紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

龍馬死後のお龍さん 「下関・長崎・土佐」 紘一郎雑記張

2010-07-30 04:58:24 | Weblog
「龍馬」死後のお龍さん 紘一郎雑記張

【下関・長崎・土佐】のお龍さん】

お龍さんは「慶応3年11月15日」「龍馬」が「京都近江屋」で
刺客の為に最期を遂げた夜に「龍馬」が全身赤に染まり
血刀をさげて、しょんぼりと「お龍」の枕元に立つている
夢をみて「龍馬」に「なにかあった」と感じていたそうです

それから8日目に「三吉慎蔵」から「龍馬」の「死」を
「聞かされました。「残念です」三吉はそう言ったそうです。

もとより「覚悟」が出来ていた「お龍さん」は騒がず
9日目に同家の奥座敷で法事をしました。

そして「お龍さん」は知り合いの髪結いを呼んで
黒髪をすっかり洗い清めて、仏の前にすわり
しばらく合掌していましたが、大鋏を手にして
ふさふさとして水も滴るような髪を根元から
ふっつり切り取って白紙につつみ、仏前に供え
ワァッと泣き伏せたそうです。
一座は水を打ったように静まりかえり首をうなだれていました。

そこで三吉は、このままこの家にいるのも気の毒と思い
「お龍」と「妹の君江」を自分の家に引き取りました。

このときは「あけぼの」という茶屋で「中島信行」と
「伊藤博文(後の初代総理大臣)」と「三吉」の三人で
橙(みかん)の実を短銃で狙撃したりして遊び
「お龍さん」の気持を慰めたようです。

その後「お龍さん」は下関奥小路の「福田屋仙助」という
質屋の2階に部屋を借りていましたが「長崎の新町」に
海援隊の屋敷もあり、「龍馬」の仲間もいるので
「長崎」から「お龍さん」を迎えに来ました

「お龍さん」は長崎に行くのを嫌がり「京都」に
行きたいと言いましたが
「一度長崎に行ってから京都へ行けばよい」とくどかれ
長崎に向けて出航しました。

長崎では妹の君江の祝言をしたりした後
明治元年5月20日に「夕顔丸」という舟に
乗り込み、大阪へ着き、土佐堀の「薩摩屋おりせ」に
宿泊しました。

そうしたら「土佐」の人が来て「土佐」に帰れ、と
言うし、色々ゴタゴタしましたが「龍馬」の墓参だけして
「土佐」に帰ることにしたのです。

お龍さんは2人の下僕を従えて「大阪」まで行き
7月13日、舟で土佐に向けて出航しました。

ところが、この舟が「土佐の貞山沖」で難破し
九死の中ようやく「浦戸」え着きあとは徒歩で
高知の坂本家に着いたそうです。

坂本家は一番上が兄さんで、次が乙女さん、女・女と
続き「龍馬」は末っ子でした。

「龍馬」は「お龍さん」に「乙女姉さん」に世話になったと
威張っていたそうです。

土佐で少し住んでいましたが「お龍さん」は義兄の嫁と
仲が悪いのです。 義兄の家はあまり「豊か」ではなく
「龍馬」に下る「褒賞金」をあてにしていたのです

すでに「坂本龍馬」は死んでおり、海援隊は瓦解し
私を養うものは「兄夫婦」だけですし、お金は「坂本お龍」に
下るのですが「お龍」が離縁して「坂本家」を出てゆけば
「お金」は家に残るので、お龍が出て行くように
仕向けていたのでした。

「お龍さん」は
「なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、
私は金なんぞいらない、そんな水臭い兄の家に誰がいるものか!
追い出されないうちに、私の方から追ん出てやる!」
という了見で明治3年に家を飛び出して高知、和食村の
「千屋富之助(龍馬知人)」宅に一時逗留したのです。

ここでの「お龍さん」は千屋家から、2・3町離れた「山」に
のぼり、嬉々として走り回り「龍馬」が生前肌身離さず
持っていた「6連発」の「短銃」で「小鳥」を撃っては
「龍馬」を偲んでいたとのことです。
「龍馬」の事が、一時も頭から離れなかったのでしょう。

そしてその後、京都に行き「東山」へ家をかりたのです。

「一坂太郎氏著書・【わが夫 坂本龍馬】参照

【お龍さんのその後】の続き「京都から江戸へ」は
次回投稿いたします。




   
























龍馬死す!第6回 赤間博章氏講演会

2010-07-28 04:59:20 | Weblog
【第6部・龍馬死す!】

龍馬はなぜ・京都に赤尾氏講演録 紘一郎雑記張

 講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

  続き・・赤間氏

1867年11月15日
その時の「近江屋」の状況を少し想像してみますと
「みね吉」が「軍鶏」を買いにでた後、そして「藤吉」がいて
奥の部屋の右側に「龍馬」がいて、左側に「中岡慎太郎」がいて
右側に「床の間」があり、そこに「刀」を置いていました

「中岡慎太郎」は左側にいましたが、その前に「屏風」があり
「刀」はその後に置いていました。

「龍馬・慎太郎」の二人とも「刀」を持っていませんでした

「十津川藩士」と名乗る武士達が尋ねてきました
「藤吉」は「十津川藩士」という事で安心して
「龍馬」に伝えました。

何人かの「十津川藩士」の知り合いがいたのです。
そして「二階」に案内する「藤吉」は階段で斬られます。

その男たちは、そのまま「奥の部屋」にいきなり入り
「龍馬」を正面から、頭に斬りつけています

「龍馬」は「剣の達人」といわれていましたが
さすがに「名乗らず」いきなり襲われたので
抵抗出来なかったのでしょう

「龍馬」は後に置いてある「刀」を取りに振り向きましたが
その「背後」から「袈裟懸け」に切りつけられました

それども「刀」を手にして「龍馬」は鞘を振り回し
抵抗しました、その刀の「鞘」に傷跡と血痕が残っていて
「明治の初め」までありました。写真があります。

別の武士達が「中岡慎太郎」を襲いますが「中岡慎太郎」は
気を失ったのですが、あまりの痛さに「気が戻った」と
証言しています。 中岡は「2日」生き延びたからです

中岡が気が付いたとき「龍馬」はまだ生きていたのです
「大丈夫か」と「龍馬」にきいたら、
「頭をやられたのでもうだめだ」と
「龍馬」は言いながら「息絶えた」のです。

中岡はこの「2日間」で多くの証言を残しました
刺客は「見回り組み」の「佐々木只三郎」ら6~7人と
事実もはっきり判ったのです。

佐々木只三郎は、ひと月後の「鳥羽伏見の戦い」で「負傷」し
「紀伊三井寺」に逃れ「36歳」で亡くなりました。

「龍馬暗殺」の見回り組み中の一人「今井信郎」だけが、
生き残り、最後に「函館戦争」で逮捕され「龍馬」殺害も
認め「明治」になって裁判で有罪となりましたが
「恩赦」があり「禁固刑」で終わっています。
「供述調書」も残っています。

1867年に、総勢300人の壮士をつれて、京都に来た!と
噂された「龍馬」は、幕府方からみれば、世の中を乱す
「不平・不満」な「不穏分子」の巨頭だったのでしょう。

「龍馬」と「慎太郎」そして「藤吉」の遺骸は、17日の夜、
同志の手により、密かに「東山霊山」に埋葬されました
神式で葬式が行われました

その日、お龍は「下関」「伊藤邸」にいました
「龍馬」が死んだ事を「お龍」が知ったのは
「12月2日」でした。龍馬の死後、15日後でした

長崎の海援隊「浦田運太郎」から、それを聞き
驚いた「伊藤勘太夫」が、長州藩士「三吉慎蔵」らに
知らせた、との手紙が残っております。
「奥様へは何とも、その模様は申し上げず、さし控えており申し候」

「お龍さん」の「龍馬の死」をどう伝えるか。
長州藩が考えている様子がわかります。

12月3日に「お龍さん」に伝えますが「お龍だん」は
「龍馬が死んだ夢」をみて知っていたそうです。

ご清聴、有難う御座いました。

次回より「龍馬」に関連して、龍馬死後の
「妻・お龍さん」について3回に分けて投稿いたします。


安田紘一郎雑記帳

「龍馬」が京都河原町の「近江屋」で殺害されたのが
1867年(慶応3年)11月15日であり、翌月には「王政復古」の
大号令があり、翌年の1869年には「明治」と改元され
まさに「新時代」が始まったのであるが「龍馬」は
その「どちらも」知ることなく旅立ったのである。

「11月15日」又、愛妻「お龍さん」も下関の新居で
「龍馬」の帰りを待っていたのです。

「龍馬」をよくみて「現代風」にいえば

●本籍地は高知県高知市 ●現住所は山口県下関市
●そして「京都出張中」に死亡

となるのでしょうか。























暗殺前夜!龍馬はなぜ京都にいたのか 赤尾氏講演会

2010-07-26 04:55:13 | Weblog
暗殺前夜!龍馬はなぜ・京都に赤尾氏講演録

 講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

第5部   続き・・赤間氏

10月14日の大政奉還の後の「10月16日」に「岩倉具視」が
「大久保利通」にあてた手紙によると
「新政府・薩摩・長州・土佐」などの要人を「幕府側」が
襲う計画があると警告します。

「西郷・大久保」ら新政府の関係者は「京都」を離れますが
なぜか「龍馬」は「新政府」の為に走り回っており「情報」は
当然、知っていましたが「京都」を離れておりません。

14日に決まった「大政奉還」ですが、完全に「新政府」が
機能するまでは「旧幕府体制」が「治安」にあたることは
「違法」でもなんでもなりません

「会津藩京都守護職」が、その間は「その職」につき、
その配下にある「京都見回り組」がその任にあたる事は
当たり前のことなんです。

後世、多くの識者や歴史家の中で「龍馬暗殺秘話」や
「龍馬暗殺の事実」なる話があり多くあり
「文献」にもなり「マスコミ」にも取り上げられています。

しかし「龍馬暗殺」の「犯人」は「見回り組み」以外は
考えられず、逆にいえば「見回り組み」からすれば
「当然」の仕事でありましてや、「仲間」を二人「ピストル」で
撃ち殺した「憎き犯人」でもありました。

見回り組み「佐々木只三郎」など「7人」が「龍馬捕縛」に
「近江屋」に向かうわけですが、絶えず隙を窺がっていたのです。

「近江屋」は「土佐屋敷」の近くにありました。

10月14日の「龍馬」の手紙によりますと「土佐屋敷」にいる
「持月清衛兵」宛に「龍馬」もこの頃は「身の危険」を感じており
「土佐屋敷」に入れるように依頼しております

「龍馬」は「土佐藩」で「2度」脱藩などの「罪」があり
手続きに手間取り、すぐ「土佐屋敷」には入れません。

「薩摩」からは「薩摩屋敷」に誘われていましたが
「土佐藩」に復帰したので「薩摩屋敷」に匿って貰う事を
「龍馬」は嫌っていた、そんな時でした

そして「土佐藩」は安全な住家で「酢屋」と「近江屋」を
紹介しまして、より土佐藩邸に近い「近江屋」に入りました

今の河原町と違い「細い通り」の河原町を隔てた場所でした

ですから「10月13日」の「大政奉還」のニュースを「龍馬」は
「近江屋」で聞いたのです。

それから「龍馬」は福井に行っています。
詳細は判りませんが、この時期ですから「大政奉還」後の
「政治体制」について「福井の春獄公」に意見具申したのでしょう

そして「11月の初め」に京都に帰ってきました。

「近江屋」は「龍馬」を預かっていましたが、
「龍馬」を守る対策を考え、襲われたら「安全」に逃げるように
裏の墓場に通じる、奥の土蔵に梯子も用意していました

「14日」から「龍馬」は福井で「風邪」をひいて「京都」に
帰ってきましたので「寒くて」「便所」も「暖」もない
「土蔵」から「表」の部屋に移動してきました。

その日「中岡慎太郎」と共に「軍鶏」で食べるか、と思い
「みね吉」という「身の回りの世話かかり」に買いに行かせます。

当時は「冷蔵庫」がありませんので、店で待って
「軍鶏」を潰して「竹の皮」に包んで、もって帰りました。

「みね吉」が「近江屋」に帰りますと「刀」を手にした
「武士」が立っていました

「みね吉」が「おそる、おそる」二階に上がってみますと
2階の入り口に「とう吉」という「龍馬」の用心棒が
倒れており、その向こうに「「龍馬」が壁に寄りかかって倒れていて
「中岡慎太郎」は物干しで血まみれになって倒れていました

「中岡慎太郎」はそれから「2日間」生きていました
その時の「近江屋」の状況・・・続く


安田紘一郎雑記帳

「龍馬」と「中岡」が殺害されたと聞き「12月7日夜」
油小路花屋街の天満屋にいた「紀州藩士・三浦休太郎」と
その「護衛」をしていた「新撰組」を襲撃しました。

三浦休太郎は負傷しましたが、辛うじて「虎口」を脱しました

その「三浦休太郎」は」維新後「貴族議員」となり
東京知事も務め「明治43年」86歳でなくなりました

この時代、色々な人が様々な立場で「国家建設」に
携わっていたかが良くわかります。




















4部 龍馬と薩長同盟・赤尾氏講演録 

2010-07-23 05:00:32 | Weblog
龍馬はなぜ・京都に赤尾氏講演録 紘一郎雑記張

 講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

続き・・赤間氏

「1866年1月21日」に【薩長同盟】が締結します。

「龍馬」の「薩長同盟」への関与を、疑う識者もありますが
「桂小五郎」が「龍馬」に「この同盟」の内容を確認して
「署名」を依頼している手紙がありますので、「薩長同盟」への
「龍馬の関与」は「間違いない事実」と思います。

翌日(1866年1月22日)の手紙が現存しています。

そして「1月23日」に「龍馬」は「お龍さん」の待つ
「伏見・寺田屋」に行きます。

そこで、その日の晩に「伏見奉行所」に襲われ
囲まれて「龍馬」は「ピストル」で応戦します

後に「龍馬」を、語るとき「龍馬は人を斬ってない」と
言われていますが「刀」は使っていませんが
「ピストル」で「二人」殺しています。

「龍馬」は「武士」ですから、決して
「平和主義者」ではなかったのです。

辛うじて「寺田屋」を脱出した「龍馬」は「ひと月」程
「薩摩藩邸」に匿われたあと「2月」に薩摩に
「船」で向かいます

「手」を斬られて「出血多量」で危ない面もあった様ですが
「お龍さん」が「龍馬」に付きっ切りでいたようです

薩摩の「西郷たち」の世話で「霧島」に行きます
これが「日本で最初の新婚旅行」といわれ
そこで「龍馬・お龍の結婚式」をあげた、と
された説もありますが「本当」ではありません

「新婚旅行」は「元禄時代」には存在しており
「結婚式」もすでに「京都」で挙げておりました。

しかし「霧島」はこの「龍馬新婚旅行」の「物語り」で
大変な「賑わい」で「ほくほく」のようです
「龍馬」の経済効果でしょう!

「龍馬」は「3ケ月」ほど「治療」で「薩摩」に
滞在した後「長崎・下関」と移動して、
「お龍さん」を下関において、国内を回ります

「龍馬」と「お龍さん」は「3年」の付き合いですが
二人が実際に「一緒」に生活したのは「1866年の1月~6月」の
「この半年」の間だけでした。
この期間以外は大半が「別居状態」でした

この間に「龍馬」は「亀山社中」を作りますが、
これが「日本」で初の「株式会社」といわれています。

「龍馬」は「いろは丸」を沈めたりして、かなり損もしています。

「1867年・6月」に「龍馬」は京都に入ります
「6月24日」に姉にあてた手紙が残っており
「京都・木屋町」の「土佐出入り業者・酢屋」に
世話になっていると書いていますので、確かな事でしょう。

龍馬はその当時「土佐海援隊」の責任者に任命されています。
「海援隊」は「龍馬」が作ったのではなく「土佐藩」が組織し
「龍馬」を隊長にした、というのが本当ですね

その「海援隊」に「龍馬」は「亀山社中」の人たちを、
そのまま、移したのです

「龍馬」は日本のために、自分の命などいつでも投げ出すと
いって権力欲のない人物として、歴史に出てきますが
そんな事はありません。

「10月14日」の「大政奉還」のあとの「新政府」の
「龍馬」が作成した「人事案」に「坂本龍馬」の
名前をいれています。
新しい「新政府の組織」に入る気は満々だった事がわかります
どうも「海軍大臣」みたいな職に就きたかった様ですね

10月14日の「大政奉還」のあと、「幕府体制維持派」が
「新政府」側を、襲う計画が流れ、「西郷・大久保」など
おもな人たちは京都を離れます、

その時「龍馬」は京都にいたのです
続く・・・

安田紘一郎雑記帳

仲間と変装して「花街」に繰り出し、「奉行所」や
「新撰組」から追い回され、又、射撃の腕を競ったり
薩摩霧島では「天の逆鉾」を引き抜いたりする「龍馬」は
この当時の「価値観」の中で、たえず「次の時代」を
信じて、そして夢見て行動する「男」と、それに
「連れ添った・お龍」の二人の思いと可能性にかけるロマンは
現代社会の私にも新鮮に写るのはなぜでしょう



























3部・龍馬活躍す   赤尾氏講演録 紘一郎雑記張

2010-07-21 05:14:29 | Weblog
第3部
【龍馬活躍す!!】講演会より

   講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

京都に入った「龍馬」は「福井藩の松平春獄」と遭いますが
このところが良く理解できません

「ただの脱藩浪人」が、なぜ「春獄」に遭えたのか、
「龍馬」が行方不明の文久2年に秘密があるのでしょうが
何も判っておりません

その上「春獄」は「龍馬」を気に入るのですね
そして、勝海舟」を紹介し「龍馬」は「勝海舟」に
会いに行きます

そこで「勝海舟」の話に引き込まれて「勝海舟」の
門下生となるのです。

文久3年の2月25日に「龍馬」は「脱藩」の罪が許されますが
恐らく「勝海舟」から「土佐藩」への働きかけがあったのでしょう

京都の蛸薬師に「土佐藩邸」が有りましたが「龍馬」は
「脱藩」の「罪」を許される代わりに「謹慎」の
処分を受けています。

それからの「龍馬」は勝海舟の「海軍総練場」に
関わることになったといわれますが、資料はありません

「龍馬」と「お龍さん」との出会いをお話ししますと
七条新地の旅館で「お龍さん」が働いているところに
「龍馬」が「岡田以蔵」を探しに来ましたが、
その時が始めての出会いでその晩、宿泊した「龍馬」が夜中に
「お龍さん」が売られて行く「妹」を助けに行くのに
「龍馬」が「手伝い」をしたと
「大河ドラマ」で流していましたが、本当は違いますね。

「龍馬」と初めて会ったのは「お龍のお母さん」で
「扇岩」という旅館で、住み込みで働いていました。

その「お母さん」のところに、遊びにいった「お龍さん」と
初めて「龍馬」が遭ったのが真相です。

「元治元年」は京都は「大変不安定」で危ない街でした
その年の6月2日に「勝海舟」と共に「龍馬」は江戸に行きます。

6月5日に「池田屋事件」がありました。
龍馬をこの事件を江戸で聞いています

この6月5日は「池田屋」だけが新撰組に
襲われたわけでは有りません。

この日は「京都市中」に「一斉手入れ探索」が行われたのでして
「池田屋」だけが「狙い撃ち」されたのでありません

たまたま「新撰組」の「探索」とぶつかったのです。

「龍馬」たちの「土佐」の隠れ家も「探索」されましたが
その時、誰もいないので助かりました。

このような「ニュース」を龍馬は「江戸で」聞いていました。
「龍馬」が「勝海舟」と共に、舟で「神戸」に
戻ってきたのが「7月末」でした

そして「8月1日」に「京都」にきた「龍馬」は「お龍」をつれて
「東山」の「青蓮院」に行きその中の「金蔵寺」の
「住職」の世話で、「結婚式」を挙げました。

これは「お龍さん」の証言に書かれていますので
間違いありません

「龍馬」は「勝海舟」の門下生で、日本中を歩き回りますので
「お龍」を「寺田屋」に預けます。

「寺田屋」は「伏見」にありますが、当時は「京都」と
「伏見」は、全く異なる街であり、京都に入る「最後の宿場町」
で、当時は西国から京都に来る場合、淀川から舟で
「伏見」に着き、京都に向かったのです。

「龍馬」は「京都」が情勢が悪いので「伏見」に預けたのですね
「寺田屋」は「薩摩藩」の使う旅館でした。

「龍馬」と「お龍さん」が結婚していたのは「3年」ほどですね
「1864年8月1日」から「1867年11月15日」の間です。

「お龍さん」は「龍馬」の死後「西村松衛兵」という人と
「再婚」し「西村つる」と名前を変え「66歳」まで
連れ添うわけですが「30年」です

「龍馬と3年」「再婚して30年」ですが、「お龍さん」は
横須賀で亡くなりますが、お墓は「坂本龍馬の妻・龍」と
なっております。「西村松衛兵」が気の毒ですね。

「龍馬」に話を戻しましょう
「龍馬」が京都に現れたのが慶応2年1月(1866年)の
「薩長同盟」が締結されますが「龍馬」は「薩摩」の
エージェントとして活躍したとされていますが
「龍馬」の活躍は不明です。

続き第4回に投稿します、


紘一郎雑記張

一般的に「龍馬・お龍」の結婚式は「寺田屋騒動」の
あと「薩摩」で「西郷隆盛」や「中岡慎太郎」の
媒酌で行われたという説もありますが、
どうも、違うようですね

そして、横須賀にいた「お龍さん」は不幸で
「酒びたり」の生活であったようです。

再婚した「西村・・」と「お龍の妹」との「3人暮らし」でしたが
その旦那と「妹」が、仲良くなりすぎて「お龍さん」は面白くなく
酒びたりになったのが真相のようです











































龍馬登場! お龍さん 赤尾氏講演会より 紘一郎雑記帳

2010-07-19 05:48:23 | Weblog
龍馬登場!!
【龍馬はなぜ・京都に】講演会より

   講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

【第2部】

「龍馬」が亡くなったのは「慶応3年11月15日」は
多く文献がありますので、間違いありませんが
「誕生日」はお龍さんの証言だけなのです。

龍馬は生まれてから「19歳」で江戸の行くまでの
記録は一切ありません。

「19歳」の時「江戸に剣術修行」に行きたいとの
「届け」が土佐に残っており、始めて「龍馬」が
歴史的に出てきました。

それまでの記録はなく、多くの歴史小説家の腕の見せどころ
となりました。

幼いときに「姉さん」に色々鍛えられたと「大河」でも
「小説」でも伝えられていますが、全て想像の世界です。

「龍馬」が歴史上に登場したのは「明治維新」を
遠く過ぎた「明治16年」のことでした。
それまでは全く無名の男でした。

維新の主人公の「薩長閥」から取り残された「土佐」が
蔑ろにされた為に起こした「自由民権運動」に多くの
「土佐人」が運動に参加しました。

それは「土佐新聞」で連載された作家「坂崎紫潤」の
「汗血千里の駒」その中に「龍馬」が登場したのです。
これが最初です。それまでの「龍馬」は
誰も知らない存在だったのです。

「坂崎紫潤」は他に「維新土佐勤皇史」の作品があります。
この「汗血千里の駒」は「自由民権運動」の拡大に
「龍馬」を利用した部分もありますが、「龍馬」を
知っている人への取材を元にしている面もありますので
かなり、正確な「龍馬」だといえるのです。

ただ「自由民権運動」の中での「ヒーロー」として
「龍馬」を取り上げているので、100%ではないことも事実です。

後の「司馬遼太郎」さんの「小説」も、その「汗血千里の駒」が
基本となっているので、少し違う「龍馬」でしょう。

「龍馬」は2回ほど「江戸」に「剣術修行」行っていますが、
これは大変なことですね
現在「海外に留学」するどころでは有りません。

もっとお金がかかりましたが、龍馬の家が「「質屋」
みたいな事をしており、金持ちで「侍」に金貸しなどをして
おりましたので、物理的にも、又「藩」から許可も、
貰えたのだと思います。

龍馬が江戸に行った時にちょうど「ペリー来航」があり
目の前に見た「黒船」に大刺激を受けたのです。

あんな大きな舟が勝手に動くことにはびっくりしたのですね
その当時の龍馬は色々と迷ったのでしょう「土佐勤皇党」に
入ったりしていました。

「土佐勤皇党」は「武知半平太(瑞山)」が作った
倒幕を目的にした「団体」で、かなり過激の行動をしており
「岡田以蔵」なる「殺人専門人」もいました。

龍馬は、それも棄て「文久2年3月24日」に土佐を「脱藩」致します。
「脱藩」というよりは「亡命」という方が正確でしょう。

その年に、後から出会うことになる「お龍さん」の
「父親」が「安政の大獄」でなくなっています

お龍さんの父親は「京都青蓮院・宮家」に仕えた
「勤皇」の医者でした。母は「公家」の出でした。
同じ「医者」の中でも「位」の高い医者でしたので
楽な生活をしていたのでしょう。

天保12年(1841年)に冨小路六角付近で生まれて、
しばらくはこの地に住んでいたという事は残っています。

炊事や家事は何もできなっかたが「習い事」は色々と
勉強しており勿論「読み書き」も充分習っていました
「龍馬」はそんなところにも惹かれたのでしょう
「龍馬」の死後「お龍さん」はどんなに落ちぶれても
その「姿」だけは「毅然」としていたようです。

ところが父が死んだ後は、今までの平穏な豊かな生活が
大きく変わり「一家離散」状態になりました

長女である「お龍さん」は弟や妹の為に自分も宿屋で働きます

妹たちが女郎屋に売られかけた時には、捨て身で乗り込んで
助けだしたという「「武勇伝」も残っております



さて「脱藩」した「龍馬」ですが「文久2年」の
足跡は何も残っておりません

「江戸」にいたとか「長州」で勉強していたとか
色々な説がありますが、わかりません、何も判らないのです。

しかし「文久3年」に京都に入ってきます。

続きは第3部にて


紘一郎雑記張

お龍さんと別行動をした、母親と妹2人は現在の
「三十三間堂南大門」前の「河原屋五兵衛の隠居所」
に移り住んでいて「土佐亡命志士」の賄いなどを
していたのですが、ここに龍馬が住んでいて「お龍さん」と
出会うきっかけとなりました。

龍馬は行方不明の後、ここにいたのです。

龍馬は姉宛の手紙に「もことに面白き女」と紹介しています。

そこから「龍馬」の生活は一変します。
龍馬の京都での生活や活動の元は「お龍さん」ですね、
後に「龍馬」の奥さんになるのですが、この「お龍さん」
重要な役割をしていくのです。

























龍馬は・なぜ京都にいたか 赤尾博章氏講演会 紘一郎雑記張

2010-07-16 05:04:21 | Weblog
 
【龍馬はなぜ・京都に】講演会より

NHK大河ドラマで人気沸騰「龍馬」!
数回にわけて投稿致します

   講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

赤尾です

私は「龍馬」が亡くなったというよりは「暗殺」された
「近江屋」から北へ「50m」のところで生まれました

今、京都の「河原町通り」は賑やかな通りとなっていますが
幕末時代は「5m」ほどの、細い通りでして、その東側に
「木屋町通り」がありますが、その木屋町のほうが
はるかに賑やかな通りでした。

今日は「坂本龍馬」のお話をするわけですが、
特に「京都での竜馬」のお話しを中心にさせて戴きます

龍馬を語るには、現在の龍馬の話は「司馬遼太郎先生」の
お書きになった「龍馬」が有名ですが
「本当」の「龍馬の実像」とは、かなりかけ離れています。

色々と歴史上の人物の小説はありますが「龍馬」ほど、
実際と異なる人物は珍しいのです。

なぜ、そうなったのでしょう。
幕末当時に「龍馬」がなにをした人か、
知ってる人はいなかったのです。

日本の歴史上の人物で「坂本龍馬」は「織田信長」とならんで
人気双璧の2人ですが「龍馬」が何をした人か判らないのです。

「信長」は「天下統一」という大事業をし、「龍馬」は
「明治維新」のきっかけを創った、といわれますが
維新のどこの部分に「龍馬」が関係したのかはわかりません

そこを「創造」を入れながら「龍馬像」を上手く、表現し
つくりあげたのが「司馬遼太郎」先生でした。

ですから「創られた龍馬像」を調べてみますと「本当」とは違う
「龍馬」が出て来るのです。

龍馬は多くの手紙を残しています。
この時代の人達は多くの”書”を書いています。

電話もメールもない時代ですから当たり前の事ですが
取り分け「龍馬」は多くあり、167通が確認されています
その手紙を基本に「龍馬」の人物像を探り「小説」と
していますので「ウソ」ではありませんが
「事実」でない事も、あるわけです。

特に「お姉さん」にあてた手紙が多いのですが
その中で龍馬の人間性は良く出ているのです。

手紙に語っていることは、「本当」か「ウソ」かをみるには
「手紙」は特に「有効」な事実とされるのです。

さて「幕末」といわれるのは、どの年代なのでしょう
一般的には、ペリー提督が来た1854年から1867年(慶応3年)の
大政奉還ぐらいをいいます、その【14・5年が幕末と】言われます。
特に最後の3年「1864年5・6・67年」で大きく日本は動きました。

竜馬は高知で「天保6年11月15日・1835年」生まれですが、
龍馬が生まれた「11月15日」は西暦でいうと「1月3日」に
なりますので、西暦でいうと「1836年」生まれとなるのです。

今年の「NHK」の大河ドラマが「1月3日」に第一回を
放送致しましたが、さすが「NHK」龍馬の「誕生日」に
合わせて「放送第一回」と思いましたが
何の説明も解説もなく、ただの偶然だったのかと
がっかりしたことを覚えています。

しかしこの龍馬の「誕生日」は何の証拠も有りません
お寺で生まれたと言われますが「過去帖」にもありません

龍馬は正式な武士ではなく、必要でなかったのでしょう
どこで・いつ・生まれたかが「龍馬」は判りません

では、なぜ「11月15日」生まれとわかったかと言いますと
明治の後半に「妻の・お龍さん」が新聞社のインタビューに
答えて「龍馬さん」は「生まれた日と・死んだ日が同じ」と
いったそうで、それが「龍馬」の誕生日となったのです。

龍馬に関する文献は明治の6年ごろから少しづつ出てきましたが、
その段階では誕生日の記載・記録などは一切ありません。

すべては「お龍さん」のインタビューしかないのです。

続きは「第2部」に投稿致します


紘一郎雑記帳

先日「龍馬ブーム」に沸く「高知・であい博」へ行ってきた
まさに、みるもの全てが「龍馬のふるさと」でした

龍馬を育んだ「ふるさと土佐」では、神戸・京都・長崎での
象徴的な出来事を通して龍馬の激動の人生を紹介してあった。

龍馬が愛した海、その海を突き進む船の帆を思わす
ゲートを抜けると情緒漂う「龍馬」の町である

”幕末土佐通り”は成長していく「龍馬」を見事に
表現し、ロマン溢れる内容となっている

日本の夜明けを疾駆した「龍馬」は今の「日本」を
どう見ている事だろう。






































第2部 里見浩太郎・水戸黄門の話、矢田清己監督講演会 

2010-07-07 05:03:46 | Weblog
【テレビ・水戸黄門の話】
矢田清己監督講演会より 紘一郎雑記帳

【里見浩太郎・由美かおりさんの話!」

矢田監督は映画「水戸黄門」「大岡越前」「逃亡者おりん」などの
「お茶の間」の人気番組を担当された監督です。
仕事柄、多くの役者さんとお会いし色々と勉強させてもらいましたが
印象に残っている一人に「江利ちえみさん」がいますね

ある撮影で「ちえみさん」が、この場面では「衣裳は替えなくていいのね!」と
聞かれたので「そのままで良いですよ」と答えたのですが
本当は「衣裳替え」の場面だったのです

仕事が終わり「ちえみさん」に怒鳴られるのを覚悟して
誤りに行きましたら、「手」を「ピストル」にみたてて
その「ピストル」を私に向けて「ズドーン」と言ったのです。

それだけで「一言」も怒らなかったのです。
その夜は心が痛んで眠れなかった事を覚えています

なんでも、ない事ですが「他の俳優さん」では
こんな事で終わる事は絶対ありません。

色々なことがありましたが「24年前」に監督になりました
38歳でしたので、もう監督になれないだろうと
いわれていましたので、「びっくり」しました

いざ、監督をやれ!と言われると、又考えるのですね
「役者さん」とどう付き合うか「他の監督さん」と」どうするか
自信もなく、迷って「母」に相談しましたら
「母」は「自分の感動した事をやれば!」と話してくれました

【人を感動させようとせずに「自分」が感動する事をしたら良い】
私にとっては最高のアドバイスでした。

私が監督になった時には「西村 晃さん」が
「黄門」になっていました。

その、作品で「西村さん」に「少し泣いてくれますか?」と頼みました

それまでの「黄門様」は泣いた事が「1回」も無かったのです。

普段は役者さんは「目薬」を使って「涙」を見せるのですが
「西村 晃さん」は「わかりました、10秒、待ってください」
といって後をむいて、10秒後こちらに振り返ったら
「目にいっぱいの涙」を溜めていたのです。

後でお聞きしましたら、どんな役でも、どんな状況でも
どんな感情でも「西村さん」は「10秒」で顔が作れるそうです

素晴らしい「役者さん」でした。

今の「黄門様」は「里見 浩太郎さん」がしていますが
「里見さん」が「助さん」を演じるときがありましたが
「里見さん」は「立ち回り」が上手い代表ですね!

抜群に「刀」にさばき方が上手で、又、好きなのですね
「里見さん」は人を斬った後、演技の上にしても、
少しは深刻な顔になるものですが「里見さん」は笑顔になりますね
本当に本性的に「立ち回りが好きなのですね」

「里見さん」は私に言いました。
【演技をしているとき、演じている自分が見えるのです】

私にはそれが出来ないですね、皆様は如何ですか?

【「何かを一生懸命、している自分」は見ることが出来ますが
 その何かをしている自分を横からか後から、見ることが出来ますか】

里見さんは「演技をしている自分」と「それをみている自分」が
見えるのですね。 

「立ち回り」をしているとき「カメラ」に映っている
「自分」が見えるそうです

冷静に自分をみている自分がいるのです。
二人の自分が見えるのですね、凄い役者さんです

二人の自分の中で、後の自分は無意識の中にいますね、

前の自分は、演じながらも「どうして上手く行かないのか」とか
「なぜなのか」などと考えていますが、その悩みを後の
自分が被っていてくれて、前の自分の負担を
減らしていると考えれいます

今度あったら、後の自分に礼をいいますよ!

もう一人の「水戸黄門」には欠かせない「由美かおるさん」
24年間「16部」すべて、私が監督になってから「出演」してもらってます。

由美かおるさんは今年の「10月」の作品を最後に「水戸黄門」を
卒業しますが、それは「おえんさん」が結婚するという設定です。
「由美かおるさん」本人はしませんよ!

私の家内が「ピアノ」の先生をしていまして家に
「レッスン場」を開いたときに「由美さん」が生徒で来ていたのです。

時には「撮影所」から「ヅラ」を被ったまま
「タクシー」で来たりしていましたね。

その「由美さん」が水戸黄門を卒業と決まったときに、
うちにきて家内と二人で練習しているのです。

何の練習と思われますか?

「アコーディオン」の練習をしていたのです。
水戸黄門をやめたら全国を回り「アコーディオン」で歌う
「弾き語り」をしたいそうです。

これなら「どんな所」でも「どんな田舎」でも
回れると張り切っていました。

その由美さん、朝、起きたとき
「今日は何人の人を喜ばせる事ができるかな」と思うそうです。

素晴らしい人ですね!

他の話は又、お会いしたときにいたしましょう
有難う御座いました

紘一郎雑記帳

裏方さんに聞いたナイショ話より

代々の黄門様は、みなさん個性的で面白いね。
東野さんと西村晃さんはご本人の希望で楽屋で
お化粧をしてたから、自然と交流も多かった。

東野さんは待ち時間によくオセロの相手をしたなぁ。

西村さんは音楽が好きで、カンツォーネやクラシックをよく聴いていた。
イタリア語をマネて、にわかオペラを歌ったりしてね(笑)。
すごく明るい方でした。

佐野浅夫さんとは、ここ(共有のメイク室)でいろいろ話したし。
石坂さんは、時々お惣菜を持ってきてくれるんですよ。
料理がすごくお上手でね、食材も自分で買い出しに行くらしい。
ニンニクがたっぷり入ったキムチの白菜付けなんか
すごくおいしかったなぁ。

そんな感じで、もう何年も役者さんの顔をやりながら、
鏡越しにいろいろな話しをしてますよ。それが楽しいんだよね。




























テレビ・水戸黄門の話、矢田清己監督講演会 紘一郎雑記帳

2010-07-05 05:10:13 | Weblog
【テレビ・水戸黄門の話】

矢田清己監督講演会より 紘一郎雑記帳

【1・2部に分けて投稿致します】

●名優「片岡千恵蔵」さんの凄さ!

矢田監督は映画「水戸黄門」「大岡越前」「逃亡者おりん」などの
「お茶の間」の人気番組を担当された監督です。

始めまして「矢田」で御座います。
映画監督の「矢田」というよりは「映画監督」をしている「矢田」です。

映画は「俳優さん」が表に出て「映画監督」は表には出ないのですが、
どうしてもと依頼され、出て参りました。

「映画監督」は「シナリオ」があり「演ずる皆様」があって
「話」が出来ますが「講演会」という形では苦手なのです
映画は「フィルム」を修正し修正しつつ完成させますが
講演はそうは行きません。 全く不慣れですので
お聞き苦しい点はご容赦下さいませ。

なぜ、私が映画監督をしているかと言えば「昭和23年」
京都の「太秦」に生まれました。
親父が映画の「カメラマン」だったのです。

その当時の「太秦」は「東映・大映・日活」などの
多くの映画会社の撮影を引き受けていました。

「カメラマン」は日銭の商売でして、父親のお金が入った日には
良く母親から「お米」を買いにいかされた事を覚えています。

「カメラマン」は今風の言い方で、当時は「撮影助手」ですね
親父の凄いところは、人を「叱らない」事でした。

貧しい家庭でしたが「小学校5年」の時に
「家庭教師」を付けてくれました。

私の家に定期的収入が入るようになったのです。
貧しい「カメラマン」の父がその年に出来た「関西テレビ」に
入社して給料が入るようになったのです。

少し金銭的余裕が出来たので「立命中学・高校・大学」と
進学しましたが「大学」を中退したのです。

どうしても「映画を撮りたい・撮影をしたい」の気持ちが
強くなり、その関係の仕事がしたくなったのです

親父に相談したら「親父の友人」を紹介してくれて
その方の斡旋で入社したのが「水戸黄門」を「撮った」会社でした。

昭和44年に第1回の「水戸黄門」が放送された年でしたが
大変な好評でしたので「第2回」を製作が決まった時でした

翌年の45年に第2作が出来たのです
その時の「水戸黄門役」は「東野英次郎さん」で
「杉 良太郎、横内 正」の「助さん、格さん」のコンビでした

その時、始めて「助監督」を務めましたが、足らない物を集めたり、
時には「カチンコ」をしたり、「何でも係り」の様な仕事でした

その時の面白い話をしましょう
【片岡千恵蔵さんの凄さ!】

他の映画の撮影で「片岡千恵蔵さん」がセットに入ってきました
「20人」ほどの「付き人」が「千恵蔵さん」の周りを取り囲んでいます
皆からは【御大】と呼ばれていましたね。

付き人の「20人」はそれぞれ役割があり「たばこを出す人」
「火をつける人」「鼻紙を用意する人」「水を出す人」
皆が役割を持っているのです。

撮影が始まり「千恵蔵御大」がお酒を飲むシーンの撮影となりました
相手の女優さんが徳利で「千恵蔵御大」の「盃」にお酒を注ぎました。

なんと、その徳利から盃に注いだお酒に「ゴミ」が浮いていたのです。
「小道具」さんのミスですね。

女優さんは気付き、演技を止めようとしましたが
「千恵蔵御大」は構わず美味しそうに「盃の酒」
飲んで演技を続けたそうです

撮影終了後、平謝り詫びる担当者に「千恵蔵御大」は
【信頼する「スタッフ」や「大・小道具」の人が準備したものは
 例え「小便」が入っていても「毒」が入っていても
「私は飲むよ】と言ったのです。

これが、私が「映画」に入って一番「感動」したことでした。
「片岡千恵蔵さん」は凄い俳優さんでしたね

多くの役者さんとの出逢いも戴きました
その中の幾つかをお話してみましょう

【続きは第2部で】


紘一郎雑記帳

昭和44年からスタートした長寿番組「水戸黄門」は、
今年の4月から37部がスタートしました。

その主役は
東野英治郎さんから始まり、2代目は西村晃さん、
3代目は佐野浅夫さん、そして4代目は石坂浩二さんに次いで、
現在の里見浩太郎さんが5代目になる。

本日の矢田監督は2代目の「西村 晃黄門様」からの監督さんである

私は、一番、西村晃さんが黄門さまのイメージにピッタリなんですが、
皆さんはいかがですか?

その西村さんの話や里見浩太郎さんの話は
「第2部」投稿に沢山出てきます












































琴光喜?相撲という「戦いのドラマ」,前田克巳氏講演会

2010-07-02 04:59:54 | Weblog

【第3部】

琴光喜?相撲という「戦いのドラマ」,前田克巳氏講演会

私が「相撲界」から「土俵の鬼・若乃花」から
そして「角聖・双葉山」から学んだ事の中から
こんな言葉を思いだします。

孫子の兵法にある
【彼を知り、己を知るば百戦して危うからず】
という、言葉です

戦う相手を知り己を知る、
そして相手の長所を押さえ込んで短所を攻める
自分の短所を隠して長所を伸ばせば、必ず勝てる!
という意味の言葉です。

私も現役時代、戦いの前には、よく先輩に
「あいつはこんな”技”をもっている」とか
「ここに気をつけて戦え!」という様な
「情報」を貰って、自分なりの戦いのプランを
つくりあげて土俵に上がりました

前の晩は興奮して眠れないこともありますが
当日はなんとか”心”を落ち着けて
「こんな相撲をとろう」という「ソュミレーション」をしました

そして「ちょんまげ」を整えて、会場に向かいました

もちろん、それでも”心”は動きます
縁起を担ぐこともありました

「小心翼々たれ」と言います様に、戦う前は「小さい事」も
たくさん、気にすればよいのです。

しかし、いざ!軍配が返ったら「はっけよい(発気よい)」
「勇猛果敢」にに戦うのです。

そして、勝てたら、次の戦いのために「油断大敵」を忘れずに
次の戦いに向かって準備していくのです

そんなふうに、相撲という「ドラマ」は生む出されていくのです。

私が相撲かにいたのは「6年間」という、短い間でしたが
ひたすらに「二子山親方」を尊敬申し上げ、言われた事や
言葉について考えた、その「6年」の間に私自身の
人生がつくられた様な気がしています。

まさに「土俵の中」に自分があったし、相撲の世界に身をおいて
偉大な人たちを、かいま見て「よき時代」の相撲界を見て体験できたことは
本当に”幸せ”なことでした。

その「相撲界」を離れて、今の会社に入ったわけですが
学歴も経験もないながら「礼儀・礼節」だけは、わきまえて
きっちりと挨拶をする、そこからの「スタート」でした。

様々な皆様のご指導を戴きながら、なんとか「チャンス」を
与えてもらい、頑張る土俵を獲得できたのです。

相撲界における「戦い」も、その後の社会の戦いも
原点は同じではないかと感じています。

今日の話を聞いて頂いて、今までとは少し違う角度で相撲に
興味を持って頂ければ幸いです。

日本の国技である「相撲」が、今後も皆様の心に感動を
与えるように発展する事を望んでいます。

有難う御座いました。  「2010年4月9日」講演より


紘一郎雑記帳

相撲界は「国技存続」の危機に瀕している
前田氏のお話にあった「相撲界」の「伝統・礼節・」を
重んじる大切さが大きく失われてきたのではないでしょうか?

相撲の世界は、上は、横綱から始まり大関、関脇、小結
幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序の口と段階があり
それぞの間には厳しい「礼」があると聞いています

相撲の世界は、大きく2つに分かれておりまして
「十両」になりますと「関取」となり、
給料も「100万円」貰え、大銀杏、化粧回し、
締め込みも出来、待遇が全く変わってくるのです。

十両になると「給料」の他に、「手当て」もつき「祝儀」もあり
年間「2000万円」ほどの収入になるのです。

番付が1枚違えば「家来」である世界で、中でも
十両以上と幕下以下は雲泥の差があります。

今、起きている「相撲界賭博問題」はニュースでみて判断するば
この「厳しい・伝統的」な地位の違いがなくなり
[大関]から「平幕」「十両」「幕下」も「付け人」も「床山」も
みんな仲良し仲間となり、ワイワイ騒いでいるうちに、
起きた問題の様におもえます

数場所、休んでも良いから「原点」に戻ってやり直す
必要があるのではないでしょうか