二代目渋谷天外は、喜劇俳優、松竹新喜劇の創始者および劇作家でもあった、言わば文武両道の名優である。著作の『わが喜劇(伝記・渋谷天外)』(三一書房、1972年)が原寸収録された、大空社出版の伝記叢書291(1998年)を今年になり入手したのであるが、実に面白く興趣が尽きない。笑劇と人情喜劇の上方喜劇史から、昨今にも通じる使い捨て時代の滑稽劇の誕生に対する憂慮、お客さんに持ってかえってもらう「十円玉」の話、笑い声のない喜劇というものの提示、さらにはベルグソンの哲学、メレディスの喜劇論等々と広がりゆく、飽くなき探求と洞察には圧倒された。天性の喜劇人が生涯をかけてお笑いを追究する真摯な姿勢とはこういうものなのだ。
それはまさに江戸時代の漢方医、和田東郭著『蕉窓雑話』における、何を見て何をするにおいても「事々物々の中に自然と我術の工夫の手掛り」があるから注意せよ、そして「兎角各我業とする一藝にこりかたまりて習熟すべし」という論述と全く精神が同じである。『わが喜劇』の<II章、わたしの喜劇論>では、「繰り返しというのは、はなはだ次元の低い笑いである」という締めくくりで、生まれたばかりの御自身の可愛い子供さんを相手に、赤ン坊が何で笑うか笑わなくなるかをテストして観察するくだりが語られている。まずはくりかえしの笑い、次は急激な変化による笑い、そして価値の転倒やなと色々と試した結果、「考えてみれば可哀そうな残酷なテストだったが、私にはいい勉強になった」と独白が続く。一つの道をとことん究めるべしと思い定めた者に、この世の縁(えにし)を結ぶことになった周りの人達もまた、生半な心構えではそのお相手が務まらないのである。
<I章、わたしの上方喜劇史>には、十六歳で処女作の戯曲が世に出るきっかけとなった、脚本の勉強をしてみいと背中を押された際の曾我廼家十郎師匠の含蓄のある言葉、「学問は学校だけやあらへん。小さいときから喜劇の世界に住んできたお前や。耳学問や目学問はしてるやろ。それを利用しんかいな。言うとくけど人のもん盗んで書きなや。自分で考えて、今まで知って来た舞台の寸法に合わすのや。ええな、盗人はあかんで。」が記されている。そして本の最終章には、著者の数多くの戯曲の中の代表作、初代桂春団治の半生を描いた「桂春団治」(原作・長谷川幸延、脚色演出・館直志)の脚本がまるごと収められている。二代目渋谷天外と言えば、子供の頃にTV放映の映像でお見かけした、晩年の不自由になられた御身体の印象がこれまで長らく私の頭の中を占めていた。現在に至るまで様々な役者さんがそれぞれの味を出して演じる春団治の良さは勿論であるが、二代目渋谷天外が演じる春団治にお目にかかりたかったと、心底今思っている。