紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

大河ドラマ”清盛”にクレーム 天皇家は王家か? 紘一郎雑記張

2012-01-31 04:49:49 | Weblog

大河ドラマ”清盛”にクレーム 
天皇家は王家か? 
紘一郎雑記張

NHK大河ドラマ「平清盛」で、当時、時代考証上、皇室を「王家」と呼んでいたということで、大変な騒ぎが起こったがこの疑問の声に、時代考証を担当した本郷和人・東大准教授が反論している。
 開始早々、井戸歳三・兵庫県知事から「薄汚れた画面」とのクレームがついた大河ドラマ『平清盛』(NHK)だが、今度はインターネットでさらなる物言いがついた。劇中、白河法皇の院政体制について「王家」という呼称を使っていることに、一部のネットユーザーが猛反発したのである。

 ネット上では、「皇室もしくは天皇家と呼ぶべきだ」「NHKは皇室を貶めた!」などと、批判的な書き込みがあふれている。が、時代考証を担当した東京大学史料編纂所の本郷和人・准教授は反論する。

 「清盛の時代は、白河法皇、鳥羽上皇など個人の力が絶大で、天皇家全体を表わす明確な言葉はありませんでした。一方で、この時代に天皇を『王』や『王者』と書いている例は多数見つかります。それ以外に使われるのは『主上』『帝』で、『天皇』はほとんど使われません。そのため『王家』という表現が最も当時の実情に近いと考えられるのです」

 中国では「皇帝」が最も位が高く、中国各地や朝鮮など近隣諸国の「王」を従えていると考えられてきた。そのことを反発した人たちが“不敬”だと批判する根拠になっている。

 「『王家』という呼び方を批判する方々は、天皇は中国の皇帝と同格だから、『王』では侮辱にあたると主張します。しかし当時の人の感覚ではそうならない。現代よりもはるかに位や身分の上下について敏感だった貴族たちが、天皇を『王』と書いているのです。決して皇室を貶める意図はありません」

 


野田首相側、“マル暴”関連筋から献金! 紘一郎雑記張

2012-01-30 03:29:15 | Weblog
野田首相側、“マル暴”関連筋から献金!
計111万円
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 野田佳彦首相の資金管理団体「未来クラブ」などが2005年~10年、暴力団関係者とみられる男に便宜を図ったとして、千葉県警に逮捕された葬儀会社社長と同社から、計111万円の献金を受領していたことが25日、分かった。県警は、同社から暴力団に資金が流れていた疑いもあるとみて捜査しており、首相の道義的責任が問われそうだ。

 



 献金をしたのは、千葉県船橋市の葬儀会社「セレモ」社長、林勇樹容疑者(46)。県警捜査4課などに今月22日、電磁的公正証書原本不実記録・同供用容疑で逮捕された。林容疑者は08年11月、暴力団関係者とみられる不動産ブローカーの男(43)=同容疑で逮捕=が使用することを知りながら、使用者を自らと偽って関東運輸局千葉運輸支局に乗用車の移転登録をした疑いが持たれている。

 政治資金収支報告書によると、野田首相の資金管理団体「未来クラブ」は08年、林容疑者から1万円の個人献金を受領。首相が代表の政党支部「民主党千葉県第4区総支部」は05~10年に、セレモから計110万円の企業献金を受けていた。

 

 
代議士の任期中、他人から一切何も受け取らず、秘書が間違えて受け取った「バレンタインチョコ」までも、全て返したという「小泉純一郎氏」が懐かしい!
 
 

大正ロマンの往時、今に・・紘一郎雑記張

2012-01-29 05:08:49 | Weblog
速報
ブログ”清盛第5回”は近々投稿予定です
大正ロマンの往時、今に…復元の大阪府庁正庁、
25日から公開開始
紘一郎雑記張
 
 

 大阪府庁本館(大阪市中央区)の大広間「正庁の間」が、完成当時の大正時代の姿に復元され、25日から一般公開が始まる。修復過程で、約55平方メートルの天井ステンドグラスは公共建築で現存する最古のものであることが判明。傷みや汚れは激しかったが、職人たちが可能な限り、元の華麗な姿に戻す工夫を凝らした。

 府庁本館や正庁は、これまでも、映画『ブラック・レイン』(平成元年)、『HERO』(19年)、『プリンセス トヨトミ』(23年)、NHKドラマ『白洲次郎』(21年)などのロケ地としても使われており、今回の復元で撮影スポットとしての需要も高まりそうだ。

 正庁の間は本館5、6階の吹き抜け構造で大正15年に完成。かつては式典などに使われたが、庁舎が手狭になったことから、20年ほど前から執務室に転用され、一般の人が目にする機会はほとんどなくなっていた。

 大阪府が昨年購入した咲洲(さきしま)庁舎に部局の一部を移したことを受け、約4200万円かけ、大正時代当時の姿に復元することになった。松井一郎知事は、府庁本館を大阪市が建設予定の近代美術館に転用することも検討している。

 当初の復元計画では、ステンドグラスについては予算上の問題もあり、中心の装飾部分以外は、当時の姿を印刷した紙をアクリル板に張ることで代用する計画だった。しかし、修復を担当したガラス工芸作家の生田哲さん(64)が「可能な限り元の姿を保ちつつ、往事の姿に」と提案、特殊洗浄を採用することになった。

 中心部は、100カ所近くでガラスの欠損があったほか、5センチ前後もたわんでいたが、残されたガラスもすべて活用し、紫外線硬化接着でつなぎ合わせた。

 また、安全性の観点からステンドグラスの下に設置されていた金網を撤去、代わりに強化プラスチックを設置したことで、室内は格段に明るくなった。

 生田さんは「大阪城の石垣と堀を意識した幾何学形の中心に満開の花が据えられ、大阪の明るい未来と発展を願う心意気を感じるデザイン。表面の凹凸による乱反射でより明るく多く採光できる色ガラスを使用した大変貴重なもので、ぜひ多くの方にみてほしい」と話している。

 一般公開は毎週水・金曜日の午前10時から午後5時まで。入場無料。問い合わせは府大手前・森之宮まちづくり課(06・6944・7560)。

NHK大河ドラマ第4回 平清盛を知る! 紘一郎雑記張

2012-01-28 04:56:09 | Weblog

NHK大河ドラマ第4回 平清盛を知る! 
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 平家一門語録
清盛語録
頼朝の首をはね、わが墓前に供えよ
「この世でなそうとしたことはすべてやることができた。しかし、頼朝の首を見なかったことだけが無念だ。だから、すぐさま討っ手をさしむけて頼朝の首をはね、わが墓前に供えよ。それが何よりの供養だ」
注釈:病床の清盛は妻の時子に言い残すことはないかと聞かれてこう答えた。約20年前、平治の乱で頼朝の生命を助けたことを悔いていたに違いない。


平宗子(池禅尼)語録

「頼朝の顔は、早世した家盛殿のお顔に生き写しじゃ!」
注釈:などという噂を信じて、平治の乱の際に継子(けいし)の清盛に源頼朝の助命嘆願をしたことで名高い。この後、伊豆へ流された頼朝が平氏を滅亡に追い込んだことは良く知られている。



※この一点だけをみると平宗子は実に愚かなことをしたと思われるが、清盛が出世出来るように、実家の藤原家との間を取り持ったとのが宗子とされる。清盛が異例の出世が出来たのも藤原家成の後押しを得たからであるが、宗子の助言や根回しがあったからこそと推測される。 続く・・・



第3回 NHK大河ドラマ 平清盛を知る! 紘一郎雑記張

2012-01-27 05:25:13 | Weblog

第3回 NHK大河ドラマ 平清盛を知る! 
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【平清盛の厳島神社信仰】
清盛はじめ、平氏一門は平治の乱で勝利を収めて、その勢力を大きく飛躍させた頃から、盛んに厳島神社を信仰するようになった。1167年(仁安2年)に太政大臣に昇進した後、厳島神社に参詣して自ら書写した般若心経を奉納するなど、たびたび厳島神社に奉納を行っている。この厳島神社信仰のきっかけは、夢のお告げであったらしい。1153年に、清盛は落雷で焼失した高野山大塔の造営を命じられた。大塔は1155年に完成し、清盛はその年に50日間ほど高野山に滞在していたことがあった。その時、夢に弘法大師が現れ、厳島神社を信仰すれば一門が繁栄すると伝えられた。そこで厳島神社を厚く敬ったところ、保元平治の乱に勝利することができたため、1160年にはみずから参詣し平家納経の準備をすることになったという。また、日宋貿易を進めた清盛は、航海の守り神をまつっている厳島神社を、平氏の氏神としても尊んだ。




【厳島神社の概要】
厳島神社のある厳島(宮島)は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、「日本三景」の一となっている。「平家納経」で有名。厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一。高さ16メートルの大鳥居(重要文化財)も春日大社(奈良県)と気比神宮(福井県)の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一とされる。ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。  続く・・・


ずるいぞ!野田総理の施政方針演説  紘一郎雑記張

2012-01-26 04:13:57 | Weblog

”清盛”の連続投稿中ですが、国会、政治問題を鋏み投稿致します

ずるいぞ!
野田総理の施政方針演説 
 
紘一郎雑記張

自民党の麻生太郎元首相は24日、野田佳彦首相が施政方針演説で首相時代の麻生氏の演説を引用し、消費増税をめぐる与野党協議を求めたことについて「いいとこ取りだけされた。
何となく抱きつかれたような感じだ」と不快感を示した。国会内で記者団に語った。


 麻生氏は消費増税に関し「私の演説では
『景気回復が前提』という条件が付いていた。
首相は景気が回復したと思っているんだろうが、
世の中にそう思っている人はいない」と指摘、
協議を拒否する正当性を強調した。

    
 また、同じく演説を引用された福田康夫元首相は「あのころを思い出すと、話し合いは【民主党に】全て拒否された」と振り返り、「(協議の成否は)与党がどう対応するかにかかっている。言葉だけでは駄目だ」と語った。 

さぁ どっちもどっちと思いますね


NHK大河ラマ 平清盛を知る 第2回 紘一郎雑記張

2012-01-25 03:28:58 | Weblog

平清盛を知る 第2回 
紘一郎雑記張

平清盛誕生(出生)の謎
平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛(ただもり)の嫡子とされるが、白河上皇の御落胤(ごらくいん)説もある。また母親は祇園女御(ぎおんのにょうご)もしくはその妹という説があり出自は必ずしもはっきりしていない。

■源平盛衰記
「平家物語」の異本の一つ「源平盛衰記(せいすいき)」で、白河上皇が褒美として平忠盛に自分の胤を身籠っている祇園女御を下げ渡し、そして忠盛の妻となってから生まれた男子が平清盛である、と書かれているところから、御落胤説が流布したとされる。


■仏舎利相承系図
「胡宮(このみや)神社文書」の中の「仏舎利相承系図(ぶっしゃりそうじょうけいず)」にも「源平盛衰記」と似たような記述があり、祇園女御ではなく、その妹(白河上皇の胤を身籠っている)を平忠盛に下げ渡して生まれたのが平清盛となっている。そして妹が没したため、姉の祇園女御が、甥である清盛を準養子として育てたといった内容の記述がある。


 
白河上皇の御落胤説は「源平盛衰記」と「仏舎利相承系図」のなかの記述が根拠とされるが、「源平盛衰記」の史料的価値は全くないとされる。「仏舎利相承系図」の評価は専門家によって意見が分かれるようだ。

※祇園女御(ぎおんのにょうご)
祇園とは京都の八坂神社(京都市東山区)の周辺のことで、女御は天皇や上皇の身辺を世話する女性の呼び名である。白河上皇は祇園に邸宅を造り、そこに愛人を住まわせた。そして白河上皇の寵愛を得たことから、いつしか祇園女御と呼ばれるようになったとされる。
続く・・・


NHK大河ドラマ 平清盛を知る!第1回  紘一郎雑記張

2012-01-24 07:24:37 | Weblog

NHK大河ドラマ 平清盛を知る!第1回  
紘一郎雑記張

平清盛はなにをした人か


平清盛は武家出身者で初めて貴族の最高官位である従一位(じゅういちい)、太政大臣(だじょうだいじん)という地位に昇り、わが国初の武家政権・平氏政権を樹立した人物である。それまでの武家は天皇の政治を補佐するだけの存在であり、自ら政治に参画することは到底考えられなかった。清盛は政治の権力を貴族から武士へと移行させた功労者といえる。そして九州の博多で行われていた宋(中国)との貿易を拡大するため兵庫に港・大和田泊(おおわだのとまり)を築港する。それまで経済力は土地であったものを貿易に変え、海外に目を向けたところも先見性があった。また神仏に深く帰依していた清盛は、蓮華王院(れんげおういん)・33間道(京都市東山市)の創建、厳島神社(広島県廿日市市)の造営に尽力したことでも知られる。



しかし、平氏政権は短命に終わった。晩年に行った清盛の強引な福原遷都、東大寺(奈良の大仏)の焼討ちなどの横暴な行動が、平氏政権への不満が高め、貴族や武士、僧、町人の間にも反平氏の風が吹き始めた。平家の力は急速に衰え、各地で反平氏の火の手があがるなか、清盛は熱病を患い64歳の生涯を閉じた。それから僅か4年後に、栄華を誇った平氏は檀の浦の戦いで源氏に敗れ滅亡した。   続く・・


日本のリーダー愛4位の小泉純一郎氏 紘一郎雑記長

2012-01-23 03:25:40 | Weblog

日本のリーダー第4位の小泉純一郎氏 
紘一郎雑記長

今年、新聞社の”皆様が求める日本のリーダー”で
「龍馬・信長・家康」に続いて第4位になった
小泉純一郎氏”についてこんなメールを戴きました

小泉純一郎人の上に立つ人は腰が低い

田宮氏談
高輪に国会議員が寝泊りする宿舎があります。私はそこの宿舎で学生時代、青い制服を着て守衛のアルバイトをしていました。

 

宿舎の出入口に宿舎を管理する事務所があり、その事務所の窓口に座ってどの議員が戻ってきて、どの議員が出かけていったかをチェックするのが主な仕事でした。

 

議員が窓口の前を通る時に「お帰りなさいませ」「いってらっしゃいませ」と声をかけるのですが、その時に議員の性格が如実に現れます。

 

議員は23世が多く小さい頃からチヤホヤされて育てられたからか、挨拶をしても挨拶をしてくれない議員、守衛を人間とは思わず下等な動物でも見るかのような眼で見る議員が結構おりました。(もちろん皆ではなく普通に挨拶してくれる議員もおりましたが)

 

中途半端に偉い人程偉そうにするなと感じたものです。

 

そんな中、一人だけ何時もなんとも言えない笑顔で微笑みかけてくれる議員がおりました。時には饅頭をくれることもあり優しい人だなと感じたものです。

 

この議員は後に総理大臣になる小泉純一郎さんでした

 

『なるほど総理になるだけのことはあるな』、人の上に立つ人は腰が低く優しさも備えているのだということを学ばせていただきました。

 

小泉元総理は変人、冷徹と言われましたが、守衛に対しても優しく接する一面があったことを、私は歴史の証人の一人となり語っていこうと思います。

 文責 田宮 卓


激変!中国人口事情 紘一郎雑記長

2012-01-22 04:19:16 | Weblog

激変!中国人口事情
 紘一郎雑記長

中国、都市部の人口が農村部を上回る
史上初の現象

中国・北京で、一斉に地下鉄を降りる通勤客ら
(2011年10月24日撮影、資料写真)

 

中国では多くの人が収入増の機会を求めて農村部から都市部に
移動している中国で、2011年に都市部の人口が史上初めて農村部の人口を上回ったことが分かった。

 中国国家統計局(National Bureau of Statistics)が17日に発表した統計によると、中国の総人口、約13億5000万人のうち、51.27%に当たる6億9080万人が都市部に居住していることが
明らかになった。

 中国は30年ほど前まで農業を主な産業とする国だったが、その後導入された改革開放政策によって、経済が発展する都市部や
沿岸部への大量人口移動が進んだ。

 国家統計局によると、2011年に農村から都市部に移動した中国人の数は2100万人。これはスリランカの総人口に匹敵する。
都市部での人口増に伴い、農村部の人口は減少した。

 農村から都市部に移動する人々の多くは出稼ぎ労働者たちだ。
世界第2位の経済大国となった中国の成長は、こうした出稼ぎ労働者たちによって支えられている。

中国も大きく変わりつつあり目が離せない!!