紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

野村克也楽天監督に惚れ!講演依頼の話・安田紘一郎雑記帳

2009-10-26 10:35:43 | Weblog
【野村監督に惚れ杜の都へ】

このタイトルのコラムをある新聞で(4大紙)読み、
すぐ【嶌村 聡氏」に連絡を入れたのは平成18年のことである。

そのコラムの内容は、
人気球団「阪神タイガース」の球団幹部として、又
スカウトディレクターの要職にあった【嶌村氏】は
人生を賭け、阪神を退職し妻子を西宮市に残し、
【野村監督】を追い「みちのく仙台」に来たのである。

【野村阪神監督】の3年間で【嶌村氏】は初めに、
自身も関学大・野球部で少しは野球を理解している心算であったが、
【野村監督】の【理屈にかなうプレーを実践する】采配に
魅了され、そして【野村監督】の真摯に野球に向き合う姿勢は
それまでの「阪神」には全くなかったもので
すっかり【野村野球】の虜になっていた。


そして何時の日か【野村監督】の胴上げを見ることを
最大の夢としていたのである。

阪神では残念ながら夢はかなわず【野村監督】は
種々の理由で退団しました。

しかし【野村監督】が在籍中に整備した「スカウト網」に感心させられ、
その後の星野監督のリーグ優勝は【野村スカウト網】」が機能し
選手が育った下地だと思っている。

そんな【野村監督】について行くのは、なんの躊躇いもなかったのです。

【嶌村氏】」は関西学院大学卒業後「阪神電鉄入社」
そのご「阪神球団」に出向し99年から
【野村監督付き広報担当】として活躍
阪神の最後の仕事は「編成部ディレクター」であった。

監督付き広報時代は”野村フィーバー”に沸き、
マスコミの対応と監督の身の回りの世話で、
鬼の様な件数の取材を裁いていたと【嶌村氏】は振り返る。

「雲の上のような存在だった【野村監督】に”オーラ”を感じ
細かな仕事を一つ一つこなし「野村監督】の
信頼も勝ち取っていったのである。

【野村監督】に対する気持ちは生涯不変で、
杜の都で【野村監督】の胴上げを見届けるつもりだ。

※コラム記事はそう結んであった。

私(安田紘一郎)の講演依頼にたいして【嶌村氏】は
明るく全く屈託の無い声で【私はそんな柄ではありません】と
丁寧な断りを告げてきました。

私はなおも食い下がり、月日を改めて「講演依頼」をするので
その時は検討して呉れるように頼んでその電話を置いたのでした。

私は【嶌村氏】の行動に「男気」と「侠気」を感じています。

「松尾芭蕉」にかけ奥の細道に追行した「河合曽良」や
「清水の次郎長」に義理をかえした「吉良の仁吉」、
そして幕府「喧嘩両成敗」に反する裁量に命をかけて抗議した
「大石内蔵助」など「武士」の魂のようなものが
【嶌村氏】に重なってみえるのは、
昨今、日本人が大切なものを忘れているからではないでしょうか?

ある意味では「人生を賭ける」様な「人物」に出会えた
【嶌村氏】は大変幸せな人なのでしょう!

【野村監督・退団】

10月25日「クライマックス」で敗退した【野村監督】
最後の試合(?)後、楽天選手に加え、
相手対ームの日本ハムの選手まで入った【胴上げ】は
多くのフアンが感動した場面であった。


これから【野村克也氏】はどうされるのでしょうか

【嶌村氏】は形こそ変わったが、この【野村監督の胴上げ】を
どんな思いで見ていたのでしょう!

【嶌村氏】これからどんな人生を目指していくのか
興味深々です。

【男!嶌村聡氏】に、今一度「講演依頼」をしてみましょう。


【安田紘一郎雑記帳】

毎日新聞・余禄より
「3年間やっみよう。それでダメなら田舎に帰ろう」
と決めて入ったプロの世界。

1954年南海球団の入団テストに合格した「18歳の野村克也少年」でした。

1年目と2年目は下積みのままで、解雇通告をうけた。

「素質があるかないかはわかる、もう野村君は無理だ」と
「クビ」を宣告されたが「給料はいらないから」と
もう1年と涙ながらの訴えがきき「1年延長」となった。

【野村克也氏】の著書「野村再生工場」の1節である。

3年目からの【野村克也】の活躍は述べる
必要もないほど偉大なものである

あの時【野村氏】が辞めて丹後に帰郷していたら、
日本初の「三冠王誕生」は20年遅れ、プロ野球界に
「ID野球」が席巻することがなかったであろう。

ボロボロだった「楽天イーグルス」は4年で
チームは力をつけ、今年は2位につけ惜しくも
日本シリーズの夢は消えたたが
強豪チームに成長させた事実は消えない。」

※人の運命は計り知れないものですね。





金融危機対応講演より 安田紘一郎雑記帳

2009-10-19 05:09:36 | Weblog
世界的経済危機について

講師は【ジェリー・ディコートニー・オデル氏】
【イギリス】の世界的金融会社
サンドール・インベストメント社代表





【金融危機原因・実状】

今日お話する事はここ数年におこった世界危機と
今後の資産運用についてお話いたします。

2007年に始まり今も続いている世界的経済危機は規模が
あまりにも大きい為適格に表現する言葉もなく、
過去の経済危機との比較もありません。

この危機はサブプライム問題が金融破綻の
原因だったと言うつもりはありません。

しかし発生した事象がもたらす影響といくつかの
重要な要素の組み合わせについては勘案すべきです。

欧米と日本では融資手順が大幅に異なります。
例えばローン審査を行う際に日本では借金のない人は
〝グットリスク〝ですが、欧米では反対の判断をします。

借金のない人より、借金がある人は「ベターリスク」と見なされるのです。
米国では「クレジットカード」の負債を全額返済する人は
「良い債務者」ではないのです。

2008年世界の経済成長は1946年以来初のマイナスに転じました。

世界有数の金融機関のいくつかは政府介入を受けていたり
アイデンティティーを失ったりしています。

欧米は20年来の高失業率を記録し多くの住宅・商業用不動産市場が
壊滅し、世界中の外国為替相場が大変動を起こしています。

驚愕する事実は、驚くほどの資金が投入されているのにも
かかわらず効果が殆どないことです。

先進国の殆どが2008年から2009年にかけて深刻な不況に陥りました。

それは銀行が基本的なリスク管理の原則を疎かにし、
監督機関や政府が注意を怠り問題を理解せず低金利の
大きな流れが無謀かつ過剰融資したことが原因です。

しかし現在は世界の経済活動は急落に反発しつつあると
議論をしても良いでしょう。

中には経済復興は、事態は最悪と言って、2000年代後半の
不況と世界大恐慌を比較する人もありますが、
2つには大きな違いがあります。

第1に世界大恐慌と今回の不況との間の80年間、経済哲学や政策決定、
各種ツールは、大幅な進化を遂げています。

第2に世界の証券市場は回復の途にあり、
1932年や1982年ほどに暴落していません。

第3に2009年3月現在におけるインフレ調整後の米国住宅価格は
1890年来の最高価格を維持しています。

第4に1930年代の不況は3年半以上も続き、
貨幣供給が25%も下落したが、主だった国の中央銀行が昨年おこなった
金融引き締めは自国の基準に合わせた”緩やかな”引き締めでした。

最後に現在の主要経済国における失業率および2008~9年の
上昇率は第2次大戦以降の各不況期と同程度で
世界恐慌時と比較すると圧倒的に軽微です。

もちろん”危機脱出”には至っていませんが
回復しつつある裏づけはいくつかあります。

たとえば銅や大豆、石油、コーヒー、砂糖など
多くの商品の物価が上昇しています。

石油価格は5月には5760円を超え、最高値を記録した2008年の
7月以降始めて「OPEC」が石油産出量を増やしました。

証券市場は新興市場が牽引役となり著しく改善しています。
しかし市場はまだまだ不安定なので深入りしてはいけません。

未公開株式は特権を有している,僅かな人間だけです。

ファミリーオフイスと年基金ー門戸の開かれた極めて利潤の高い
投資でしたが現在は多くの人にとって悪質な罠と化しました。

【資産運用】
金融低迷の渦中にある現在において、財産の保護と維持のカギは健全な
ポートフォリオにあります。

適切なポートフォリオ作成には、多様化、資産配分、相関関係、
リスク調整後業績評価指標、絶対的パフォーマンスvs相対的パフォーマンス、
長期的、短期的収益率などの投資概念を持つことが肝要です。


多様化ー市場の沈滞から投資を守る為に
多様化は長期的に見たときに効果がありますが、
ここ数ヶ月、その効果は限定的でした。
銀行預金以外はあらゆる種類の資産が影響を受けました。

しかし長期的には銀行預金はインフレに勝てませんし
退職後の備えにはならない可能性があります。

むしろ投資を続け、現在の資産をさまざまな種類のものに
分散させて行くべきです。

資産配分は市況の変化に合わせて変更できます。

今後の資産運用で大切な事は、そして資産多様化を図る最善の方法は、
公認ファイナンシャルアドバイザーや
金融のプロアドバイザーに相談することです。

今はそんな時代の中にあることを認識すべきでしょう!

次回にはいま少し具体的にお話させていただくことにします。

オデル氏講演会より


安田紘一郎雑記帳

世界経済も日本経済も、まだ危機を脱していません。
日本では「デフレ傾向」が強く過去の「デフレ」不況時より
深刻な気がします。

米国の「過剰消費構造」の破綻からの影響は、
回復にはまだまだ時間がかかるのでしょう。









ちゅっとの気付きで人は変わる!安田紘一郎雑記帳

2009-10-12 06:27:25 | Weblog
川西 修氏講演会 [幸南食糧株式会社・代表取締役」

【ちょっとの気付きで人は変わる!】

川西です。歴史ある会の皆様の前でお話させて戴く事に緊張しております。
私が会社を興してから30年になりますが「追い風」の時もありましたが
「向かい風」の時もあり、又「無風」の時もありました。




振り返ってみますと「向かい風」の時の方が多かったように思います。

そのお蔭で自分なりに色々なことを学ばせて戴きましたが、特に
「ちょつとした気付き」で人は大きく変わる事を学びました。

私は香川県の四国山脈に近い田舎で3人兄弟の次男坊として育ちましたが、
高校を出ると働いて家計を助けるために大阪へ就職して参りました。

頑張って、お金を稼いで少しでも「親の手助け」になればの一心でしだ。

大阪に出ても「住むところ」も「寝るところも」ありませんので、
住み込みで働き、少し給料の貰える、お米屋さんの問屋に就職しました。

仕事は60キロ・100キロの重たい米俵を車に積み込んだり、降ろしたりする
作業で、その会社にはリフトのような機材はなく、全て人の力による重労働でした。

大変な仕事でしたので殆どの同僚が仕事が続かず、次から次と退社して行きました。

真夏の暑い日に60キロ・100キロの重たい荷物を何百・何千と運ぶ仕事は過酷で
しんどいものでした。

でも頑張って働けたのは私には「夢」と「目標」があったからです。

【目標は人生をデザインする道具である】

「目標」を達成する為には「諦めない」「我慢をする」の
二つの気持ちが大切がだと思います。

辞めていった多くの同僚は「しんどい・きつい・給料が少ない」などの
目先の事ばかりを考え、将来の「夢や計画」何がしたいのか、
全く思ってなく、その場だけの生活を送っていたようでした。

【苦労という言葉は”夢”の実現が遠くなる】

よく皆様から「苦労されたんですね」と言われますが、
その時私は「いえ少しだけ努力しました」と答えています。
「努力」は「人」を裏切りません!


そして、6年後その大恩ある米屋さんを退職し、念願の自分の店
を持つことになりました。

開業したのは、大阪南部の「松原市」で【7坪】の店からのスタートでした。
自分の店を持てたのが「嬉しくて嬉しくて」私にとっては
夜も寝付かれないほど一大事でした。

その時代「米」は国の規制に関わる事業で、国の許可が必要でした。

当時「松原市」には「コンビニ」がなくお客様は「米」は「米屋」で
買うしか方法が有りませんでした。

「松原市」人口137000人の中に「米屋」さんが「43軒」あり
私が「44軒」目の開店でした。

開店は致しましたが、全く商売にならず大苦戦のスタートとなりました。

販売にお宅にお伺いしても「お米は先祖来々、買うお店がきまっているのよ」と
断られ、お客様の開拓がどうにもならず、1ケ月・2ケ月・半年過ぎても
全く売れないで、家賃さえ支払い出来ない日が続きました。

そんな悩みが続くなかで、ハッとある事に気がつきました。

【最大のライバルは時代】

「43軒」の米屋さんが「同じ方向」を向いて営業をしていたのです。
「配達は5時まで」「配達は建物の1階まで」「日曜祭日は休み」が
全てのお米屋さん43軒のの顧客サービスでした。

そこで私は「配達は何日でも・何時でも・お宅の米びつまで」の
サービスを始めました。

追い風も吹きました。「高度成長時代」松原市には、どんどんと新しい
「マンション」や「ハイツ」が建ち、生活習慣にも変化があり、
女性の社会進出で奥様が仕事を持ち「昼間は留守」の家庭も、
増えてまいりました。

昼間働いて帰宅する奥様には「年中無休で夜間でも配達します」は
便利と喜んで戴き、「米びつまでのサービス」は
4・5階などでエレベーターのない住宅の方に重宝され
幼い子達を持つ若いママには感謝されました。

「そこまでやっくれるのか!」のサービスが感動を呼ぶと思います。

サービス業は「今日一日、たった一人のお客様に」「こころから有難う」と
感謝を持って接するよう心がけると、そのお客様がお客様を呼び、
結果的にお客様が増えるということにつながります。

今の時代は知れば知るほど、乗り切るのは大変で、難しいと感じている方は
多いと思いますが、しかし世の中は常に変化するものであり、
時代が変わったら、当然自分も変わるべきです。

でも自分自身を変えるのは至難ですが、変わる必要に迫られている事に
「気付く」ことが大切なのです。

そんな環境の中での私の「サービス」は、多くのお客様に「ご注文」戴き、
その上、感謝までされて、業績は飛躍的に伸びて参りました。

現在の当社の数百億の売り上げの原点は「この時」にあると今でも思っています。
「小さな一流企業」これが当社の「目標」です。

1)自分の仕事 2)相手の仕事 3)誰の仕事でもない仕事 をどうするのか!
 今、当社の」「1・1・2運動」を展開中の運動です。


安田紘一郎雑記帳

「気付き」とは何か?
他とは違う「気付き」を教えて戴きました。

【川西氏】はこのたび【松原市商工会議所・会頭】に
就任され益々のご活躍が期待されております。

川西様より戴いた「講演」の中で、本日はお客様について投稿致しましたが
機を見て次回は教育と経営についてのお話の中より投稿いたします。







イチローはなぜ打てるのか!志岐幸子氏講演より、安田紘一郎雑記帳

2009-10-05 10:41:26 | Weblog
※9年連続200本安打の偉業を成し遂げた【イチロー選手】の
記録をみて、今年3月の講演録より【志岐幸子氏】の
【イチローはなぜ打てるのか】を投稿致します。

【志岐幸子氏】は早稲田大学卒で大学時代には
「ミス・ユニバース日本代表」に選出され、それをきっかけに、
スポーツ番組等の「キャスター・コメンテイター」として
活躍され、併せて「感性研究」に従事されている。

<
志岐幸子です
私は早稲田大学の「感性領域綜合研究所」で感性の研究と共に
スポーツ番組に携わる仕事をしてきました。

スポーツ界では結果が数字で示される世界であるが、
多くの選手が「感性」の重要性を指摘している。

「イチロー選手」は「感性無くして野球は成り立たない」と
言っています。

「イチロー選手」はボールを見極める感覚を、他の選手がいう
「選球眼」ではなく、「選球体」という独特の表現をする。

これはボールを目で見るのではなく、身体全体で感じるからだという。
雰囲気でボールを感じているこの感覚は、非常に研ぎ澄まされた
「五感」であり「感性」の一部だと考えます。

「イチロー選手」は、プロ野球オリックス入団後、
コーチより「バッティングフォーム」を変える様指導されたが
最終的に自分が信じるフォームに戻したのである。

そしてその後の活躍は皆様もご承知の通りであります。

「イチローの振り子打法」はプロ野球の世界では【非常識】の
打法であったが「イチロー選手」は【常識はやぶってなんぼ】の
思いで、あえて「非常識」に挑戦することで、新しいものを生み出す
独創性が不可欠でまさに【感性】といえるのです。

一流選手は技術・体力・精神力の面では誰でも大差なく、
その中で抜きん出て「超一流」になるには、常識にとらわれない
「感性」がものをいい「遊び心」も、時には大切です。

「イチロー選手」の試合前の背面キャッチは「遊び心」の延長でしょう。

私が仕事をしていた「メディア」では視聴率が重視される。
そこで視聴者の五感にスピーディに訴える手法が採用されている。

その状況の中で「自分自身」が心の表面しか
使っていない事に違和感を感じていました。

もっと深いものは追求出来ないかを考え、悩み、その「深いもの」を
探っていくと、「感性」に辿り着きました。

「感性」の言葉の由来は紀元前の「アリストテレス」が使用したの
が始まりで「共感性」や「霊感」のほか「美意識・審美的感官」
などの意味をもち、今までの「哲学的」な意味合いから進んで
「芸術」や「教育」「工学」など広い分野で注目されています。

たとえば化粧品会社が「化粧品」の「成分」や「色」「香り」に
「購買者の感性」を重視した物創りをしていたが、それに加え、
化粧品の容器を開ける音にまで拘り「快適性」に目を向けた
「商品開発」を行うのはビジネス界の「感性」の領域でしょう。

「感性」は「印象を受ける能力」という意味も持っている。
仕事で始めて取り組む人の印象に対して、理屈抜きで
「この人を信用してよいか」の判断をする。

肩書きや経験、周囲の評判などの先入観に囚われず感じる
「第1印象」も「感性」といえる。

「危機管理」には「ミスや事故」に対する敏感さが
求められていますがこれは、何か起こりそうな前に察知する、
いわゆる「第6感」と同種のものです。

理屈抜きで「おかしい」と感じる「直感」は我々を
たびたび救ってくれますが、それが説明がつかなく揶揄されることも
ありますが、重要なことなのです。

「野村監督・楽天」や「森監督・元西武」の「データー野球」に対して
対極にあった「長嶋・元巨人監督」の野球は「感性」そのもので
「感ピューター」といわれ「面白く」多くのフアンを魅了しました。

「長嶋野球」は単なる「勘」ではなく理論的にあらゆる準備を
整えた上で自然に出てくる「勘」、すなわち「感性」と思うのです。

「イチロー選手」の活躍に同じ雰囲気を感じています。


各マスメディアも長嶋野球を絶賛し今尚、数々の場面が思い出として
語り継がれているのは【長嶋氏の感性】そのものであると思います。

【志岐幸子氏・講演録より】


安田紘一郎雑記帳

人の持つ「感性」の素晴らしさをお聴きしました。
小生も「長嶋監督・イチロー選手」に共通点を感じます。

ただ、平成になってからの「日本シリーズ優勝」の「日本一監督」には
感性派といわれる監督は少なく、野村・森監督2人で
「20回」の中で「7回」も「日本一」になっている事実は
いかに考えれば良いのでしょう。

「プロ野球」の監督は「感性」よりも「データー」の方が
有効・大切なのでしょうか。
 
たまたまでしょうか?偶然でしょうか? 難しいですね!

野村監督の著書の一説を思い出しました。
【勘は鈍るが、努力はウソつかない】

もうひとつ発見!
平成の日本シリーズ「優勝20回」のなかで「外人監督」を省いて
「大学卒業」の「優勝監督」は一人しかなく、
残りの「16回」は全て「高校卒監督」が優勝?!?!
これは何なのでしょう・・・

今年のプロ野球はこれからのクライマックスを経て
「日本シリーズ・日本一」に向かって行きます。
日本一になる監督は【大卒か高卒】か興味深々ですね。
「10月5日投稿」