漢方治療においては、身体内の不足(虚)を補う「補」と不要(邪実)を除く「瀉」のバランスが重要視される。実際の臨床の場では「補」的、あるいは「瀉」的治療だけで解決するということは少ない。多くの場合において、虚と邪実が入り混じった虚実錯雑という病態が殆どであるためである。さらには邪実を除く駆動力を「補」の治療により獲得する、あるいは虚への安定供給をはかるために「瀉」の治療で障害となる邪実を除くという事態も考えねばならない。従って両者は相反するものではなく、「補」が「瀉」となり、また「瀉」が「補」につながる。日常診療において受ける印象としては、西洋医学においては「瀉」の要素が、反対に漢方においては「補」の部分が期待されがちである。しかし両者ともにその様に偏った守備範囲だけであったなら、本来、医学として成り立つ筈がないのである。
さて「瀉」の概念に含まれる「解毒」であるが、かつて疾患をおこす内毒の種類に基づいて体質を以下の三証に分類したのが、森道伯先生提唱の一貫堂医学である。その治療理論の詳細は、弟子の矢数格先生が上梓された『漢方一貫堂の医学』(医道の日本社、2002年)を通じて知ることができる。
1.瘀血証体質:体内に瘀血を保有する体質。主として解剖学上、腹内特に下腹部あるいは骨盤腔内に沈滞する瘀血であり、大半は女性に見られる。治療方剤の代表は通導散。
2.臓毒証体質:食毒、風毒、水毒、梅毒の四毒を挙げ、これらの諸々の毒が身体内の各臓器に瀰漫蓄積している体質。治療方剤は防風通聖散。
3.解毒証体質:肝臓の解毒作用を必要とするいろいろな体毒を持っている体質。従来は結核性体質者に該当するものが多い。治療方剤は、小児期の柴胡清肝湯、青年期の荊芥連翹湯、青年期あるいはそれ以降の竜胆潟肝湯。
(第一編、第三章<三大証の病理解説>, p18-42)
第二章<三大分類の価値>には、この体内毒と解毒に力点を置く一貫堂漢方のスタンスを端的に示す次の一節がある。
「細菌撲滅を図る西洋医学と比較して、全くそれを無視するに等しかった漢方医学的治療は、一見単純な対症療法と誤解されやすいと思われる。しかし、もう一歩踏み込んで考えれば、真の疾病原因を論ずるとき、細菌は単なる直接原因にすぎない副産物であって、それよりも、疾病のほんとうの原因は内因がより重大な役割を演じるものであるということを我々は主張したいのである。しかも、疾病の本質は細菌ではなくて、それを培う体内の毒素であり、また、諸疾病の症状はからだの細胞の自然良能的反応(細菌排毒素に対する)である以上、その真の治療法は、解毒作用によって、からだの細胞の機能を復活旺盛ならしめることが根本であるはずだと思われる。それゆえ、殺菌剤などによる治療法は、原因療法に似て非なる枝葉末節の問題であり、身体内において細菌を撲滅しうる程度の殺菌剤は使用不可能であるから、殺菌による原因療法というのは机上の空論にすぎないと思われるのである。」(p12-13)
ここでは生体を侵襲する外的因子のひとつの例として細菌をとりあげている。西洋医かつ耳鼻咽喉科医として鑑みても、薬剤耐性菌による難治性感染症の問題、また局所に膿が停留する扁桃周囲膿瘍、深頚部膿瘍に進展した場合に選択すべき穿刺・切開排膿術の有効性など、抗生剤を投与するだけで細菌感染の全てが解決する訳でないことは自明である。さらには上記で示唆された様に内因の関与を無視することはできない。医療的介入が一旦は奏功しても、生体側の防御、修復機構の立ち上がりが不十分であったなら、早晩、炎症の再燃に至るが必定だからである。酸化ストレスもまた体内毒の解毒システムの障害の側面を持つ。極言すれば、生きるとはからだに澱(おり)を日々貯めゆくことである。この尽きることのない病的代謝産物の排除機構を支援する手立てにどう取り組むか。西洋医学、漢方医学を問わず、邪実を取り除く「瀉」の戦略は疾病の治療に際したえず念頭に置かねばならない。