『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想285  反日種族主義(4)

2020-08-19 18:48:59 | 時事・歴史書

読書感想285  反日種族主義(4)

韓国語版には日本語翻訳版にない3つの章が存在する。

「9.学徒志願兵、記憶と忘却の政治史」

「16.亡国の暗主が開明君主へ変身する」

「17.乙巳五賊のための弁明」

今まで二つは紹介したので残りの一つを紹介したい。

 

「17.乙巳五賊のための弁明」

日露戦争に勝利した日本は大韓帝国を保護国にすべく伊藤博文を派遣し、乙巳条約を締結した。これによって日本が外交権を掌握した。こうして亡国への道を歩み始めた責任は誰にあるのか。高宗なのか、乙巳五賊と言われる大臣たち、とりわけ李完用にあるのか。著者の金容三氏はすべての責任は高宗にあると断言する。

  • 日本側、伊藤博文の動き

1905年、朝鮮半島からロシアが出ていき、イギリスと第2次日英同盟を締結し、アメリカとはタフト・桂協約を結んで日本が大韓帝国を保護国にする環境が整った。

1905年11月9日にソウルに到着した特使伊藤博文は翌10日に高宗に謁見し、また15日にも謁見し、外交権の移譲を要求する。

高宗の形式的な外交権の保有要求を突っぱね、拒否したら困るぞと脅迫する。

11月16日に伊藤特使は8名の大臣を集め、条約の変更はできないが、字句や表現などは協議してもいいと宥和策を提示。

11月17日に林権助公使と8名の大臣の話し合いの場が持たれたが、大臣たちは何も言わないので、林公使は大臣たちと高宗に会いに行く。林公使を除いて8名の大臣が高宗との御前会議に臨む。

11月17日に8名の大臣が反対の立場を表明したことを受け、伊藤特使が8名の大臣を集めて会議を開く。伊藤特使自ら筆をとって大臣たちと文案修正して正式文書を作成する。

  • 高宗の動き

伊藤特使の外交権譲渡要求に対して、譲渡するが外交権の形式だけのこしてほしいと要請する。伊藤の拒否にあって、議政府に委ねると責任を8名の内閣の大臣に押し付けた。8名の大臣との御前会議で高宗は条約を拒絶すれば関係が悪化するが、字句や表現での協議は可能なようだと述べる。

伊藤特使と8名の大臣の会議の報を受けて、高宗は条約文を日本公使と協議せよと命を下す。実質、条約締結を承認。

伊藤特使と大臣たちが協議した正式文書を承認する。

11月18日午前1時に条約締結される。

  • 大臣たちの動き

8名の大臣は伊藤特使、林公使との会合のあと、高宗との御前会議に臨む。

御前会議で8名全員が高宗に反対する。

伊藤特使との会議の結果、2名が反対、6名は賛成あるいは黙認ということになる。

条約文の検討で、日本政府が外国に対する関係、事務などを思い通りにするという表現の削除をイハヨン法務大臣が要求し、伊藤特使が受け入れる。李完用学務大臣が総監の権限を外交問題に局限させ内政には干渉しないという内容の明文化を要求したが、伊藤特使は拒否する。コンジュヒョン農桑貢賦大臣が「皇室の安寧と尊厳維持を保障する」という条項の挿入を提起すると、伊藤特使は受け入れ、第5条を新設する。

  • 乙巳条約締結後の朝鮮の人々の対応

11月18日朝、日本に外交権を譲る保護条約が締結されたというニュースが伝わると、ソウルは悲憤と嘆息で沸き立って、商店は抗議のため店を閉ざした。パクジェスン、李完用、イジヨン、クォンジュヒョン、イユンテックを「乙巳五賊」と名指しで「この逆賊を処断せよ」という上疏が溢れた。一番の標的は外務大臣のパクジェスンだった。李完用は数日前に入閣したばかりだった。英国人ベテルが創刊した「大韓毎日新報」をはじめ言論界は事実を確認せずに提供された上疏内容をそのまま流した。「皇帝は最後まで反対したが、乙巳五賊が日本に屈服して保護条約を締結した」と報道した。その結果、「高宗が乙巳条約に反対した」という虚構の神話が作られ、今日まで伝えられて歴史的事実として固まってしまった。

  • 著者の考え

条約が締結された直後ではなく、114年たった今日でも韓国人が亡国の責任を「乙巳五賊」に問うと言うなら、それは深刻な精神文化の遅滞を意味する。朝鮮王朝の滅亡は朝鮮の国家体制が失敗したことであり、それに対する自覚的な認識が今も欠如しており、大韓民国の建国を含む過去20世紀の歴史をきちんと理解していないということである。将来的な禍根の種だ。

 

 皇帝とか王様とかは専制君主なので何をしても、どんな失政をしても許されるのが、朝鮮王朝なのだろう。日本は朝鮮が原因の一つで日清、日露戦争をしている。自分の気に入ったデマに執着して事実を検証しようという気持ちのない人々を見るにつけて戦争をしてまで守ろうとしたものに価値がなかったのでは、ロシアとの防衛線を朝鮮海峡においてもよかったのではないかと今さら仕方のないことを考えてしまう。強制は善意であってもいい結果は生まないというのが日本と朝鮮半島の歴史から学べることだろう。


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読書感想284  反日種族主義(3)

2020-08-07 02:15:58 | 時事・歴史書

読書感想284  反日種族主義(3)

 韓国語版には日本語翻訳版にない3つの章がある。そのうちのひとつの簡単な紹介をしたい。

「16.亡国の暗主が開明君主へ変身する」

著者の金容三氏は、高宗のことを「亡国の暗主」であり、最近になって一部の学者が高宗を開明君主に仕立て上げ、改革を熱心に推し進めたのに日本の妨害で挫折したといった論を公開していることを「手のひらで天を遮る」行為だと批判している。「反日」であればなんでも尊重する世の中は笑い話だとも語っている。

では金容三氏の挙げる亡国の暗主の根拠を見てみよう。

1. 朝鮮が1910年に日本に併合され、朝鮮という国がなくなった主要原因の一つは高宗とその王妃である閔妃の外交政策の失敗にある。

2. 高宗と閔妃は世界史的に覇権勢力ではなく、常にその覇権に挑戦する勢力と同盟を結ぼうとした。

3. 1880年代にロシアの南進が始まると、高宗と閔妃は初めは宗主国の清を牽制するために、日清戦争後には日本を牽制するために引俄拒日政策、つまり親ロシア政策を推進した。

4. 閔妃弑殺は三浦梧郎駐朝鮮公使が日本軍、領事館、警察、浪人を動員して行った事件だ。これは日本とロシアの国益のかかった勝負だった。ロシアと日本が全面戦争を始められない段階で、日本がロシアと朝鮮王朝の連結の環である閔妃を除去する措置だった。

5. 閔妃弑殺にたいして、ロシアは1896年2月高宗をロシア公使館へ脱出させることで応じた。俄館播遷だ。ロシア公使館から高宗は親日派官吏の処刑を命じた。親衛部隊が総理大臣金弘集を殺害。ほかの大臣たちは群衆によって殺害された。

6. 俄館播遷中に高宗はロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に使者を送り、保護領にするように要請した。

7. 朝鮮末期には、朝鮮の軍隊は次々に外国の軍人によって訓練を受けた。最初は日本で日本式の軍事訓練を受け、次は清によって、そして米国によって、また日本によってだったが、閔妃弑殺後はロシア人の教官によってロシア式の訓練を始めた。

8. こうした高宗の親ロシア政策にもかかわらず、ロシアは三国干渉で日本から大連と旅順を得たことで朝鮮進出政策をやめて満州に集中する政策に切り替えた。そして、1900年には日本に朝鮮半島の分割を提案している。日本は受け入れず。

9. 閔妃と高宗の関係はどのようなものだったのだろうか。三浦梧郎公使は回顧録の中で高宗は閔妃の手のひらに乗せられている孫悟空だと酷評している。「閔妃は女性としては珍しく才能を備えた豪傑のような人物」で、「事実上の朝鮮国王は閔妃」だとしている。国王と謁見する場合に国王の椅子の後ろにすだれがあってそこに閔妃がいて、高宗に指示しているひそひそ声が聞こえる。すだれから顔を半分ぐらい突き出して助言したりもする。

10.「忘れられた10年」。日清戦争後の1895年から1904年に日露戦争が始まるまでの10年間は朝鮮が国家改革を通じて近代国家に生まれ変わることのできる最後の機会だったが、それを高宗をはじめとした指導部は無為に過ごしてしまった。改革の代わりに外勢、清、日本、米国、ロシアを引っ張り込んで国家独立を守ろうとあがいた。

11.危機において高宗は何をしたか。外国の領事館に自分の保護を要請した。1882年クーデター後には日本公使に日館播遷を要請し、1894年日清戦争では米国公使館への美館播遷を、閔妃弑殺後は俄館播遷に成功し、日露戦争では英国に英館播遷を要請した。「この人、国王にふさわしいのかどうか」という懐疑が襲ってくる。

12.高宗は統治能力が欠如した人物と欧米の外交官は判断していた。1週間に1回政府閣僚の首がすげかえられ、内閣の危機が途切れないと。

 

一番上が保身に走るだけならば、その下も同じように保身に走ることになるだろう。欧米とか日本へ行った留学生を活用しようという意欲も能力もないのか。そもそも留学生がいたのか。客観的に情緒を排して言えば、中世と近代が衝突し、中世が滅びたということか。

 


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