『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

四季折々662  お盆すぎの北海道資料館めぐり10

2015-09-29 09:25:37 | まち歩き

北海道開拓の村の続き。馬車鉄道。

旧浦河公会会堂。

白樺。

イタヤカエデ。

 

馬車鉄道。

馬車鉄道で活躍中の道産子の休憩。

ラベンダー。 

「馬の子の故郷はなるる秋の雨」(一茶1763年~1827年)

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四季折々661  お盆すぎの北海道資料館めぐり9

2015-09-28 10:42:42 | まち歩き

北海道開拓の村の続き。漁村群を回る。

旧青山家漁家住宅。鰊御殿。

鰊漁の出稼ぎ労働者が寝泊りするところや、家族の居住空間。お大尽だからオルガンもある。

旧秋山家漁家住宅。

はねだし。

「薪をわる妹一人冬籠」(正岡子規1867年~1902年)

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四季折々660  お盆すぎの北海道資料館めぐり8

2015-09-27 10:32:39 | まち歩き

北海道開拓の村の続き。

旧松橋家住宅。札幌の都市生活者の住宅。明治・大正・昭和と増改築しながら居住。大正7年の状況に復元。

有島武郎の住宅。

旧北海中学校。明治41年に建築された本館部分。前身は札幌農学校第三期生が中心になって設立した私立北海英語学校。

旧龍雲寺の内部と鐘。

「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」(石川啄木1886年~1912年)

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四季折々659  お盆すぎの北海道資料館めぐり7

2015-09-25 14:55:58 | まち歩き

1983年に開村された北海道開拓の村へ行く。JR新札幌駅からJR北海道バスで15分。54.2haの敷地に開拓時代の建物を移築復元・再現した野外博物館。52の施設が展示されている。

北海道開拓村の入り口。森の中。

旧札幌停車場。明治41年に建てられたものを縮小再現したもの。北海道開拓の村の入り口になっていて、入場券売り場がある。

明治6年に建てられた開拓使札幌本庁舎を再現。開拓使顧問ケプロンの構想により建築されたが、明治12年に火災により焼失したもの。

明治13年に北海道で初めての鉄道・幌内鉄道が敷設され、その職員官舎として建てられたもの。

旧手宮駅長官舎。

旧来正旅館。

屯田兵だった来正策馬が明治31年に宗谷本線の永山駅前で開業した旅館。

旧近藤染舗。明治31年に創業した旭川で一番古い染物屋。

明治11年に札幌で建てられた。

旧福士家住宅。和洋折衷。

すがすがしい森の香りが漂う中の散策。 

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読書感想180  北の大地に馳せた夢 仙台藩最後のお姫さま

2015-09-19 22:18:47 | 時事・歴史書

北の大地に馳せた夢  仙台藩最後のお姫さま

著者        伊達君代  伊達宗弘

出版年月日    2004年7月1日

出版社       新人物往来社

 

☆感想☆☆☆☆

 仙台藩亘理の伊達家の主従が戊辰戦争に敗れた後、北海道の現在の伊達市に入植し開拓に苦労しながら成功した話は世に広く喧伝されている。著者は入植した伊達邦成から4代目の子孫の方と、親戚の登米伊達家の子孫の方だ。それで従来の世に喧伝されている本とは違って、当事者である伊達邦成やともに入植した義母の保子さまや、大叔母のお智恵さまの日記や和歌を多数引用しながら、入植にかける意気込みや開拓地の様子などを描写している。また、仙台藩伊達家中で、北海道開拓に従事した、4家の動静についても詳しく紹介している。その4家は岩出山の伊達家、白石の片倉家、角田の石川家、船岡の柴田家である。また、戊辰戦争の敗戦を、故郷で乗り切った登米の伊達家のことも紹介している。あと士族開拓団として淡路島の稲田家の静内入植や会津藩士の余市入植にも触れている。明治初年に明治政府は各藩に北海道開拓を命じたが、辞退が相次ぎ、その中で仙台藩の5家が応じたのである。

 戊辰戦争敗戦で、仙台藩は62万石から28万石に減封された。亘理の伊達家は2万3千石から65石に減封され、領地は南部藩に与えられることになった。1300名の家臣は身分と生活基盤を失った。そこで今や食うに禄のない1300名の家臣を最大の資力として北海道を開拓して活路を求め、また北門の警備にあたって戊辰の汚名を雪ぎ名誉を回復しようとして、明治政府から有珠郡(今の伊達市)を支配地として受け取り、新しい亘理藩を作るべく入植することになったのである。廃藩置県でいったん有珠郡の亘理藩の土地を開拓使に引き渡したが、つづけて伊達邦成が支配を任されたので、開拓が続いた。移住の方式は家族をつれて移住すること。そして明治14年の第9回移住までで移住総人員は2600人余に上った。またアイヌの人々に対しても信実を旨として礼儀正しく馬鹿にしたり騙したり嘘をつかないようにという伊達邦成の直書が出ている。開拓は西洋式農具を導入し、農地の増大と多角的な畑作農業に成功した。さらに農業加工や製造、牧畜、漁業、鉱山業にも手を伸ばし、産業振興に大きく貢献した。明治4年には郷学校を設けて子弟の教育にも力をいれた。

初めて有珠郡に現地踏査に来たときに読んだ伊達邦成の和歌が残っている。

きのふより荒き波路を漕ぎよせて見る目うれしき函館の浦(函館到着)

此里に同じ烟を立てならべいかにえみしの住みよかるらん

(アイヌと和人が軒を並べて生活している遊楽部で)

住民の豊かなれとや臼かだけたえず烟をたてるなるらし(有珠山を見て)

春に見し都の花にまさりけり蝦夷が千島の雪のあけぼの(決意)

第3回移住団788人の中にいた大叔母のお智恵さまの渡道した際の和歌。

音にのみ聞きし海路を今ぞ見るげに恐ろしき波の手枕

来て見れば蝦夷ケ千島と思はれずただ古里の心地こそすれ

開拓の母と慕われた保子さまの和歌。

 露霜の深く染めけむ伊達村のははその紅葉いろぞはえたる 

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