「龍馬」死後のお龍さん 紘一郎雑記張
【下関・長崎・土佐】のお龍さん】
お龍さんは「慶応3年11月15日」「龍馬」が「京都近江屋」で
刺客の為に最期を遂げた夜に「龍馬」が全身赤に染まり
血刀をさげて、しょんぼりと「お龍」の枕元に立つている
夢をみて「龍馬」に「なにかあった」と感じていたそうです
それから8日目に「三吉慎蔵」から「龍馬」の「死」を
「聞かされました。「残念です」三吉はそう言ったそうです。
もとより「覚悟」が出来ていた「お龍さん」は騒がず
9日目に同家の奥座敷で法事をしました。
そして「お龍さん」は知り合いの髪結いを呼んで
黒髪をすっかり洗い清めて、仏の前にすわり
しばらく合掌していましたが、大鋏を手にして
ふさふさとして水も滴るような髪を根元から
ふっつり切り取って白紙につつみ、仏前に供え
ワァッと泣き伏せたそうです。
一座は水を打ったように静まりかえり首をうなだれていました。
そこで三吉は、このままこの家にいるのも気の毒と思い
「お龍」と「妹の君江」を自分の家に引き取りました。
このときは「あけぼの」という茶屋で「中島信行」と
「伊藤博文(後の初代総理大臣)」と「三吉」の三人で
橙(みかん)の実を短銃で狙撃したりして遊び
「お龍さん」の気持を慰めたようです。
その後「お龍さん」は下関奥小路の「福田屋仙助」という
質屋の2階に部屋を借りていましたが「長崎の新町」に
海援隊の屋敷もあり、「龍馬」の仲間もいるので
「長崎」から「お龍さん」を迎えに来ました
「お龍さん」は長崎に行くのを嫌がり「京都」に
行きたいと言いましたが
「一度長崎に行ってから京都へ行けばよい」とくどかれ
長崎に向けて出航しました。
長崎では妹の君江の祝言をしたりした後
明治元年5月20日に「夕顔丸」という舟に
乗り込み、大阪へ着き、土佐堀の「薩摩屋おりせ」に
宿泊しました。
そうしたら「土佐」の人が来て「土佐」に帰れ、と
言うし、色々ゴタゴタしましたが「龍馬」の墓参だけして
「土佐」に帰ることにしたのです。
お龍さんは2人の下僕を従えて「大阪」まで行き
7月13日、舟で土佐に向けて出航しました。
ところが、この舟が「土佐の貞山沖」で難破し
九死の中ようやく「浦戸」え着きあとは徒歩で
高知の坂本家に着いたそうです。
坂本家は一番上が兄さんで、次が乙女さん、女・女と
続き「龍馬」は末っ子でした。
「龍馬」は「お龍さん」に「乙女姉さん」に世話になったと
威張っていたそうです。
土佐で少し住んでいましたが「お龍さん」は義兄の嫁と
仲が悪いのです。 義兄の家はあまり「豊か」ではなく
「龍馬」に下る「褒賞金」をあてにしていたのです
すでに「坂本龍馬」は死んでおり、海援隊は瓦解し
私を養うものは「兄夫婦」だけですし、お金は「坂本お龍」に
下るのですが「お龍」が離縁して「坂本家」を出てゆけば
「お金」は家に残るので、お龍が出て行くように
仕向けていたのでした。
「お龍さん」は
「なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、
私は金なんぞいらない、そんな水臭い兄の家に誰がいるものか!
追い出されないうちに、私の方から追ん出てやる!」
という了見で明治3年に家を飛び出して高知、和食村の
「千屋富之助(龍馬知人)」宅に一時逗留したのです。
ここでの「お龍さん」は千屋家から、2・3町離れた「山」に
のぼり、嬉々として走り回り「龍馬」が生前肌身離さず
持っていた「6連発」の「短銃」で「小鳥」を撃っては
「龍馬」を偲んでいたとのことです。
「龍馬」の事が、一時も頭から離れなかったのでしょう。
そしてその後、京都に行き「東山」へ家をかりたのです。
「一坂太郎氏著書・【わが夫 坂本龍馬】参照
【お龍さんのその後】の続き「京都から江戸へ」は
次回投稿いたします。
【下関・長崎・土佐】のお龍さん】
お龍さんは「慶応3年11月15日」「龍馬」が「京都近江屋」で
刺客の為に最期を遂げた夜に「龍馬」が全身赤に染まり
血刀をさげて、しょんぼりと「お龍」の枕元に立つている
夢をみて「龍馬」に「なにかあった」と感じていたそうです
それから8日目に「三吉慎蔵」から「龍馬」の「死」を
「聞かされました。「残念です」三吉はそう言ったそうです。
もとより「覚悟」が出来ていた「お龍さん」は騒がず
9日目に同家の奥座敷で法事をしました。
そして「お龍さん」は知り合いの髪結いを呼んで
黒髪をすっかり洗い清めて、仏の前にすわり
しばらく合掌していましたが、大鋏を手にして
ふさふさとして水も滴るような髪を根元から
ふっつり切り取って白紙につつみ、仏前に供え
ワァッと泣き伏せたそうです。
一座は水を打ったように静まりかえり首をうなだれていました。
そこで三吉は、このままこの家にいるのも気の毒と思い
「お龍」と「妹の君江」を自分の家に引き取りました。
このときは「あけぼの」という茶屋で「中島信行」と
「伊藤博文(後の初代総理大臣)」と「三吉」の三人で
橙(みかん)の実を短銃で狙撃したりして遊び
「お龍さん」の気持を慰めたようです。
その後「お龍さん」は下関奥小路の「福田屋仙助」という
質屋の2階に部屋を借りていましたが「長崎の新町」に
海援隊の屋敷もあり、「龍馬」の仲間もいるので
「長崎」から「お龍さん」を迎えに来ました
「お龍さん」は長崎に行くのを嫌がり「京都」に
行きたいと言いましたが
「一度長崎に行ってから京都へ行けばよい」とくどかれ
長崎に向けて出航しました。
長崎では妹の君江の祝言をしたりした後
明治元年5月20日に「夕顔丸」という舟に
乗り込み、大阪へ着き、土佐堀の「薩摩屋おりせ」に
宿泊しました。
そうしたら「土佐」の人が来て「土佐」に帰れ、と
言うし、色々ゴタゴタしましたが「龍馬」の墓参だけして
「土佐」に帰ることにしたのです。
お龍さんは2人の下僕を従えて「大阪」まで行き
7月13日、舟で土佐に向けて出航しました。
ところが、この舟が「土佐の貞山沖」で難破し
九死の中ようやく「浦戸」え着きあとは徒歩で
高知の坂本家に着いたそうです。
坂本家は一番上が兄さんで、次が乙女さん、女・女と
続き「龍馬」は末っ子でした。
「龍馬」は「お龍さん」に「乙女姉さん」に世話になったと
威張っていたそうです。
土佐で少し住んでいましたが「お龍さん」は義兄の嫁と
仲が悪いのです。 義兄の家はあまり「豊か」ではなく
「龍馬」に下る「褒賞金」をあてにしていたのです
すでに「坂本龍馬」は死んでおり、海援隊は瓦解し
私を養うものは「兄夫婦」だけですし、お金は「坂本お龍」に
下るのですが「お龍」が離縁して「坂本家」を出てゆけば
「お金」は家に残るので、お龍が出て行くように
仕向けていたのでした。
「お龍さん」は
「なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、
私は金なんぞいらない、そんな水臭い兄の家に誰がいるものか!
追い出されないうちに、私の方から追ん出てやる!」
という了見で明治3年に家を飛び出して高知、和食村の
「千屋富之助(龍馬知人)」宅に一時逗留したのです。
ここでの「お龍さん」は千屋家から、2・3町離れた「山」に
のぼり、嬉々として走り回り「龍馬」が生前肌身離さず
持っていた「6連発」の「短銃」で「小鳥」を撃っては
「龍馬」を偲んでいたとのことです。
「龍馬」の事が、一時も頭から離れなかったのでしょう。
そしてその後、京都に行き「東山」へ家をかりたのです。
「一坂太郎氏著書・【わが夫 坂本龍馬】参照
【お龍さんのその後】の続き「京都から江戸へ」は
次回投稿いたします。