は中止になったことを聞いた著者は、青年が没落士族の実家にあった骨董の絵を売って講演料を用意したことがわかり、講演料を返した。青年は100円の代わりに立派な水墨画の掛け軸を贈ってくれた。日本人との交流に癒されながらも、ソビエト当局の帰国命令に従わず決別し逃亡者になると、日本人の友人が離れて行った。著者が帰国がどんなに危険か、流刑か銃殺かもありうるといってもかれらは信じない。そしてソビエトより日本の女性のほうが自由だといって、ソビエト好きの進歩的な女性と大喧嘩をしたエピソードも紹介している。

著者はアメリカへ行ってから、ニューヨーク郊外にトルストイ基金を設立し、亡命ロシア人を救済し支援する活動を行ったという。逆境の中で輝くトルストイの愛娘の肉声が聞こえるようだ。 


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読書感想244  ゴンチャローフ日本渡航記

2018-09-19 20:58:28 | 旅行記

 ゴンチャローフ日本渡航記

読書感想244  ゴンチャローフ日本渡航記

著者      イワン・アレクサンドロヴィッチ・

        ゴンチャローフ

出身国     ロシア

生没年     1812年~1891年

出版年     1858年 「フリゲート艦パルラダ号」

邦訳出版年   1969年 上記の日本関連部分のみ

            「ゴンチャローフ日本渡航記」

再出版年    2008年 上記のうち「小笠原諸島」「日本

におけるロシア人」「日本におけ

るロシア人」「琉球諸島」の4章

で構成

翻訳者    高野明  島田陽

☆☆感想☆☆

 本書は、幕末に長崎に来航したプチャーチン提督の秘書官として同行した作家のゴンチャローフが長崎や小笠原諸島、琉球諸島の風俗や、幕府の役人とのやりとりを生き生きと描いた本である。

 プチャーチンはアメリカ合衆国のペリー提督が日本を開国させるべく出発するという情報を得たロシアのニコライ一世の命で4隻の軍艦で日本へ向かい、1853年8月にペリーに遅れること1か月半で長崎に到着した。平和的な交渉をせよというロシア政府の方針に従って、長崎奉行、そして江戸から来た幕府全権との交渉を行い、他国と同一条件で条約を締結するという約束を得て、1854年2月に長崎から退去した。クリミア戦争が始まっていたため、ロシアの沿海州で3隻の軍艦はイギリス艦隊に備え、旗艦パルラダ号は老朽化のため破棄し、本国から回航したディアナ号にプチャーチン提督は乗って再び日本へ向かった。著者のゴンチャローフはこの沿海州でプチャーチン一行と別れた。それで本書の内容も長崎から退去して琉球諸島を巡る所までになっている。

 小笠原諸島や琉球諸島の自然や人々との交流も貴重な歴史的な証言になっているが、やはり鎖国の長崎に乗り込んできてからの幕府の役人たちとのやりとりが面白い。ロシア側は長崎奉行との面会を求めるが、幕府の役人はまず長崎奉行、老中、将軍、帝にお伺いをたてなければ何もできないと言ってロシア側を何か月も長崎湾の一角に閉じ込めて諦めさせようとする。それでいながら連日たくさんの役人がいろいろな人を連れて軍艦に乗り込んできて、見物して質問ぜめにし、果実酒やキャンディー、ビスケットのご馳走に預かる。食料の購入を申し入れると、通商が禁止されているので、出島のオランダ人から購入する形をとらせられる。また、奉行や全権と面談する運びになったときも、軍艦から運んだ椅子をそのつど持ち帰ってくれと言われる。破損したり、盗まれたりすると責任問題になるからと言う。贈り物もそうだ。外国人からもらったことがわかると罰せられるので、引き取ってくれと言って来る。手続きと封建的な身分制度の儀礼を重要視しながらも、日本人の好奇心が随所に顔をのぞかせる。長崎奉行との面談に際してロシア側の護衛兵の人数を厳しく制限しながら、軍楽隊には全く制限を設けようとしない。著者は日本人が音楽を聞きたいからだと推測している。また、交渉相手の日本人の印象についても親しい知人のように描いている。特にオランダ語通詞たちとは親しくなり、それぞれの通詞の性格や気の毒な境遇についても観察している。有名な通詞の森山栄之助について、英語は少ししか話さないが聴く方はほとんどわかり、フランス語も習っていて、オランダ語が達者だといい、頭の良さが際立っていると印象を語っている。栄之助にロシアに行きたくないかと聞くと、世界一周したいと吐露する。しかし全権が到着し正式の晩餐会のときには通詞は床に平伏したまま、全権が与える食事のかけらを床の上で食べている。また、幕府から待たされ退屈したロシア側がボートで長崎湾や外海に出ると、監視役の小舟が追い付けず、尾行ができないからボートで漕ぎ出さないでくれとかいってくる。交渉がはじまり、幕府の全権にたいしては好印象をもつ。筒井政憲は温厚で行き届いた人物として、また交渉を取り仕切った川路聖謨の怜悧さにも感心している。

いままで歴史小説を読んで幕末の日露交渉史を知っていたが、実際の目撃証言の迫力、面白さにはかなわない。本当に楽しい読書体験になった。


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読書感想143  日本その日その日

2014-09-16 02:35:05 | 旅行記

 


読書感想143  日本その日その日

 

著者      エドワード・S・モース

 

生没年     1838年生まれ。1925年没。

 

出身地     アメリカ、メイン州

 

原著出版    1917

 

邦訳出版    1929

 

抄訳版出版   1939年 創元社

 

 2013年 講談社学術文庫

 

訳者      石川欣一

 

 

 

感想

 

 大森貝塚を発見したことで有名なモースの日本滞在記。モースは1877年(明治10年)に日本近海の腕足類の標本採集に来日した。その折に請われて東京大学の初代動物学・生理学教授に就任した。翌年1878年に家族も連れて再度来日し、2年間東大で教えた。ダーウィンの進化論を紹介したり、大森貝塚の発掘や出土品の調査をしたり、学会発足にも関わったりした。また1882年(明治15年〉に三度目の来日を果たした。本書は三度の日本滞在中の印象を綴っている。幕末から明治初年にかけて欧米人の手による日本訪問記は数多くあるが、モースは観光だけではなく、日本で仕事をし、生活をしている。接触する日本人との付き合いも深い。キプリングやイザベラ・バード、シュリーマンの日本訪問記にあるように、日本が美しく安全で、日本人が親切で礼儀正しいという印象は同じであるが、更に日本の生活に深く入っている。

 

 働く人々についての印象を綴っている。

 

 日本に着いてから数週間になる。その間に私は少数の例外を除いて、労働階級―農夫や人足達―と接触したのであるが、彼等は如何に真面目で、芸術的の趣味を持ち、そして清潔であったろう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づきたいと思っている。この国では「上流」と「下流」とが、はっきりした定義を持っているのである。下流に属する労働者たちの正直、節倹、丁寧、清潔、その他我が国に於いて「基督教徒的」とも呼ばれるべき道徳のすべてに関しては、一冊の本を書くことも出来るくらいである。

 

 

 

更に江ノ島で腕足類の採集をしている時のエピソードである。

 

 

 

 その後陸棲の貝を採集に郊外に出かけた時、人力車夫たちが私のために採集の手伝いをすることを申し出た。そこで彼等に私がさがしている小さな陸棲貝を示すと、彼等は私と同じくらい沢山採集した。私は我が国の馬車屋がこのような場合手伝いをしようと自発的に申し出る場面を想像しようとして見た。

 

 

 

 無類の正直さについても触れている。

 

 

 

 未だかつて日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢えてしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客がはいるであろうし、また家中の召使でも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十弗と金時計とを入れたものを残して去った。我々は、一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると時計はいうに及ばず、小銭の一仙にいたるまで、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上に載っていた。

 

 

 

 今では信じられないぐらい無邪気で節度のある国だ。江戸時代から続く共同体的な制裁も厳しいからこそ、いい加減なことをしなかったのだろう。日本人の民度の高さとおもてなしの心には伝統があるとわかったし、訪日記を著述して世界に日本の文化の真髄を理解し広めてくれた人々に感謝の念が湧く一冊だ。

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読書感想117  キプリングの日本発見

2014-03-13 01:19:37 | 旅行記

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読書感想117  キプリングの日本発見

 

著者      ラドヤード・キプリング

 

生没年     1865年誕生  1936年死亡

 

国籍      イギリス

 

生誕地     インド、ボンベイ

 

受賞歴     1907年 ノーベル文学賞

 

代表作     ジャングル・ブック

 

 

 

感想

 

 本書は1889年(明治22年)と1892年(明治25年)の2回の日本旅行記である。キプリングの23歳と26歳の時である。初回は4週間、2回目は2か月滞在している。初回は長崎から瀬戸内海、神戸、大阪、京都、大津、名古屋、東海道、横浜、箱根、日光、東京を巡っている。2回目は鎌倉の大仏や海外で暮らす西洋人の様子、横浜で体験した地震の話、詩が書かれているが、横浜に到着してすぐ、キプリングの預金を預けていた銀行が倒産し、旅行を続ける資金がなく、アメリカへ帰国せざるをえなかった。それで滞在期間は1回目よりも長いが横浜近辺から動いていない。

 

 キプリングの語り口はユーモアにあふれ、日本に対する好意が溢れている。景色も見事だし、料理もおいしく、工芸品も素晴しく、人々も温かくと、特に子供好きなのか、日本人の子供のことに紙数を費やしている。日本の人口の半分は子供で、子供王国だ。子供たちの無邪気でかわいらしい様子に感動している。幼いお兄さんやお姉さんが赤ちゃんを負ぶって遊んだり、どこでも遊び始めたり、飴をあげると喜んでついてきたり、外国人を見てお湯の中に潜って隠れる幼い子がいたり。

 

次は英国からきた旅行者が子供と遊んで喜んでいるシーンだ。

 

見るからに彼は興奮し、その顔は上気していた。「いや、面白かった!」と、まるで呼吸も乱れんばかり。見ると彼の後ろには百人ばかりの子供たちがひしめいていた。

 

「たったの1銭で賭けのできるルーレットがあったんだ。そこで僕はおやじからその商売道具一式を3ドルで買い取ったのだよ。そして子供たち相手にモンテ・カルロばりの遊び場を開帳してやったのだ。すると5千人もやってきたよ。こんなに楽しい思いをしたのは生れて初めてだね。シムラの賭博場なんてめじゃないよ。どの子もどの子もみんな、完璧に行儀がよくて、きちんとルールどおりに遊んでいたんだが、景品が全部なくなってしまって、最後に大きな砂糖菓子の亀だけになってしまったら、みんなが僕めがけて殺到してきて、ほら、このとおり。そこで僕は逃げ出してきたというわけさ!」

 

日本の人々が貧しくなく豊かに暮らしているという印象を綴っている。イサベラ・バードの「日本奥地紀行」は1878年(明治11年)の東北地方と北海道の旅行だった。そこでは貧しい農民の暮らしと不味い食べ物と蚤がたくさんとびはねている宿屋に苦労する旅行が描かれている。10年後のキプリングの旅行の印象とはずいぶん違う。地域差なのか、時代の差なのか、作家の資質の差なのか、いずれにしても外国人の見た明治の日本は面白い。

 

一気に読ませる魅力(5点)☆☆☆☆

 

ユーモア(5点)     ☆☆☆☆

 

情景描写(5点)     ☆☆☆☆

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