紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

柳生新陰流に学ぶ!泉 紀せ史氏講演録より 安田紘一郎雑記張

2009-07-30 16:33:16 | Weblog
【柳生新陰流】に学ぶ 泉 紀世史氏講演録より

奈良市に”柳生の里”という所があり、そこは兵法・兵術に志篤く、
五畿内一の兵法家【柳生宗厳(後の柳生石舟斉宗厳)がいた。
彼こそが、剣聖【柳生十兵衛】の祖父である。

”柳生の里”に行くと「一刀石」という名の「直径役10m・高さ3m」
の石があり、それが石の中央からまっ二つに割れている。

ここで修行していた「柳生石舟斉」が現れた「天狗」を
「一刀のもとに切り捨てた」と思ったところ「刀」はそこに
あった「巨石」をまっ二つに割っていたとの言い伝えがある。

1600年の「関ヶ原の戦い」の7年ほど前ある時、石舟斉は
「徳川家康」に「柳生の剣をぜひ見のたい」と招請された。

剣術が好きな「家康」と立会いをし、木刀を握った「家康」の前に
仕方なく「石舟斉」は木刀を持たずに立ったのである。

「家康」は猛然と打ちかかるが、その瞬間、地面に倒れそうになる。
それは「柳生新陰流」の極意「無刀取り」だったのである。

「家康」は驚き「徳川家の指南役」にと請うが「石舟斉」は固辞し
代わりに息子の「宗矩」を推挙した。

こうして「1594年」から「宗矩」は「家康」に「柳生新陰流」を伝授し
以来「柳生家」は代々「徳川将軍家」の兵法師範役となり
刀術の主流門閥となったのである。

その「柳生新陰流」は時代と共に衰退の一途をたどりつつある。
柳生にかんする「古文書・伝書」はあるが、伝承は口伝や
実際の”型”を伝える方法が主流と成っている。
「古武道」とはそういったものでしょう。

そもそも「柳生新陰流」の根底にあるのは「物事に執着せず」
「心・技一体」の自在の境地であり、「武道は仏法」に通じ
「禅」と一致することが多い。

「宗矩」の親友であった「沢庵和尚」は「太阿記」のなかで
剣の極意は「何事にもとらわれない平常心」を持つ事とといている。

現在のように、スピード化された社会では、我々はその日のうちに
決着をつけなければ事案も多くあり、夜も眠れない事もあるが
「沢庵和尚」は「イエス・ノー」を決めるな!放っておけと言う。

善し悪し決めるということは一事に心をとられ
万事が見えなくなり、正解が判らなくなる。

このように「柳生新陰流」は心法、すなわち精神面での訓練を通じ
「人格・風格」をつくる事を目標にしている。

「柳生新陰流」で最も熱心に稽古するなが【心】と【気】である。
【心】とは「観察力(いわゆる心眼)」・「不動心(迷わない心)」「平常心」
【気】とは「集中力(精神エネルギー集中)」「制圧力(気で圧倒)」
その心身の動きを制圧する”力”である。

政局が変わる前に手を打つ、業績が悪くなる前に手を打つ、などの
経営の基本は、兵法や武術からも学ぶことが出来る。

時代は大きく変わり平和を尊ぶ現在となったが「柳生新陰流」は
単に「斬りあい」だけではなく時代を超え処世の万般に活かし得る
教えともいえるのであろう。


紘一郎感想

まさしく現在のこの乱世にも通じる面が多く
色々考えさせられる講演録でした。

目先の「些細な事案」や「訳の解らない風」などに迷わされず
これからの日本に「大切」な「教育」や「国家感」を共有でき、
「暮らしは・経済は」一番でなく【国民の命が一番】の
党や人を慌てずじっくり、探してみたい。

阪神タイガースはここから強くなった 梅本正之氏講演より・紘一郎雑記帖

2009-07-23 07:52:44 | Weblog
【阪神タイガースはここから強くなった】

梅本正之氏(元・虎風荘寮長)の講演会より

私がタ「イガースの寮長」を務めたのは2003年まで。
星野監督の18年ぶりのリーグ優勝をみて退任した。

残念ながら「日本一」の本当の優勝はダメでしたが
私が勤めた1「8年の寮長生活」の終りにタイガースは
「ダメ虎」と呼ばれた苦難の時代に終りを告げ
「野村監督・星野監督・岡田監督」と
名監督をそろえ「常勝球団」へと変貌した。

寮長としての仕事は、入団してきた選手を「社会人」として
育てることでである。

「野球人」として育てるのは「監督やコーチ」の仕事で
この二つがそろって立派な選手そして人間となるのである。

「鍛えて下さい!」と両親に手を引かれ入団してくる
選手の数だけ、この世界を去って行く選手がある。

何とか「再就職」をと、探し回る日が続くが、
次の人生に踏み出すにも、いかに選手時代に悔いの
残らないようにするかが、重要になる。

そんな事を「日夜」選手と寮で教え話合っているのです。

さて「タイガース」が強くなった最大の要因は
ヤクルト全盛時代を作り上げた「野村克也監督」を
阪神に迎えたことにある。

結果は3年間最下位の連続で、寮にまで「今岡を使え」とか
色々な脅迫まがいの手紙や電話が凄かった事を思い出す。

しかし、この「野村監督」の「3年間」で「タイガース」は
大きく変貌を遂げたのである。

「タイガース」に水を撒き、肥料を撒いて次の芽が育つ
土壌をつくりあげたのである。

それまでの「タイガース野球」は選手は、ただ漠然とベンチで
試合を見ていただけであったが、野村監督はベンチから
ピッチャーのクセを見つけたり、常に野球を考え続けろと説き
バッターはバッターボックスに立ってから、
又、投手はマウンドに立ってから考えては遅いのであると
それまでに考えておかなければ勝負にならないと
「タイガースの常識」を覆した教育をしたのである。

赤星選手はそれを実践して、投手のクセを必死になって
盗み、何回も「盗塁王」になりえたのです。

野村監督の凄いところは「選手の能力」を見つける「眼力」でしょう。

赤星選手と藤本選手をドラフト指名した時は
二人とも170㎝もない選手で、見学客が
グランドボーイと間違える程度の選手でした。

強引にドラフト指名したこの二人は「03年」には
二人とも「3割打者」になりました。

又、「野村再生工場」といわれた「眼力」はロッテ球団で
野手となっていた「遠山選手」を入団させ、再びマウンドに
たたせ当時の「松井秀喜選手」を「きりきり舞い」させたのである。

コントロールの悪かった「井川投手」がダーツが得意な事をしり
キャッチャーミットを的にと考えさせ指導し
「エース」になるきっかけを与えました。
ちょっとしたアイデアで選手をガラリと変える
「野村監督」恐るべし、というところでしょう。

寮生活からみて「一流選手」になる要素のある選手とは
どんな選手だろうか?

監督やコーチのアドバイスを積極的に聞き、耳を傾けるが、
だが、自分を見失なわず、自分を殺してまで、
従わない選手「生意気な選手・闘争本能のある選手」
が大成する選手の要因といえる。

「江夏投手」も生意気だったけど「凄い投手」で
人の言うことは聞かないフリをして「いいとこ取り」し
プラス思考で物事を考え「負けん気・勇気・集中力」の
3点がそろった選手であった。

最後に永く寮長をしていたので、多くの選手と
向き合ってきたが、グランドで活躍している選手、
かって、グランドで活躍した選手よりも、
その何倍ものプロ野球選手として成功せず
去っていった選手の顔の方が、瞼に浮かぶのは年のせいだろうか!

梅本正之・虎風荘寮長講演録より
【星野監督・岡田監督編は後日投稿致します】m


紘一郎 感想

今年の「タイガース」はどうなってしまったのか、
昔のタイガースに戻った様である。
野村監督の作り上げた財産も、もう残り少なく寂しい限りである。

FA入団はもう要らない!、外人ももういい!
負けてもいいから「若手」を育てよう!






住吉大社1800年の歴史を語る!真弓宮司講演より 安田紘一郎雑記帳

2009-07-17 05:29:39 | Weblog
【住吉大社千八百年の歴史を語る】

「真弓常忠宮司」講演会より

わが国有数の古社である「住吉大社」は日本書紀によりまして
神功皇后摂政11年「西暦211年」の鎮座と伝えられている。

即ち「住吉大社」は「2011年」に「鎮座1800年」を迎えるわけである。

古代神殿批判論では「神体」等の存在を前提とし「発掘遺跡」から、
それらしい物がみられない事を重くみて「否定の論拠」になっている、が

「住吉大社」も、もとより当初から「常設の社殿」が、
営まれたわけではなく、樹木を立てて
そこに”神”を招き入れるという「神籬祭祀」の
形であったとかんがえられ、
今に遺る「五所御前」はその遺跡である。

「住吉大社」の本殿は「第1・第2・第3本宮が西向きに並び
「第4本宮」は「第3本宮」の南側に並列しており
この「社殿配置」は「弥生時代後期」に建造されたと
みられる「伊勢大洲遺跡」の系統のものと判明し
この遺跡は5世紀より、ほぼ原型を保って今に伝承されている
「古代神殿」の唯一のものである。

その上、本殿内部は「住吉大社神代記」にみえる
「本殿内」と極めて類似している。

【これはかるか古い時代の「朝廷の神祭」の場合の正統的な
神殿の形が「住吉大社」の常設的本殿として伝わり、一方では
「朝廷」の「大嘗祭」の仮説的な建物として伝わった】
と指摘する識者が多い。

考古学の調査により「住吉大社」の「境内」に
【古墳】の存在が判明している。

神社の社殿の北側に隣接した南向きの「前方後円墳」で
全長200メートルの大古墳である。

この位置は「住吉の津」を眼下に見下ろすところに
「住吉造本殿」が建てられたことと重なるのです。

さらにこれは「海岸古墳」とよばれるもので
4世紀後半から100年の間に作られている。

そして中より「須恵器」や「灯明皿」が出土した事と
あわせて考えると、昼夜を通して当時の「大阪湾」を航行する
船舶の格好の目印となり、まさに海を支配する
「住吉の神」の存在をはっきりと示すものである。

5世紀頃以来「朝鮮半島」との交通が頻繁になり、
又、遣隋使・遣唐使の往来は全てが「住吉の津」を
基点にしていたのでしょう。

来航の船が大阪湾にさしかかると、目にしたのは「巨大な前方後円墳」
の遠望景観と近づくと直角に見通された「住吉の社殿」であり
船はその南側の湾入している「住吉の津」に入港したのである。

そのときの「渡来人」はこの「住吉の光景」に何を思い夢見たのでしょう。

一方、出航していく船団は万里の波濤を乗り越えて大陸に向かう
「ロマン」と共に「命がけ」の門出でもあり、その多くの人たちの
「安全」を祈る「住吉大社・海の神」でありました。

平安時代の住吉信仰が豊かに表現されているのは「源氏物語」です。

「光源氏の父帝」と「明石入道」の住吉明神への
厚い信仰と「住吉詣で」が描かれています。

政治的苦境にあった「光源氏」は「住吉の神」の加護をうけ中央に復帰し
「住吉の濱」の松風に音を添える「神楽の調べ」の華やかな
「住吉詣で」の模様は絵巻物の恰好の題材となり
作者の「紫式部」自身の「住吉大神」の信仰は並々でなかった事と
当時の「住吉信仰」と「住吉詣で」の有様が窺がえます。

住吉の現人神の信仰は「住吉の松」の歌枕と共に、
謡曲「高砂」にみられる「円満長寿」「寿福慶賀」の
意を表す神として「住吉信仰」は現在に継承されているのです。



紘一郎感想

「住吉の浜」から大陸に渡った「空海」の「最澄」も「住吉信仰」から
みれば、まだ最近の出来事のように思えます。
1800年近くの歴史の「住吉大社」はそのまま「大阪」の歴史でもあり
「江戸400年」「京都1000年」「奈良1300年」と対比しても
「浪速の町」は1800年前の古代から重みのある「古都」なのですね。

関西復活の近道は「この歴史」を振り返り、
伝統を大切にする事ではないでしょうか。



龍馬と晋作の手紙を読む・一坂太郎氏講演会より、安田紘一郎雑記帳

2009-07-09 17:31:21 | Weblog
【維新を見ずに散った晋作と龍馬】 
 一坂太郎氏「萩市特別学芸員」講演会より



「高杉晋作と坂本龍馬」に大きな影響を与えた人物に「吉田松陰」がある。

「松蔭」は安政の大獄で29歳の若さで亡くなるが、
その「松蔭」が非常に崇拝していた人物に「楠 正成」がいる。

「正成」は「後醍醐天皇」に仕え「足利尊氏」と戦い、
最後は神戸の湊川で亡くなる。

そのとき「正成」は「七生滅賊」という言葉を遺した。
「七度生まれ変わっても“尊氏”を滅ぼす」という想いで亡くなったのだ。

「吉田松陰」は【“正成”は7回生まれ変わると言って死んでいるが、
実は一度も死んでいない、この500年多くの人が“正成”の
生き様や死に様を見て奮起している。
だから“正成の志”は7回どころか何回もよみがえっているので
自分もそうなりたい】と書いている。

「松蔭」もまた自分ひとりで出来ることには
限界があり自分の“志”が高ければ、
それを継いでくれる人間が必ずいると信念を持っていた。

高い”志“とは”私利私欲“をすて、自分が何をすれば
「人の為、国の為」に役立つかを考え、今の「幕府体制」から
「天皇」を頂点とした新しい国の再構築を考えていました。

「松蔭」が若くして処刑され、門下生たちは奮起した。

「松蔭」の死の翌年に(1860年)に結婚した「晋作」は
その翌年に上海に渡った。

上海でアヘン戦争後、イギリスに「南京条約」を結ばされ
上海はじめに5つの港を開かされ、領事館を置かされ、
半ば殖民地の中国を目撃したのである。
  
当時の武士たちにとって大事なのは
「仏教」でも「神道」でもなく儒教でした。

「晋作」は儒教の本場の「孔子廟」はどれだけ
立派なものかを見に行き“衝撃”を受けます。

「孔子廟」にイギリス兵が土足で上がりこみ、
銃を枕に昼寝をしている姿に「松蔭」の言っていた
教えの正しさを感じたのです。

このままいけば日本にもいずれ「同じ事が起きる」との思いから帰国し、
後の1862年に外国の圧力をはねつける為に
「尊皇攘夷」の急先鋒となり行動を起こすのである。

同年、12月「品川」の御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちしている。

その後「晋作」は奇兵隊を作ります。
「晋作」は士農工商を無くし「四民平等」を考えていたといわれ、
その「奇兵隊」は5割が武士で4割が農民、
残りが商人とその他の構成でありました。

「龍馬」と晋作は「新しい独創性があった点」で
よく似ているが出自が大きく異なる。

土佐生まれの「龍馬」は「晋作」よりも4歳年上で
「晋作」は武家の跡取りであるが「龍馬」は
祖父の代に「城下一の豪商坂本家」に生まれ、
経済力を背景に「土佐藩」の最下級である「郷士という身分の武士」
になったので根っからの武士ではない。

だから「晋作」と違い「龍馬」が合理的な
近代人の臭いを持つのはこのせいである。

「龍馬」は剣術を極める為に江戸に行き、
北辰一刀流で修行を積むがその江戸で「黒船騒ぎ」に
遭遇し何とかしなければいけないと考え
土佐藩の郷士を中心に作られた「土佐勤皇党」に参加します。

そんな或る時「龍馬」は党首の「武智半平太」から
長州の「久坂玄瑞」への手紙を託され「萩」にいきます。



すぐ帰る予定が「松下村塾」の門下生たちと交流しているうちに、
感動し、「9日間」萩にいて「松蔭」の教えに洗脳され
「龍馬」は人が変わった様になり土佐に帰ります。

土佐に戻った「竜馬」はすぐ脱藩したのである。

その後消息を絶った「龍馬」は1年後、いきなり姉の乙女に手紙を書いている。

その内容は「幕臣の勝海舟の弟子になったこと、海軍のことなどがかいてあり、
志士をきどって過激な活動をしている若者とは自分は違うのだ」と
書いてありました。

そしてその「3ヶ月後」の「龍馬」から姉宛の手紙には
有名な【日本を今一度せんたくいたし申し候事ニいたすべくとの神願ニて候】と
いう文が書かれている。


紘一郎感想

維新の前年、大政奉還の6ヶ月前に倒れた「晋作」は
「師・松蔭が死した同じ年の29歳」 
又、その月に暗殺された「龍馬」、この2人の英雄はともに
新しい日本の門出を見ていない。
残念な思いであったことでしょう。

【龍馬・晋作の2人は「靖国神社」で今の日本を見ている】


アメリカインディアンに学ぶ・川上与志夫氏講演会より、安田紘一郎雑記帳

2009-07-04 12:48:42 | Weblog
川上先生講演録「帝塚山学院大学・名誉教授



川上です、「自然との共生」といわれてもう30年になります。

それは「心の問題」といわれて30年になります。
この30年何も変わっていないですね。
いやな事件がいっぱい起きていますね、

少し考えてみましょう。
今日のタイトルの「生活習慣病」は昔「成人病」といわれていました。

脳梗塞・心臓疾患などこれは血液からの病気ですね。
痛風・糖尿病これなどもそうですね

でも現在大切なのは「心の生活習慣病」ですね、
いっぱいあります。まとめてみましたら
何もかも「面倒くさいなあ病」・愚痴と不満の「ため息病」・
感謝の足らない「忘恩病」・などなど数えればきりがありません。

思いつくままで50病ほど御座いました。

皆さんは日常生活の中で「面倒くさいなあ」と思ったことはありませんか、
「掃除面倒くさいなあ・皿洗面倒くさいなあ、
メールが来たが返事をするのが面倒くさいなあ」

こんな身近な「面倒くさいなあ病」を少しだけ
気つけるだけで物の考え方が変わって参ります。

その為には「心を変えます」すると「姿勢が変わります」
そして「行動が変わります」その行動を続けていくと
それが「習慣」になるのです。

【良い習慣病】ですね。「習慣」が「習性」になり、
その人の「人格」となり、人から信頼され人生となるのです。

良く私たちは「若い人はいいな、夢や希望がある」と言いますが、
では「年寄りには夢も希望」も無いのですか、
そんな事はありませんよね。

「夢」とは何でしょう、「夢」は漠然としていますが「希望」は現実的です。
夢は目的で希望は目標ですね、数値が入ります。

数値が入れば計画が出来、実行していくのですね、



そんなことを【インディアン】に注目して見ましょう。

現在200万人のインディアンいますが、
ほとんどが居留地での生活をしています。

そして大変な差別の中での生活です。
アメリカでは黒人差別問題はゆっくりではありますが
良い方向に改善され、差別も減り
「オバマ大統領」の誕生まで進んできました。

しかし「インディアン」は全然その枠に入っていないのです。

無茶苦茶な差別をインディアンは受けています。
住んでいる居留地はへんぴな場所で何も無いところに追い込まれています。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見します。

我々は大陸発見と習って来ましたが、これは西洋からの見方で、
インディアンから見れば「西洋人のアメリカ大陸侵略」なのですが、
それでもインディアンは紳士的なのです。

安全な航海が可能になった1620年あの有名な「メイフラワー号」に
103人のたちが乗り大陸に来ました。

着いたのが冬でしたので「寒さ」と「飢え」で半分の人が亡くなりましたが、
それを助けたのがインディアンで食べ物もな
大変なときに手を差しのべ移住者の応援をしたのです。

移住者はインディアンに農作を教わり、秋になって収穫をしました。

皆で喜び感謝し「感謝祭」をすることになりましたが、
そこにインディアンがお祝いに「野生のターキー」を持ってきました。

それを丸焼きにして食べたのですがこれが1621年の
第一回の感謝祭で11月の第3木曜日に今でも続いております。

でもそんな事には関係なく西洋人は西に西へと
インディアンを追い詰めていくのです。

その都度、色々と移住者とインディアンとの間で条約を結ぶのですが、
それを破り又約束し又破るの繰り返しの連続でした、
【インディアン・嘘つかない!】は本当の事ですが、
インディアンには寂しい歴史でもあるのです。

【アメリカ合衆国は破られた「400の条約」から成り立っている国である】
と言われています。

1890年にインディアンと白人の戦いが最後となり
それ以後は戦いはなくなりました。

アメリカでは2012年の選挙で「黒人大統領」がでて
2050年の選挙でインディアンが大統領になると
本当に良い国になると思っておりましたが
2008年に1期早く「黒人大統領」が出来ましたので
次はインディアン大統領の出現を待ちたいと思います。

インディアンは食べる前に「ごめんね」と言います。
必要なものだけ自然からいただく気持ちを表すのです。

●自然に逆らうのは野蛮だ!
インディアンは大地,大気、河川、への思いがつよく、
我々文明人のお金第1主義、都会への憧れ、大量消費とは大きく違います。

●文明人はどれだけ「財産」を獲得したかで人を評価するが
「インディアン」はどれだけ人に与え、奉仕したかで人を評価します。

インディアンの「与えつくしの儀式」を思うと、
文明人の「あれもこれも欲しい病・
これ見てよのブランド病・出し惜しみのケチケチ病」は恥ずかしく、
貧相に感じますね。

●インディアンは時計でなく自分で刻むリズムで暮らす
インディアンタイムは自然のリズムで
生きるが文明人は忙しい・ストレス・そんなに急いで何所に行く病に
かかっているように思います。

●最後に私たち過去の生き方をしっかり見つめなくてはなりません。
心の中に伝統をしっかり刻み込み、
同時に変わらなくてはなりません。

以上 川上与志夫氏講演会より



紘一郎感想

このお話を聞き私たちはとても大切なものを忘れている様に思いました。
植物も動物もすべて命のある生き物であるのですね、
この地球は人間だけのものでは無いのです。

最近は映画でもテレビでも「西部劇」を全く見なくなりましたが、
それは「差別」そのものであるということが、
川上氏のお話で再認識させられました。