野田政権・最初の潮目がやってきた
紘一郎雑記張
野田佳彦首相(54)が皇居での親任式を経て正式に就任してから
3週間が過ぎた。
米国では新政権に「ハネムーン」として100日間の猶予を与えるが、
日本では「三日坊主」「石の上にも三年」ということわざもあるように
「3」が節目になる。
国連総会で大過なく外交デビューを果たした野田首相だが、
政権は今、潮の変わり目にさしかかっている。
「どじょう」や「雪だるま」といったストレートな話題は
、前政権でささくれた神経を和らげてくれた。
野党や経済団体に対する低姿勢ぶりもよかった。
「鉢呂問題」など閣僚にはミスチョイスはあったが、
決定的なダメージにはつながってはいない。
にもかかわらず、首相の評価に揺らぎがおきているのは、
首相個人の発信力が落ち、期待されたスピード感が
見えなくなっているためだろう。
そして古参の民主党幹部は「評判は今ひとつだった」と渋い。
「手ぶらで訪ねて、玄関口でお見舞いを言って
そのまま帰ったようなものだった」というのだ。
聞けば、首相は三重県紀宝町での囲み取材で激甚災害指定について問われ「被害の状況を把握したうえで指定基準を満たしていれば、
早急に対応したい」といかにも政府答弁、といったコメントをしている。
これが、踏み込んだ発言を期待していたらしい地元関係者には不評だったというのだ。
実際、視察と同じ9日、自民党の二階俊博元経済産業相(衆院和歌山3区)が衆院災害対策特別委員会で平野達男防災担当相にこう要望している。
「きょう、総理大臣がわざわざ現地に行かれるならば、見れば分かるんですよ。これが激甚災害でなければ何を激甚災害というか。
和歌山県も奈良県も三重県も、
偉い人がくるたびにお迎えが大変なんですよ。
それだけのことを地元にさせる以上は、やはり、
将来の復旧に向けて、よし、これでできるんだと皆が思えるようなことをやってもらいたい」
災害から立ち上がるためのエネルギーになることを発信しないなら、
何のために政治家が被災地に入るのかというわけだ。
ちなみに、その二階氏とともに被災地に入った自民党の谷垣禎一総裁は
日程こそ首相の後塵(こうじん)を拝したが、
南紀白浜空港に到着するや出迎えた被災町長の陳情をその場で防衛省に電話で伝え、
快諾を取り付けた。5人が亡くなった和歌山県田辺市伏菟野(ふどの)地区にも入り、土砂崩れ現場や避難所にも立ち寄った。
野党であっても、道路の谷側が崩落していたり山側から
石が転がり続けているような箇所をいくつも通過してやってきた一行に、
被災者がどんな気持ちで迎えたかは想像に難くない。
野田首相は財務相時代に、松下政経塾時代からの親友である
鈴木康友・浜松市長から「財務省言葉を捨てて、
船橋の、自分の言葉を取り戻せ」とハッパをかけられたことがある。
慎重を期してか、官僚の説明そのままの発言が目立ち、
党内外の評価を下げていたことを懸念しての苦言だった。
辛くも党代表選では自身の言葉を取り戻すことができたようだが、
評価が揺らぐたびに浜松から市長に上京してもらうわけにもいくまい。
この潮目をうまく乗り越えるか、操船の自由を失って漂流するのか。
首相の覚悟が問われている。