花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

ひとり舞台

2020-08-09 | 日記・エッセイ


才能のない者は芸術の世界では辛抱されるわけにはいかないのです。この男は物事を深く感じもしましたし、感激をもって芸術を愛しもしました。けれども、芸術のほうではこの男を愛してくれませんでした。――舞台監督の鳴らすベルが鳴りひびきました。――大胆に勇気凜然と主人公登場、と役割書には書いてありました―この男は、いま自分をあざけり笑った見物人の前に出なければなりませんでした。―
(第十九夜│ハンス・クリスチャン・アンデルセン著, 矢崎源九郎訳:「絵のない絵本」, p51-53, 新潮社, 1970)

Aber Stümper dürfen nichit in dem Reiche der Kunst geduldet werden. Er fühlte tief und liebt die Kunst mit Begeistetung, aber sie liebte ihn nichit.
――Die glocke des Regisseurs ertönte; ―― und mutig, stand in der Rolle, tritt der Held vor ―vortreten sollte er vor ein Publikum, dem er zum Gelächter war. ―
(Neunzehnter Abend.│Hans Christian Andersen: Bilderbuch ohne Bilder, p27, CreateSpace Independent Publishing, 2014)

<蛇足の独り言>人は永久機関ではない。外部からのエネルギ―供給が得られなくとも、壮大なる片思いの回転に終わるとも、それでも天から緞帳が下りるまで廻る、廻り続けねばならない。

御社の獅子・狛犬

2020-08-08 | 日記・エッセイ


丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

(第二百三十六段│西尾実, 安良岡康作校注:「新訂 徒然草」, p391-393, 岩波書店, 2016)

<話の展開>聖海上人の御一行が丹波の出雲大社に参られた所、拝殿前の獅子と狛犬が後向きに安置してあった。御一同、御覧ぜよ、さぞかし御由緒があるに違いありませんぞ!感涙にむせぶ御上人様は思慮深げな神官にお尋ねになった。すると神官は、仕様のない悪ガキどもの仕業でして、と言うなり元の向き合う姿に戻して去ってしまった。
<蛇足の独り言>長年培った色眼鏡を外し、恣意的な我田引水に陥らず、専門家が虚心坦懐にものを観ることは素人よりもはるかに難しい。