『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々771  鑓水小山緑地の梅1

2017-02-22 21:11:26 | まち歩き

東京都八王子市と町田市の市境に広がる鑓水小山緑地。多摩美術大学に隣接した場所に梅林がある。まだ若木なので将来楽しみな梅林。

紅梅は少し傷んでいる。

紅千鳥という品種。

茶青花という八重の白梅。

「匂ひくる梅に吾より寄って行く」(梅本景太郎) 

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四季折々770  宇津貫緑地の梅

2017-02-18 20:00:23 | まち歩き

JR横浜線の八王子みなみ野駅から徒歩20分。線路を見下ろす位置に宇津貫緑地はある。緑地として公開したのも梅の木を植えたのも最近。それで梅林になるのはまだまだ先になりそうだが紅梅だけ咲いている。

将来の紅梅林。

紅梅の並木。雪で花が傷んでいる。

1年に数十センチは伸びているようだ。

調整池。

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読書感想209  法隆寺の中の九州王朝

2017-02-12 21:01:25 | 時事・歴史書

 Sui Yangdi Tang.jpg

読書感想209  法隆寺の中の九州王朝

著者      古田武彦

生没年     1926年~2015年

出身地     福島県喜多方市

初出版年    1985年

出版社     朝日新聞社 

☆☆感想☆☆☆

古代史の相貌を描いた「古代は輝いていた」三部作の最後に当たるのが本書である。本書では6世紀前半の筑紫君磐井から7世紀半過ぎの白村江の戦いまでを扱っている。古田史学が拠って立つのは古代日本列島の支配をめぐる多元史観である。記紀が描くような近畿天皇家を中心とした一元史観ではない。それを論証する根拠として同時代資料の中国の史書、三国志、後漢書を読み解くことで九州王朝の実在性の証明をこころみている。本書では様々な歴史的な問題に新しいスポットライトを当てているが、同時代資料としての隋書・旧唐書と日本書紀の齟齬から浮かび上がる事実と、さらにもう一つは法隆寺の釈迦三尊についての事実を取り上げて紹介してみたい。

1.通説では推古天皇の時代に隋へ小野妹子を派遣したことになっている。隋書俀国伝によれば、600年に初代文帝のもとに俀国からの使者が到着した。「俀王あり。姓は阿毎、字は多利思北孤」。隋書の中で、俀国は魏に朝貢した卑弥呼の3世紀の邪馬壹国(5世紀の邪馬臺国)であり、斉・梁といった南朝に朝貢した「倭の五王」の倭国であり、さらに遡れば後漢の光武帝のときに入朝した国と同一国であるという認識を示している。地理を特定できるのは阿蘇山という火山があるという記述である。さらに多利思北孤には妻と太子がいると述べているので男性である。隋書俀国伝の中で多利思北孤が登場するのは600年と608年。推古天皇は592年から628年まで在位し、著者は推古天皇の干支が一回りずれていると考えているが、両者の期間はほぼ重なっている。隋の使者、従八品である文林郎の裴世清が608年に俀国に来て多利思北孤と会って話をしている。その報告の中に多利思北孤が女性であるという記述はない。裴世清が俀国に来る前年に多利思北孤は隋に国書を送り、その中で「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云々」という対等の天子と天子の立場、国と国の立場を主張した。これは通説では聖徳太子が述べたことになっている。煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以て聞する勿れ」と語り、天子自称を認めず、国書不携帯で裴世清を派遣した。九州の地名しか隋書俀国伝には出てこないので、裴世清は九州のみに滞在していたと考えられる。この同じ裴世清が推古天皇にも拝謁している。日本書紀の推古紀には俀国伝にある600年の初めての遣隋使のことは一切出てこない。推古紀では607年に小野妹子を唐に派遣し、608年に小野妹子が帰国するときに唐の正九品上に当たる鴻臚寺の掌客である裴世清を伴ってきたとある。その際、裴世清は国書を携えてきている。その中身は君主が臣下に与える文言で満ちている。例えば「皇帝、倭皇に問ふ」とか「朝貢を脩むるを知る」とか、臣下が君主に対して向ける「まごころ、丹誠」を意味する「丹款」を「丹款の美、朕嘉する有り」など。多利思北孤の俀国と推古朝では全く別の王朝の姿を見せている。著者は607年と608年が俀国の対隋外交と推古朝の対唐外交が重なっていることから、推古朝で干支の混同があり、実際は十余年下るのではないかと推測している。隋が倒れ唐が成立するのは618年である。日本書紀推古紀には推古天皇は唐と国交を結んだが、隋と結んだとは記されていない。今日、なぜ隋と国交を結んだことになっているのか。万世一系の天皇制という一元史観に立っているからだと著者は考えている。

話は戻るが、多利思北孤は裴世清が来てからしばらくして隋との国交を絶っている。著者はその理由は煬帝が流求に侵攻して何千人も捕虜にしたことにあると見ている。608年に裴世清の帰国に従って隋に赴いた俀国の使者がその様子を目撃したことが隋書俀国伝に記されている。隋・唐に対する警戒心が解けることなく白村江の戦いまで俀国は突き進んだと推測している。

2.法隆寺の釈迦三尊は聖徳太子が作ったものではない。法隆寺は670年天智9年に全焼している。仏像も焼けたと考えられる。今ある釈迦三尊はどこから来たのか。光背銘に記されている人物と聖徳太子の没年月日が違い、年号が九州王朝の年号が使用されている。聖徳太子は天皇になったことがないのに、祭られている人物は天子である。著者はこの人物は「海東の菩薩天子」と自負した多利思北孤ではないかと推定している。

いろいろおもしろいが、卑弥呼の時代まで遡らなくても、この推古朝からでも日本の古代史は書き換えられるべきだろう。

古田武彦氏の古代史関係の著書は文庫本ではだいたい読んだことになる。本当に文献を丁寧に読むだけでこれだけ新しい発見があるのかと感嘆するばかりだ。

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