『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳 宇宙の橋を渡って 7

2011-10-22 01:09:53 | 翻訳

大学2年の時、僕は146錠の神経安定剤を飲んで自殺を試みた。どんなに思い出してみても、はっきりした理由のようなものはなかった。その日は日曜日で目覚めて窓を開けて眺めると、朝からしとしとと雨が降っていた。寂しい気持ちで降る雨を眺めて、もっと寝なければと思ってもう一度寝床に横たわった。でも頭が徐々にさえて、雨音まで聞こえて神経が徐々に苛立ってきた。その時ふと南大門市場を疲れるまで歩き回った頃に、買っておいた146錠の神経安定剤が浮かんだ。―なぜそんなにたくさんの神経安定剤を買い集めたのか、自分でも目的はわからない。はっきり言うと、確たる目的意識もなくそんなことをしたと言わざるをえないのだ。― 僕は自然に起き上がり薬袋を洋服ダンスの上から取り、何錠かの神経安定剤を飲んだ。でも眠れるどころか頭が一層さえた。それでさらに何錠かを飲んで、さらに何十錠かを飲んで、間もなく残った錠剤をすっかり口の中にぶちまけてやかんを口にくわえた。しばらくして後頭部でパッと白熱電球が消えるような感じがして、それと同時にすべて闇の中に沈んだ。それが終わりだった。目が覚めた時僕は病院に横たわっていた。すでに薬を飲んだ日から15日が過ぎていた。その日医者は僕にこう言った。

「君の問題が何かはわからないが、死んで問題が解決するのかい?神経安定剤はどんなに多く服用しても死なないから、次回は確実な薬を飲むようにしなさい。」

 憂鬱な時代だった。朴政権末期のビクビクした落ち着かない雰囲気の中で自虐的に生きる青年が多く、それが時代の公分母のように空気中に重く垂れこめていた。僕はその時若いということがあまりに苦しく難しく、毎日毎日「速く年をとりたい」という言葉を繰り返した。空の果てが見え、地の果てが見え、世界の果てが見え・・・・気のふれた奴のようにぶつぶつ詩をつくりながら、浮遊する水草のようにあちこちさまよった。座っても立っても寝ても覚めても詩を考えていたけれど、その時はなぜか詩が僕を慰めるという感じがしなかった。測れない距離感、そして不安とイライラによって眠れない時間が手に余るように感じた。だから白髪の老人たちを暗い気持ちで眺めながら、人生が走馬灯のように速く過ぎることを祈り続けた。

 80年5月、僕は教育実習生になっていた。58年戌年生まれの運命はいつも選択を迫られる分岐点に立たされることなのだ。デモ隊に出ることもできず、十分な体制実習もすることができなかった。毎日実習を終えてデモ現場に駆けつけて行ったけれども、我慢できない気分に悩まされるだけで体も心もすっきりできなかった。5.175.18、そしてすべてが奈落に落ちた。学校には休校令が出され、急いできた秋と冬をあとにして、僕たちはもみくちゃな思い出の詰まった卒業証書をもって、あわただしく大学を離れた。なぜそんな逃亡者のような気持ちだったのか、今振り返っても悔しさは消えない。