吉田松陰の”志” 今の日本に必要な男達【第4部】 紘一郎雑記張
松陰らしい律儀な理由で「藩からの通行手形」なしで
東北の視察に行きました。
手形のない旅は脱藩としてみられ、
萩では大騒ぎとなりました。
藩主・毛利敬親は一度の失敗で松陰を処罰したくありませんが、
他の藩士の手前、松陰から長州藩士の籍を取り上げ、
代わりに10年間の諸国遊歴の許可を」与えたのです。
萩よさらば!
松陰は喜んで萩を飛び出し、江戸へと向かいました、
嘉永6年「1853年」5月のことです。
ところが6月になって、とんでもない事件が起きました。
アメリカのペリー提督が黒船4隻を率いて、浦賀に
やってきて、日本に開国を求めたのです。
この時の有名な狂歌があります
泰平の 眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず
しかしペリーが突然現れたのではありません。
幕府はオランダ経由の情報で誰がどんな船で
来るかは1年前から知っていました。
でも、何の対策も考えていませんでした。
それも、訳があって、今までもアメリカを含めて
イギリスなど、いくつかの国が開国を求めて来ましたが
その都度断るとそのまま帰ってくれたのです。
だから、今度もそうしようと思っていたのです。
しかしペリーは帰らないばかりか、江戸湾奥深く入り込み
空砲を打ったり、江戸湾の測量を始めたりしたのです。
つまり幕府が断れない様に脅してきたのでした。
そこで、即答出来ないから翌年来てくれと
ペリーをいったん帰しました。
7ヶ月後、安政元年1月にペリーは7隻の艦隊で
再び日本にやってきました。
幕府はもう断れません。
3月3日ついに「日米和親条約」を締結しました。
開国への道を踏み出したのでした。
しかしこれは貿易の条約ではなく、函館と下田の港を
開き、アメリカが開門したいと言えば開門させ
アメリカの漂流民がいたら日本が保護するといったものでした。
松陰は最初、幕府はこんな屈辱的な条約は断ると思っていたようです。
しかし、あっけなく屈してしまったのを見て幕府に失望しました。
それでも「なんとかしなければ」と思い、
又、この無礼な態度のアメリカはどんな国だろう、
そのうち戦争になる前に見てみたいと思い
密航を企てるのでした。 そして決意しました。
松陰黒船へ・・続きは第5部に投稿