【柳生新陰流】に学ぶ 泉 紀世史氏講演録より
奈良市に”柳生の里”という所があり、そこは兵法・兵術に志篤く、
五畿内一の兵法家【柳生宗厳(後の柳生石舟斉宗厳)がいた。
彼こそが、剣聖【柳生十兵衛】の祖父である。
”柳生の里”に行くと「一刀石」という名の「直径役10m・高さ3m」
の石があり、それが石の中央からまっ二つに割れている。
ここで修行していた「柳生石舟斉」が現れた「天狗」を
「一刀のもとに切り捨てた」と思ったところ「刀」はそこに
あった「巨石」をまっ二つに割っていたとの言い伝えがある。
1600年の「関ヶ原の戦い」の7年ほど前ある時、石舟斉は
「徳川家康」に「柳生の剣をぜひ見のたい」と招請された。
剣術が好きな「家康」と立会いをし、木刀を握った「家康」の前に
仕方なく「石舟斉」は木刀を持たずに立ったのである。
「家康」は猛然と打ちかかるが、その瞬間、地面に倒れそうになる。
それは「柳生新陰流」の極意「無刀取り」だったのである。
「家康」は驚き「徳川家の指南役」にと請うが「石舟斉」は固辞し
代わりに息子の「宗矩」を推挙した。
こうして「1594年」から「宗矩」は「家康」に「柳生新陰流」を伝授し
以来「柳生家」は代々「徳川将軍家」の兵法師範役となり
刀術の主流門閥となったのである。
その「柳生新陰流」は時代と共に衰退の一途をたどりつつある。
柳生にかんする「古文書・伝書」はあるが、伝承は口伝や
実際の”型”を伝える方法が主流と成っている。
「古武道」とはそういったものでしょう。
そもそも「柳生新陰流」の根底にあるのは「物事に執着せず」
「心・技一体」の自在の境地であり、「武道は仏法」に通じ
「禅」と一致することが多い。
「宗矩」の親友であった「沢庵和尚」は「太阿記」のなかで
剣の極意は「何事にもとらわれない平常心」を持つ事とといている。
現在のように、スピード化された社会では、我々はその日のうちに
決着をつけなければ事案も多くあり、夜も眠れない事もあるが
「沢庵和尚」は「イエス・ノー」を決めるな!放っておけと言う。
善し悪し決めるということは一事に心をとられ
万事が見えなくなり、正解が判らなくなる。
このように「柳生新陰流」は心法、すなわち精神面での訓練を通じ
「人格・風格」をつくる事を目標にしている。
「柳生新陰流」で最も熱心に稽古するなが【心】と【気】である。
【心】とは「観察力(いわゆる心眼)」・「不動心(迷わない心)」「平常心」
【気】とは「集中力(精神エネルギー集中)」「制圧力(気で圧倒)」
その心身の動きを制圧する”力”である。
政局が変わる前に手を打つ、業績が悪くなる前に手を打つ、などの
経営の基本は、兵法や武術からも学ぶことが出来る。
時代は大きく変わり平和を尊ぶ現在となったが「柳生新陰流」は
単に「斬りあい」だけではなく時代を超え処世の万般に活かし得る
教えともいえるのであろう。
紘一郎感想
まさしく現在のこの乱世にも通じる面が多く
色々考えさせられる講演録でした。
目先の「些細な事案」や「訳の解らない風」などに迷わされず
これからの日本に「大切」な「教育」や「国家感」を共有でき、
「暮らしは・経済は」一番でなく【国民の命が一番】の
党や人を慌てずじっくり、探してみたい。
奈良市に”柳生の里”という所があり、そこは兵法・兵術に志篤く、
五畿内一の兵法家【柳生宗厳(後の柳生石舟斉宗厳)がいた。
彼こそが、剣聖【柳生十兵衛】の祖父である。
”柳生の里”に行くと「一刀石」という名の「直径役10m・高さ3m」
の石があり、それが石の中央からまっ二つに割れている。
ここで修行していた「柳生石舟斉」が現れた「天狗」を
「一刀のもとに切り捨てた」と思ったところ「刀」はそこに
あった「巨石」をまっ二つに割っていたとの言い伝えがある。
1600年の「関ヶ原の戦い」の7年ほど前ある時、石舟斉は
「徳川家康」に「柳生の剣をぜひ見のたい」と招請された。
剣術が好きな「家康」と立会いをし、木刀を握った「家康」の前に
仕方なく「石舟斉」は木刀を持たずに立ったのである。
「家康」は猛然と打ちかかるが、その瞬間、地面に倒れそうになる。
それは「柳生新陰流」の極意「無刀取り」だったのである。
「家康」は驚き「徳川家の指南役」にと請うが「石舟斉」は固辞し
代わりに息子の「宗矩」を推挙した。
こうして「1594年」から「宗矩」は「家康」に「柳生新陰流」を伝授し
以来「柳生家」は代々「徳川将軍家」の兵法師範役となり
刀術の主流門閥となったのである。
その「柳生新陰流」は時代と共に衰退の一途をたどりつつある。
柳生にかんする「古文書・伝書」はあるが、伝承は口伝や
実際の”型”を伝える方法が主流と成っている。
「古武道」とはそういったものでしょう。
そもそも「柳生新陰流」の根底にあるのは「物事に執着せず」
「心・技一体」の自在の境地であり、「武道は仏法」に通じ
「禅」と一致することが多い。
「宗矩」の親友であった「沢庵和尚」は「太阿記」のなかで
剣の極意は「何事にもとらわれない平常心」を持つ事とといている。
現在のように、スピード化された社会では、我々はその日のうちに
決着をつけなければ事案も多くあり、夜も眠れない事もあるが
「沢庵和尚」は「イエス・ノー」を決めるな!放っておけと言う。
善し悪し決めるということは一事に心をとられ
万事が見えなくなり、正解が判らなくなる。
このように「柳生新陰流」は心法、すなわち精神面での訓練を通じ
「人格・風格」をつくる事を目標にしている。
「柳生新陰流」で最も熱心に稽古するなが【心】と【気】である。
【心】とは「観察力(いわゆる心眼)」・「不動心(迷わない心)」「平常心」
【気】とは「集中力(精神エネルギー集中)」「制圧力(気で圧倒)」
その心身の動きを制圧する”力”である。
政局が変わる前に手を打つ、業績が悪くなる前に手を打つ、などの
経営の基本は、兵法や武術からも学ぶことが出来る。
時代は大きく変わり平和を尊ぶ現在となったが「柳生新陰流」は
単に「斬りあい」だけではなく時代を超え処世の万般に活かし得る
教えともいえるのであろう。
紘一郎感想
まさしく現在のこの乱世にも通じる面が多く
色々考えさせられる講演録でした。
目先の「些細な事案」や「訳の解らない風」などに迷わされず
これからの日本に「大切」な「教育」や「国家感」を共有でき、
「暮らしは・経済は」一番でなく【国民の命が一番】の
党や人を慌てずじっくり、探してみたい。