『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々782  高尾梅郷3

2017-03-30 00:13:48 | まち歩き

天神梅林を下ったところ。

上は圏央道。

梅まつりの売店が出ている平地。

木下沢梅林。

梅林の麓に駐車場があり、山全体が梅林になっている。小山の頂上にお祭りの売店がある。横を中央道が小仏トンネルへ向かって走っている。

木下沢梅林から20分ぐらい山道を行くと景信山への登山道に出る。この辺りは梅はない。

「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」(芭蕉)

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読書感想211  それを愛とは呼ばず

2017-03-26 14:20:24 | 小説(日本)

読書感想211  それを愛とは呼ばず

著者      桜木紫乃

生年      1965年

出身地     北海道

出版年     2015年

出版社     (株)幻冬舎

 

☆☆感想☆☆

二人の人物が交互に独白し舞台を移動しながら物語が進んでいく。

一人目は伊澤亮介。伊澤亮介の新潟の生活からスタート。伊澤亮介は新潟で10歳年上の妻と暮らしていたが、ある日突然その妻が交通事故で意識不明の植物状態になってしまう。妻の会社の副社長を務めていた亮介は妻の前夫との間の息子、慎吾との確執から会社を去ることになり、職を求めて東京へ行く。

二人目の人物は東京に住む白川沙希。高校時代に美少女コンテストで準優勝した彼女は北海道から東京に出てきて芸能活動を始めたが、鳴かず飛ばずで10年がたった。そして所属芸能事務所から契約解除を言い渡された日に、アルバイト先の銀座のキャバレーで、支配人に会いにきていた伊澤亮介と出会う。

舞台は北海道の千歳の南側の南神居町に移る。伊澤亮介はそこのリゾートマンションの販売責任者になって赴任する。20年前のバブル期に建てられたそのリゾートマンションは住む人もいなく、荒れ放題になっている。そして東京の生活に区切りをつけた白川沙希も伊澤亮介を訪ねてやってくる。そこにリゾートマンションの7階の所有者が20年ぶりに現れる。

登場人物も多彩。伊澤亮介の周囲には財産を巡る物欲の人間模様が展開される。妻の章子の遠縁の弁護士、片倉肇や義理の息子の伊澤慎吾。白川沙希の周囲には心優しいが、不幸な境遇にある人達。キャバレーの衣装係の吉田典子。優しく白川沙希の相談に乗ってくれるが、認知症の母親を抱えて無理心中。元俳優の独居老人の佐野悦郎。人形を愛人にする小木田。そして沙希を必要としない離婚した両親。それぞれ新しい家庭を作ろうとしている。

沙希の中にある愛が不幸な人々に向かった時に何が起こったのか。この小説の後半はそれに費やされている。「それは愛とは呼ばず」というタイトルどおりの展開だ。 

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読書感想210  ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代

2017-03-20 20:56:25 | 日記・エッセイ・コラム

読書感想210  ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代

著者      ビアンカ・ランブラン

生年      1921年

出身      ポーランドでユダヤ人医師の長女として誕生。2歳でフランス

へ移住。

出版年     1993年フランスで出版

        1995年日本で出版 

出版社     (株)草思社

 

☆☆感想☆☆☆

 本書はボーヴォワールとサルトルのそれぞれと愛人関係にあった女性の回顧録である。ビアンカはパリの女子高等中学校に在学中に哲学教師として赴任してきたボーヴォワールと親しくなり、彼女の愛人となる。さらにボーヴォワールの影響の下、ソルボンヌ大学で哲学を専攻し、同じく在学していたサルトルの愛弟子たちと親しくなる。そしてボーヴォワールの紹介でサルトル本人とも知り合い、サルトルに熱心に口説かれてその愛人になる。在学中に第二次世界大戦が始まり、サルトルは軍隊に召集され手紙のやりとりが続き、突然別れを告げられる。そしてボーヴォワールともやはり男性のほうがいいと言われて愛人関係を解消される。その後サルトルとの関係を打ち明けたうえでサルトルの愛弟子の一人と結婚する。彼女はボーヴォワールとサルトルとの三角関係が対等なものと思っていて、一方的にサルトルから別れを告げられたことに衝撃を受ける。彼女は戦後ボーヴォワールとは友情を維持していたが、サルトルの死後に公表された「女たちへの手紙」やボーヴォワールの戦中日記によって、ボーヴォワールが著者に対する嫉妬や激しい性格を疎ましく思いサルトルに告げて別れさせたことを知る。ボーヴォワールに裏切られたという感情がこの著書を書く動機になっている。著者がユダヤ人であり、第二次世界大戦でどれほど苦しい思いをしているかについて、ボーヴォワールもサルトルも理解を欠いているし、厄介な人として放り出した感じだ。自分たちを楽しませる存在であるときは付き合うけれど、生死の瀬戸際にいて精神的にも不安定な状態に置かれている彼女を突き放したのだろう。結果的にそう見える。著者はドイツ占領下でユダヤ人であることを知ったうえで結婚してくれたベルナール・ランブランとその家族にとても感謝している。ユダヤ人にとって安全な場所を転々として戦争の末期にはフランスの西南部ヴェルコール山岳地帯に移る。そこでレジスタンスの戦いに参加する。戦後、著者はボーヴォワールとサルトルが自分をモデルにした小説や自叙伝を描くときに、ユダヤ人の少女であることを隠しているということに怒っている。戦前の彼らが政治に無頓着で反ユダヤ主義に無関心だったからだ。

読んでいて驚いたのは、哲学という教科が高校にもあるということと、人気の高さだ。日本の高校で哲学が専門に教えられることはないし、倫理社会の中でさわりだけ教えられた記憶がある。あまり魅力のない教科だったので、担当の教師と親しくなるということは考えられなかった。日本の文化的伝統とフランスのそれが異質だという感じがする。ボーヴォワールもサルトルも新しい考え方や生き方を見せてくれる存在として若者に人気だったのかもしれない。それから日本では三角関係で普通は悩むのが、著者は悩んでいなかったことだ。性的な放縦さもフランスでは当たり前なのか、驚くばかりだ。著者と、ボーヴォワールとサルトルの立場は、著者が命がけで現状を変えようとしたし、せざるを得ない立場だったのに対して、後者は嵐が止むのを待っている立場の違いから、著者はサルトルの「社会参加」についても軽くて真実味がないと判断するにいたったのだろう。 

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