紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

民主党政権と海外事業 第4部 杉田定大氏講演録より

2010-08-30 05:02:37 | Weblog
【第4部】

日本の製造業の課題 「2010・05・28講演」
これからの日本企業に求められる戦略性

【杉田早稲田大学客員教授】講演禄より

杉田定大氏
1955年生まれ、通商産業省入省

貿易協力局通商金融、経済協力課長をはじめ
中国経済産業局長などを歴任
2002年より現職

杉田氏

鉄道について話してみよう
これまでは国内のマーケットが豊かであった為
「海外」に出る必要がなかった産業の一つである

しかし、現在は国内に敷設する場所がなくなり
外国に進出し売るしか選択がない状況となりました

「大阪市」や「東京都」の「水道局」「交通局」は
どう「海外展開」するのかが、「インフラ」の
「マーケット」には将来性があるので「リスク」も
大きいが「チャレンジ」するしか方法は
残されていないことを確認すべきでしょう。

これからは「物」を「切り売り」するのではなく
「オペレーション」や「メンテナンス」までを行う
展開をしなければ企業が生き残ることは難しいのです

逆にいえば生き残る「チャンス」はそこにある事が
はっきりしているので判りやすくも有ります。

あの「IBM社」さえも「社会インフラ企業」になると
宣言しており「スマートグリッド」や
「水管理システム」などを売るだけではなく
「マネジメント」まで行うと意気込んでいるのです

実際「IBM社」は「イタリア」の「マルタ島」で
「水道事業」を開始しています。

わが国の「民主党政権」は「新幹線」を海外に「売る」事に
「力」を入れています。

今、「ベトナム」を縦断する鉄道は「未電化」で「単線」なのだが
そこに「高架鉄道」で「新幹線」を引こうという商談である。

かっての日本でも、「新幹線の建設」よりも「道路」の
「整備」の方が優先した歴史があり、本当に「ベトナム」に
千数百キロの「新幹線」の建設が求められているのか
よく、吟味する必要は有りますね。

ベトナム南北ハイウエーの方が「新幹線」よりもはるかに
「プライオリティ」が高そうに思えます。

単なる「プラント輸出」の売り込みではなく「相手国」の
立場にたっての「官民連携」が求められています。

又、日本の「非効率」な公共サービスを海外に持っていっても
競争力はないのです。
もつと効率化された、優れたサービスを「官民連携」により
提供すべきなのです。

私は、「一昨年」まで広島の「中国経済産業局長」を
していましたが「中国地域」の疲弊した様子を目のあたりにして、
「公共事業」がなくなった今、「コンクリートから人へ」と言われるが
では「人」によって「経済をどう再生」させるか
の「具体的」なメッセージは「民主党政権」は出していないのです。

地方は、これまで企業を誘致しようと頑張ってきましたが
それだけでは「地域」の「再生」には繋がらないのです

そこで技術者のレベルを向上させるべく、社員を東京都大田区や
東大阪市の工場などへ技術の勉強に国内留学のかたちで
研修に出すところまであるのです。

数年前に地元に帰り、身に付けた「高度な技術」を
「地場産業」の育成に役立てるのが狙いですが、
そうしたきめ細かいやり方も重要です。

「国」や「自治体」はこうした取組みに対して十分な
対応をすべきでしょう

ご静聴有難う御座いました


安田紘一郎雑記帳

日本を覆う閉塞感について、真山仁氏はこう警戒する。

「この国は今、完全に迷っている。
ビジョンがないときに恐ろしいのは
「ヒトラーのようなカリスマ」が出てくること。

すでに(民主党内に)その土壌はできている」

一方、真山氏は、日本を席巻する中国マネーにも注目する。

体力の弱った日本企業に群がる投資ファンドの姿を描いた
「ハゲタカ」シリーズの小説「レッドゾーン」は、
中国資本が日本の大手自動車メーカーに買収を
仕掛けるというストーリーだ。

果たして、これが現実のものになるのか。真山氏はこう語る。

「中国が買いたい日本企業は山のようにあるでしょう。

しかし実際には『トヨタ自動車も買いたいけど、
日本人が怒るのならやらない』というのが中国人の考え方。

理由は簡単で、反感を買って不買運動が起きたり、
社員が辞めたりするとビジネスにならないから。

やるなら友好的にというスタンスです」

猛威をふるう中国マネーについて、
中国人がカネにモノをいわせて日本企業を買いあさり、
中国化してしまうのではないかと懸念する向きもあるが、
真山氏の見解は異なる。

「勘違いしている日本人も多いが、
彼らがほしいのはブランドよりもお金。
投資してお金を回収できるなら、
企業ブランドもそのままで、社長もずっと日本人でいいと考えるだろう。

ブランドとして会社をほしい人、五大陸全部で会社を持ちたい、
という大金持ちも一部にはいるようだが、
ビジネスとして日本に投資する人たちの意識はデリケートです」


















規制緩和も急務である 杉田定大氏講演録より

2010-08-27 04:58:59 | Weblog
【国の仕事・規制緩和  第3部】

日本の製造業の課題 「2010・05・28講演」
これからの日本企業に求められる戦略性

【杉田早稲田大学客員教授】講演禄より

杉田定大氏
1955年生まれ、通商産業省入省

貿易協力局通商金融、経済協力課長をはじめ
中国経済産業局長などを歴任
2002年より現職

杉田氏
大事なことは、潜在的な国内需要を顕在化させ、
新しい製品やサービスを普及させれには
「規制改革」をはじめとする政策が必要です。

自民党政権時代には、規制改革が進まず「幼保一体化」と
いえば「自民党」に強い力を持つ「幼稚園サイド」が
ダメだとはねつけた。

私は以前、「神戸に医療産業特区」をつくって
外国人の医師や看護婦を自由に活用できる様に
した事があるが、医師会からの「プレッシャー」で
実現出来なかった事があります。

規制緩和なくして新しい産業は出てこないので
民主党政権に期待しているのだが、どうでしょう・・・

規制緩和と同時に「ルール」も整備しなければ
「トラブル」を招く元になります

阪神・淡路大震災の後、建築確認の為の自治体職員が
足りずに、民間に任せたが、それを監督する「ルール」が
なかった為に問題が発生したこともありました

例えば、今後、開発が進むであろう「ハイテク型」の車イスが
道交法と関係なく公道を利用すれば「トラブル」になります。
と、いって、あまり厳しいルールでは普及の妨げになりますね。

そうした「ルール」づくりは、製品やサービスの開発段階から
しっかりと、なされなければならないのです。

世界的に「水資源」の「絶対量」が不足していることから
「水ビジネス」と呼ばれる市場にも、注目が集まっていますが
「海外水メジャー」が優勢な「水供給事業」の
運営・管理の分野は「100兆円市場」といわれるが
日本企業は膜などの「素材供給分野」で「1兆円」程度の
ビジネスを展開しているにすぎません

要するに「機器」だけ売って、肝心な「オペレーション」と
「マネジメント」を「ビジネス」にしていないのです。

2009年に「スペイン」の総合エネルギー環境事業会社と
資本提携し、新エネルギー・水関連事業に、
乗り出そうとしている「三菱商事」をはじめ、
日本勢も「水ビジネス」への進出に意欲を示しているが
「水道事業」が官製だった歴史から「民間企業」の
「ノウハウ」が乏しいという現実があります

「水道」に限らず、日本の「インフラビジネス」全般は
基本的には「官」が担ってきた弊害もありますね

イギリスでもフランスでも「水道事業」は「公社」が
行ってきたが「規制緩和」で民間に競争させた結果」
「力」をつけた企業が海外に進出していきました。

「発展途上国」や「中進国」の側は「インフラ整備」を
「自国」でやると「莫大な費用」がかかるので、
海外の「民間企業」の進出を歓迎しているのです

次は「「鉄道」についてお話します。 

第4部に投稿いたします


安田紘一郎雑記帳

引き続き「真山 仁氏の言」より
地球温暖化問題への取り組みも同じ。

「温暖化問題の本質は、
原始時代から続いてきた火を使う社会が消えて、
別のものがエネルギー源になる時代が来るということ。

【これは欧州が従来のルールを
変える切り札として仕掛けたものだ】

技術力がある日本のメーカーにとって、
温暖化問題は大きなビジネスチャンスになるはずだが、
ここでも政治の問題が頭をもたげてくるという。

「他国に新技術で先行され、
特許も取られてしまうと日本はコストで勝てなくなる。

メーカーは危機感を持っているものの、
研究・開発コストとの採算がとれない。

そこで重要になってくるのは政治の力。

極端にいえば、日本が生き残るためには、
「電気自動車をつくる会社は免税にするぐらいのことを
やらないと立ちゆかない時代が来ている」

菅直人首相(63)は、
「介護」などを成長分野として重点的に
投資する方針を打ち出しているが、真山氏にすれば、
チャンチャラおかしいということになる。

「彼ら(菅政権の人たち)は知ったかぶりして
虚勢を張るばかりで、成長分野が何なのか、
各産業をウオッチしているプロから説明を
受けて決定しているようにも見えない。

本当の素人集団。
若葉マークであることを自覚しないと、
とんでもないことになる」











































味の素の成功に学べ!日本に製造業は残るのか! 杉田定大氏講演録より

2010-08-25 04:58:51 | Weblog
【ヤクルトや味の素の成功に学べ】
日本の製造業の課題 「2010・05・28講演」
これからの日本企業に求められる戦略性

【杉田早稲田大学客員教授】講演禄より

杉田定大氏
1955年生まれ、通商産業省入省

貿易協力局通商金融、経済協力課長をはじめ
中国経済産業局長などを歴任
2002年より現職

著書《「官製市場」改革》など

日本の製造業はこれまでは国内と先進国の
マーケットで儲けてきました。

しかし国内で物が売れた時代は良かったが
もはや、日本にも先進国にも「マーケット」の拡大は
期待できない状況となってきました。
今後有望といえるのはBOP(ボトム・オブ・ピラミッド)と
よばれる「ボリュウムゾーン」でしょう

近年、世界の「低所得層」のうちの「8億人」くらいの
所得が増えて購買力が高まりつつあり、そうした層の増加は
特にアジアの中進国に顕著にでています。

かって多くの日本企業が、先進国向けに輸出する
製品のスペックを低くして発展途上国へ提供する
「ダウングレード戦略」を展開してきました。

しかし、現在、アジア中進国の「購買層」への
「アプローチ」となると日本は大きく立ち遅れています。

この日本企業に対して「サムソン」は「10年以上」も
前から、アジア中進国を意識した「アップグレード戦略」を
行うなどして、新興国のマーケットを押さえてきています

【まず、スペックの低い製品を投入して、
販路を開拓し、その国の経済成長に応じて徐々に
付加価値を高めていく戦略なのです】

日本企業の中にも巧な売り方をしてきた企業は有ります

【ヤクルト】はその代表的な一例でしょう
いわゆる「ヤクルトおばさん」は「タイ」にも
「ブラジル」にいてそれぞれ活躍しています。

【味の素】は製品を小分けにして、買い易くし
販路を開拓、「製品の味の価値」を知らしめた上で、
調味料の本格展開をはかり、それが世界中に浸透し
「アジア」「アフリカ」にまで、販路を大きく拡大しています。

「インド」の「タタ」は「廉価な自動車」を発売して
注目を集めましたが、【スズキ】はその「インド」で
「アップグレード戦略」に沿った「マーケット展開」をし
初めは「スズキ」で乗せ、ゆくゆくは同じグループの
「ダイムラー・ベンツ」に乗せようとする戦略を展開中です。

この様に「ボリュムゾーン」を相手に、先まで見通した
「マーケット」開拓を考えない限り「日本企業」が
生き残る道はない事と思います。

日本の企業が将来、生き残る近道は、おおむね「3つ」の
タイプに集約されると考えます

まずは「グローバルタイプ」の製造企業が、国際競争に
勝ち抜く為に「真の意味でのグローバル化」を図る事です。

そうすれば大企業は「本社」を海外に置き、「取締役会」も
英語で行うようになるでしょう

【武田製薬】は「アドバイザーリーボード」を設け
外国の「製薬メーカー」の「OB社員」などを加えて
英語で会議をしています

【楽天】は外国人がいなくても、会議はすべて英語で行い
中国への進出を見据えて「中国語」の勉強もはじめています

二つめは「非グローバル企業」が「グローバル化」を遂げて
新興国市場に「積極参入」する事だ
先にあげた「ヤクルト」はその好例ですね。

元来「食品加工業」は「内需型」だといわれますが
「発展途上国」に「マーケット」を求める事で
「グローバル化」が図られたのです

最後の「3つ目」は海外に出られない「企業」が
「社会的課題対応型」の「地域内需産業」を興す事でしょう

この分野の代表的な産業は「グリーンマーケット」や
「シルバーヘルスケア、マーケット」などであるが
これに「観光マーケット」を加えることも出来る

ジェロントロジーといって「加齢化」に応じた製品やサービスを
どう「システム化」するかを考える学問があるが、
そうした分野で国際競争する気概のある企業が欲いい

電動車椅子や介護ロボットなどが今後の課題である

そして国の政策も大切である  続きは第3部に投稿
























日本の製造業の課題 杉田早稲田大学客員教授講演禄より

2010-08-23 04:43:20 | Weblog
日本の製造業の課題 「2010・05・28講演」
これからの日本企業に求められる戦略性

【杉田早稲田大学客員教授】講演禄より
4回に分けて投稿致します「第1・2・3・4部」
本日第1部

杉田定大氏
1955年生まれ、通商産業省入省

貿易協力局通商金融、経済協力課長をはじめ
中国経済産業局長などを歴任
2002年より現職

著書《「官製市場」改革》など

杉田です

日本の製造業は行き詰まり感に覆われています。

従来型のビジネスモデルは、とうに限界にきているのに
多くの企業が新しい「ビジネスモデル」を見出せずにいます。

新興国企業との物凄い、生産コスト競争による「疲弊化」も
深刻な問題となっています

トヨタが海外に生産拠点をシフトするという
情報がありますが、それに伴い国内拠点が縮小されると
系列の「下請け企業」はどうなるのでしょう

P&G、ファイザー、ミシュランなど、日本に進出している
「外国企業」の「製造拠点」や「研究拠点」も
相次いでクローズしつつあり、これでは日本の
製造業の空洞化は進む一方であります。

日本から製造業がどんどん海外にシフトしていく
背景には
「派遣労働の規制」「環境負担(co2削減目標25%)と
「法人実効税率」や「産業電力料金の高さ」といった
問題が大きく影響しているのです。

お隣の「韓国」をみれば「法人税」や「電力料金」は
日本のほぼ半分であります

日本政府は法人税を下げる事を検討しているが、
その前に「租税特別措置」が廃止か削減される
可能性の方が高いのです

「税制優遇」や「立地補助金」などの「施策」をせず
「税金は高い」「派遣労働はダメ」「co2削減は厳しい」
では、企業に日本から出て行けといっているに
等しいことなのです、 
これでは「製造優良企業」は日本になくなります。

円高の影響も小さくありません
日本企業が盛んに新興国に進出するのには「円高」の
影響を避ける為でもあるのです。

部品を日本から調達すればコストが高くつくので
「下請けも一緒に海外に出て貰う」という事になり
これでは日本の「製造業」が消えていくのも
仕方がない実情ですね

日本企業は
「固有技術で勝って事業で儲からない」という
「ジレンマ」を抱えています
「液晶パネル」然り、「太陽光発電」然りである。

新製品の「導入期」には「圧倒的な世界シェア」を
握りながら「市場拡大期」になると「シェアを急減」
させるパターンを繰り返しています

日本のメーカーグループの「DVD関連」の
「知財シェア」は「95%」もあるのに対して
「付加価値シェア」になると僅か「20%」しかないのです。

「特許」や「国際基準」を確立しても「利益」や
「市場シェア拡大」につながらない典型的な例でしょう

「家電製品」は国内の販売競争が激しいあまり、
「量販店」に価格を決められいる一面もあります

最近、家電量販店がが「生活必需品」と「パソコン」などを
セットにして「新入生パック」を売り出していますが
その冷蔵庫は中国のハイアール製であります。

学生が、4年間生活するのに高い「日本製」を
買う必要はなく「動けば良い」との考えである

以前、三洋電機が「ハイアール」と組もうとしたが、
上手く行かず、「量販店ブランド力」や「マーケティング力」が
この様なかたちで「ハイアール製品」を台頭させています。

携帯電話もLG製」が良く売れており、韓国製品を
使う事への抵抗感が日本人からなくなりつつあります

世界全体の携帯電話の市場をみると、
「サムソン20%」「LG10%」も占めているのです

サムソンには韓国国内で高く売って外国で
安く売るという戦略が見られます

最近「40数インチ」の「3Dテレビ」を「日本製品」の
ほぼ半額で売り出しました

これは初期段階で海外のマーケットを安くして
利益をとる方法でしょう。

日本企業はどうすれば良いのかを考えましょう
続きは「第2部」に投稿致します


安田紘一郎雑記帳

真山 仁氏(作家・同志社大学卒)の言を借用しました。

ビジネスマンに人気の真山氏が今もっとも気にかけているのが、
民主党政権のふがいなさだ。

「民主党は軽い言葉を発する政党。
パフォーマンスはうまいけど、中身は何もない。
耳に優しい言葉をうのみにした国民がいかにひどい目に遭うか、
この1年で分かったと思う」

パフォーマンスといえば、蓮舫参院議員(行政刷新相・42)が
目をつり上げて迫るシーンが注目された事業仕分けがある。

真山氏は短編小説集『プライド』で仕分けの
欺瞞(ぎまん)性を描いている。

「些末な事業を取り上げ、
税金を使って人民裁判のようなことをやっただけ。
長い目で見ると百害あって一利なし」

「中身のない政治」がジワジワと日本の産業をむしばむ。
例えば原子力発電所の受注競争。
昨年12月のアラブ首長国連邦(UAE)の案件で韓国に、
今年2月のベトナムの案件ではロシアに日本は敗れた。

「実績も技術もあって、負けるはずがないと
いわれていたのに負け続けている。
そもそも国家戦略として原発産業をどうするのか、
民主党にビジョンがまったくないのが問題だ」

 












なぜ有名なのか?松下村塾!松陰の魅力  第5部

2010-08-20 05:06:45 | Weblog
第5部 吉田松陰先生の魅力  海原 徹京大名誉教授講演より

「松陰」や「松下村塾」の生徒たちは「僕」と「君」を
良く使いました。 友達感覚で教えていました。

●それでは、なぜ「松下村塾」は有名なのでしょう

明治維新を支えた多くの人物が「塾生」からでています。

まず、僅かな塾生の中から「2人の総理大臣」が出ています

「伊藤博文」と「山県有朋」です
この二人の総理は「伊藤博文」は4回総理を務め「7年6ヶ月の間」
又「山県有朋」は2回総理を務め「3年6ヶ月」にわたり
「明治の日本」をリードしていきました。

それ以外に閣僚4名「前原一誠・今の防衛大臣」
「山田顕義・初代法務大臣日本大学や国学院大学の学祖」
「品川弥二郎・内務大臣」「野村 靖・逓信大臣」のど多くの
明治政府の中心人物を排出しています。

それ以外にも高級官僚や軍人12名を数え「函館戦争」までに
死んだ20名を除く「72名の中の30%以上が活躍しており
私塾としては、珍しいこととなっているのです

維新を見ずに散っていった中には
「高杉晋作・久坂玄随・吉田栄太郎・入江九一・赤弥武人」ら
凄い人材もいたのでした。

なぜ、こんな生徒が出た教育とは何で会ったのか
「松下村塾」の魅力とはなにであったのか、それは
全て「松陰先生」の魅力であったのです。

現在でも同じことですが「学校」の魅力は「先生」の魅力なのです。
私の様な教育に携っているものには大変参考になるのです。

「松陰先生」の魅力とは何か?
それは「教育癖」「教えたがり」の先生で、確固たる信念の元に
明白な「教育目的」を持っていたことでしょう

面白い話があります。
下田港で、密航で捕まって牢屋に入ってそこで教え
籐丸籠で罪人として下田街道を搬送中にも教える
そんな先生でした。

先生は「喜怒哀楽」が激しく「泣き癖」を自認して
他人を動かす前に自分で率先して動く先生でした。

先生の発言はいつも、「単純率直」で「絶賛と罵倒」が
入り交じる教育であったようです
「真心」と「童心」をもって教育すれば、誰でも必ず
動かすことが出来ると信じていたようです。

先生は常に真っ直ぐ前を見つめ、ひたすらに突き進む人で
やや、状況判断しながら進退する柔軟性は少なかったのです。
社交辞令てき配慮は全くしない松陰先生でした。

いつ、いかなる場合でもどの生徒にも「全力投球」をし
「士農工商」の差別を認めず、大人と子供、男女の誰にでも、
現在の自分の最高レベルの思いの全てをぶっつける先生でした。

入学、卒業、進級、などは関係なく、勉強をしたい人が
勝手に塾に来て、興味がなければ休めば良い、という
八方破れの授業でありました。

勿論出欠、時間割などはすべて塾生が自分で決めるのです。
何をどこまで勉強するか、教科書も塾生が自分できめるのです。

教育自体は「テキストの講義」や「字義」や解釈ではなく
討論を盛んに取り入れた会読や一人一人の対読を採用し
時々「レポート提出」もあったようです

又、異色なのは将来の軍事的行動に備えた「野外活動」や
「労作教育」も試みていました。

※松下村塾と松陰先生の教育は、近代以後に登場した
制度的学校とは対極に位置します。

その意味では最も学校らしくない学校であり、今日の我々の
学校教育は、いかに効率を高めるかに汲々とし、
絶えず分る教育に役だつ、あれこれのテクニックの発明や
改良にばかり熱心であり、子供中心をタテマエにしながら
実は驚くほど子供不在の教育の最も遠い存在の学校が
「松下村塾」であったといえます

松陰先生30年の話を90分でお話しするには
随分無理がありましたが「吉田松陰先生」と「松下村塾」に
少しでも理解をしていただければ幸甚です

有難う御座いました。

紘一郎雑記張

松下村塾で驚くことは「歴史上の人物」を多く
世に送り出した事とだけではなく、塾生の大半が
ごく普通の少年に過ぎなかった点でしょう

めまぐるしく移りいく幕末のなかで、比較的自由な
学問をする「私塾」が台頭しました。

大阪の「適塾」や九州の「威宣園(かんぎえん)」が存在し、
いずれも多くの人材を世の出していますが「松下村塾」と
決定的に違うのは「適塾」も「威宣園」も全国から秀才を
集めたのに対して「松下村塾」は「近所の少年」を集めた
だけの塾であったことでしょう。

現在の「進学校」とは全く違う学校でありました。






























松下村塾誕生!第4部 吉田松陰先生の魅力  海原 徹氏講演より 

2010-08-18 05:10:29 | Weblog
第4部 吉田松陰先生の魅力  海原 徹京大名誉教授講演より 

長州に送り返されてきた当時の「松陰先生」の評判は
「罪悪人」のイメージで決して良くなかったのです。

なにしろ「江戸」から来た「犯罪者」だからです。

しかし、「牢」から出してはどうか、の意見も多く
「藩」の苦慮して「牢」から出す理由を考えました

「牢」から出てきましたが「牢の中での教育」が
完結せずに、途中で終っていたのです

そこで「牢」の中での「孟子」の授業などを継続して
行う事を名目にして「自宅謹慎」に「藩」は切り替えたのです。

これが「松下村塾」の始まりなのです。

牢屋の授業の続きに親戚や近所の子どもたちが集まってきたました。

評判は悪いけれど「松陰」には皆、大変な興味を持っていたのです。

面白いのです。「松陰先生自体」が奇想天外の発想の持ち主で
当時の強大な力を持つ幕府に逆らって国禁を破ってまで
「密航」を企てた面白い人間なのです。

その罪悪人に一度遭いたい、顔を見てみたい、とか
ペリーの話を聞いてみたい、というような気持が
人々の間に広まり、塾に来る人が増えたのです

特に「若い人」の間で評判となっていました。
「高杉晋作」や「久坂玄随」などもその中の1人です

塾生が増えるたびに「松下村塾」の規模は大きくなり
「3畳」が「4畳」にそして「8畳」に、又「18畳」にと広くなりました

塾生も増えていき、最終的には「92名」ほど
在籍したといわれていますが、実際にはわかりません

「松下村塾」には入門講がないのです。

その理由は「松陰先生」は「牢屋」から出てきた
「罪人」なのですね

「免罪」されて出てきたのではなく「病気」という「理由」で
「牢」を出た事になっているので、正式に認められた
「塾」ではなく「入門講」など存在せず、授業も始めは
遠慮がちに「夜」の授業だけでした。

そのうちに段々と厚かましくなり、「昼」も「講義」をやり
もっと厚かましくなり、最後は「萩藩」も認める「塾」となりました

「松陰先生」の「松下村塾」が始まったのは「安政3年・3月」で
「松陰先生」が「27歳」の時でした

そして「萩藩」が「松下村塾」を正式に認めたのは
「安政5年・4月」でしたが、12月には「松陰先生」が
再度、投獄されて「塾」はつぶれてしまいます。

結果的にみてみますと「公認」された「松下村塾」は
「数ヶ月間」しかなく「入門講」などはないのです。

幕府の取締りの目を盗んでの「塾」であったのです。

萩藩が認めた期間とそれまでの「塾」の期間を
初めから全部足しても「2年10ヶ月」の学校で
「あっ」という間に消え去った「塾」なのです。

塾生の人数は、先ほどの話しましたが「92名」で
全員が揃って授業を受けたわけではなく「4~5人」単位での
授業が多く、多い時でも「10人」程度で「1人」という事も
あったと記録されています

この「松下村塾」の魅力は誰でも授業を受けられ
受けたい人だけが受けた塾でした。

今日は誰が授業にきて、誰に何を教えたかを、
明確にして一人一人、その「生徒」にあった授業をしていた事が
松陰先生の日記から良く判ります

生徒が松陰先生に「ここを教えて下さい!」と申し出て
それを先生が教えるスタイルの、生徒が納得する教育で
今の教育とは全く違う事がわかります。

塾生の身分は「侍」が「53名」で、他の「私塾」に比べて
「侍」がやたら多いのですが、当時の侍は「藩校」などに行った事や
「萩」の町に「侍」が多かったことと
「松陰先生」が武士であった事も、その理由でしょう。

他の塾生は「医者の子供」や「僧侶の子供」「町人」「百姓」
など色々な生徒が記録されています

塾生の年齢は「9歳の子供」から「36歳の大人」までがいました。
平均年齢が18,6歳で当時の「松陰先生」が27歳でしたので
「友達感覚」で教えていたのでしょう。

面白い話があります。「松陰先生」は自分を「僕」といっています
江戸時代には「僕」をほとんど使われていません

日本で始めて「僕」を使ったのは「「松陰先生」で、その影響で
「高杉晋作」も「桂小五郎」も「僕」を使いました

それでは、なぜ「松下村塾」が有名になっのでしょう

続きは「第5部」に投稿致します

紘一郎雑記張

松陰先生が安政の大獄で死罪となった原因は1854年の
「ペリー来航」にあった。ペリーは6月3日に来航した。

松陰はが江戸に入ったのは、同年の「5月24日」でした

ペリーと松陰、お互い引き寄せられた感じがします。
ペリー来航に衝撃を受けた「松陰」は、すぐさま「黒船」を
追いかけ「浦賀」まで走りました。

なにかせねば・・日本はつぶれる!の松陰の気持は
「心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」と
その高揚する気持を友人の「瀬野吉次郎」に手紙を書いています

ペリーの砲撃勧告と日本の備えをみて「勝算はなはだ少なく候」と
悔しい思い噛み締めていたのでしょう
そのことが、その後の松陰の「意見書」などになり
、行動となっいくのでした






















松蔭、師を探す!第3部・松下村塾の魅力 海原 徹氏講演より 

2010-08-16 05:03:36 | Weblog
第3部 吉田松陰先生に学ぶ  

松下村塾の魅力 海原 徹京大名誉教授講演より 

7歳に時、叔父の大助が死去したので家督を相続した
吉田松陰は猛勉強を始めました。

松陰は色々と遊学をしてお金を使っていますが
それは吉田家の蓄えと義理の母親が良い家の出であっので
そこから資金が出ていたといわれています。

松陰先生は「9歳」で毛利藩の藩校「明倫館」の
先生に成りました。
山鹿流兵学の教授をしています。

実際の教育は複数の代理人も含めて行ったそうです。
「9歳」の」子どもですから、なんでも出来たわけでは有りません

松陰は「19歳」の時に正式に「明倫館」で
「独立の師範」となります

しかし「「19歳の松陰」の塾生は少なく、がっかりした松陰は
「21歳」になった、嘉永3年「8月25日」から年末の
「12月29日」までまで九州に遊学に出かけています。

しかし九州では自分の思う先生とめぐり合えていません。
「松陰」はどうも先生にこだわり、意見が違うと
すぐ先生と別れたりして、難しい生徒であったのでしょう
九州を切り上げて、「萩に」帰りました

そして翌年の嘉永4年には(22歳)3月5日に萩を出て
4月9日まで江戸で遊学をしています

そくで、学んだ数人の師の中で、最後に、ピタッと合ったのが
「佐久間象山」でした。
佐久間象山に影響を受けた「松陰」はより一層の
行動をとるようになっていきました

その後、6月13日より22日まで房総半島の調査をしました
なぜか、松陰は兵学者ですから、攻められた時のことを考え
江戸湾の防衛を真剣に考えています。

「長州」も「何々藩」も松陰には通用しないですね
考え方の基本が「藩」ではなく「日本」にあるのですから

次は「ロシア」の艦隊が「津軽の海」きていると聴くと
次は12月14日から翌年の4月5日まで東北地方を遊歴し
無断で遊学し、その他、色々な事情もあり「脱藩」の罪で
国許に送還されています

当時は脱藩は「死罪」でしたが、裁判が行われた結果
松陰は優秀なので「死罪」はなくなり「取り潰し」に
なったようです

そして、12月9日には「脱藩」の罪で「吉田家」は
取り潰しが決定したのです。

「吉田松陰」はその時点で「浪人」となったのですね
ということは、その後の「ペりー提督艦隊」に乗り込もうとした
「松陰」は浪人中だったのです。

浪人松陰はじっとしておりません
翌年嘉永6年、24歳の松陰は1月から5月末まで
諸侯遊歴の旅に出ています

そしてその年の9月18日から長崎に行き、
丁度停泊していた「ロシア」の」船に
乗り込もうとして失敗しています。

松陰が乗り込む予定のロシアの」艦隊が4日前に
出航してという「ドジ」な話しです

当時の日本の一番の怖い国は「ロシア」でした
「アメリカ」は良く判らない国としてみていたようです。

ロシアの強大な軍事力に対してどうするかが
当時の「攘夷思想」の基本は「ロシア」にありました。

イギリスも中国をアヘン漬けにした「怖い国」でしたが
北で国境を接している「ロシア」の方が嫌でありました。

嘉永7年、25歳の松陰は「江戸」にやって参りました
そして下田に行き、3月27日下田沖に停泊中の「アメリカ艦隊」に
乗り込もうとして失敗致しました。

当然密航は「死罪」なるわけですが、
幕府は国許で「蟄居」という軽い刑を命じます
ペリー提督やアメリカに対する遠慮もあったのでしょう

蟄居は親の元で行うわけですから軽い刑ですが
まだその当時は「毛利藩」は「幕府」から
睨まれたくないとの考えから、松陰を「牢獄」に入れます

有名な「野山獄」ですね、1年間続きました
そこで「松蔭」に講義が始まりました
授業ですね

面白い話ですが「松陰」の授業を10人ほどいた囚人が聞きました
女性も1人いたそうです

3人ほどの囚人は「授業」を拒みましたが,他の7人ほどは
熱心に授業を受けていたようです

いろんな授業をしましたが、孟子の授業が多かったようです
そして「藩」もそれを聞いて「牢」から出しました

「松下村塾の始まりです! 続きは次回投稿します


紘一郎雑記張

嘉永6年、長崎で「ロシア」の艦隊に乗り込む予定が
失敗した「松陰先生」が、もし成功してロシアに
行っていたら・・
嘉永7年3月「ペリー提督」の艦隊で歓迎され
松陰先生が「アメリカ」に行っていたら・・
【その後の日本はどんな維新を迎えたのでしょう】

後の「松下村塾」は存在しない事が考えれられ
すると「桂小五郎」は「高杉晋作」など
「長州藩士」の維新人たちは、最も松陰先生の影響を
受けたといわれる「坂本龍馬」は誕生しただろうか?

又、松陰先生は「ロシア」から「アメリカ」から
何を日本に持って来ただろうか。【夢は尽きない】





























































第2部 ・松下村塾の魅力 海原 徹京大名誉教授講演より 

2010-08-13 05:23:06 | Weblog
【第2部】

松下村塾の魅力 海原 徹京大名誉教授講演より 

「NHK大河ドラマ」で、やたら走り回っている
「坂本龍馬」も勉強をしていました。

「千葉道場」で勉強していたのです。

道場では大体が午前中が学問をして午後に
剣術の稽古と決まっていたようです。

字が読めないことには「巻物」も「教書」も
理解出来ずに良い剣士にはなれません。

刀を振り回していただけでは強くなれないのでした。
ですから、龍馬も机に向かっていたのです。

道場では文科系の授業もあったのです
今で言えば「体育大学」に若干、文系の授業ある様な
若干といえば怒られますが、そんなものでした。

「龍馬」が「攘夷・攘夷」と叫んでいますが、
それは「龍馬」が勉強していた「証拠」なのです。

江戸幕末ではどの程度の学力があったのか「調査」したのが
「明治時代」の「陸軍省」でした。

「陸軍省」では、いくら、兵隊がいても「学力」がないと
使い物にならないですよね。

字が読めず、算術が出来なければ「大砲」どころか
「鉄砲」もうてないのです。
全部「計算」が必要でからです。

明治5年に日本で始めて「小学校」ができましたが
その時の就学率が出ていますが「40%」ほどですね

その当時は「師範学校」がありませんので「寺小屋」の
先生が、「小学校の先生」になりましたが
日本の学力が世界一という事が想像できるのです。

幕末の「藩校」は上級武士の子息しか入学できません。

長州でいえば「伊藤博文」も「山縣有朋」も下級武士なので
「藩校・明倫館」に入れないので、仕方なく「松下村塾」に
入ったのです。 結果的にそれが運命をきめたのです。

「松下村塾」は「松蔭先生死後」有名となり、やたらと
「松下村塾」卒業生を名乗る人がでてきて、本当の塾生の
何倍かの「塾生」がいた事になります。

調べてみたら、全く関係のない人たちが「塾生」と
言っているケースも沢山あります。

この「松下村塾」は、他の「塾」と違い「門戸開放」をし、
「縦社会」を否定し「身分差別」をしないのが特色で、
それが「松下村塾」の魅力でもあるわけです。

その当時は「藩」が基本となっての社会でしたので
異なる藩の人たちが交わる事など、無かったのです。

この様な「私塾」には「藩」の違う者同士が集まり
議論をしたことが、後の「藩」を超えた「倒幕運動」と
なって行きました。

松蔭先生のことをお話を致しましょう。

長州藩の侍で一応「中級武士」になりますが石高が
「26石」ですので、中級クラスの中の「下級武士」になります。

「26石」というのは実質手取りは「40%」ぐらいに
なりますので「10石」ほどの実入りでした。

当時は一人が「1年間」に食べる量が「1日3合」で
「1年間で1石」でしたので「10人」ぐらいの米の量でした。

松蔭の家は「10人家族」でしたので「米代」しかなく
生活は大変でした

おかずや、その他の食べ物もそこから捻出しますので
武士とはいえ、質素な生活をしていたのです。

いわゆる「庶民レバル」の生活をしていましたので、
幕末維新で行動する際に「庶民」の立場で、目線で
事を考え行動できたのでしょう。

「松陰先生」は「6歳」で養子にいって「7歳」で
養子先の伯父さんが亡くなり「当主」になりました。

続きは第3部で・・


安田紘一郎雑記帳

「松蔭先生」の子供の頃はいつも本を読んでおり
「子供の遊び・凧揚げや駒回し」などをしていません

そして「寺小屋」とか「手習い場」に通った
形跡が残っていません

天才松蔭を世に出す為には、そんな時間的余裕がなく
「父・百合の助」と「伯父の文乃進」の英才教育で
成長して行きました

他の子供達と同じペースで学んでいたのでは
とても、間に合わないと思われたのでしょう。

この二人の「師」は質実剛健をモットーとした
文武両道の人であり、学問的には保守的で
西洋の学問を嫌っていたようで「松蔭」の
その後にも、影響を与えています。



























吉田松陰・松下村塾の魅力 第1部・海原 徹京大名誉教授講演より 

2010-08-11 05:01:31 | Weblog
第1部
松下村塾の魅力 海原 徹・京大名誉教授講演より 

吉田 松陰先生に学ぶ  紘一郎雑記張

海原です、お手元に「3枚のレジュメ」がお配りしていますが
それに添いまして「90分間」お話しを申し上げます

吉田松陰先生の木像画をレジュメに入れてありますが
これは「京都大学」にあるものです。

我々の学生時代には「いつでも、どこでも」簡単に
見ることが出来て、きちんと管理されてなかっのですが
今は貴重品扱いとなっています。

春秋「2回」しか見ることが出来ません、

歴史上の人物はそういう傾向がありますが人気の波がありまして
「松陰先生」も「戦前」は「神格化」されていましたが
戦後は、その反動で「松陰先生」が「侵略戦争」のもとであるような
言われ方をし、松陰先生を勉強する物は「超右翼」と
言われたりしたものです。

それが今は「歴史ブーム」で状況が変わってきています。
京都大学の扱いも世の中の流れにあわせているのでしょう。

この「木像」が「松陰先生」に、一番似ているといわれています

それは「品川弥治郎」などが中心となって「松陰先生」を
良く知る門下生たちが、作ったといわれているからです。

皆様が良く見ている「松陰先生の画像」が多くありますが
「50歳」ぐらいの叔父さんのような「松陰画像」ですが
「30歳」で死んでいますので、叔父さんの様な画像は全て間違いですね

その横に「松下村塾」の図面がありますが「18畳」ほどの
広さですが、それは最後の方の「松下村塾」で、始めは
「4畳半」一間でありました。

その中に「仏壇」と「床の間」がありましたので
実質は「3畳半」程度しか使っていないのです。

しかし、段々塾生が増えてきたので、増築して
その図面の広さになってきたのです。
今、観光で萩にいって見る「松下村塾」は一番最後の
一番広い「つくり」の時のものなのです。

この「松下村塾」は「松陰先生」死後も「明治25年」まで
お弟子さんが引き続き、最後は「松陰先生」の
お兄さんが塾長をしていました。

明治25年頃になりますと「松下村塾」の様な「塾」が
流行らなくなり、西洋風の学校に移動していきました。

自動的に「松陰先生」のお兄さんが「塾」を
閉じたというのが真相です。

江戸時代には「松下村塾」の様な「塾」は
物凄く沢山ありました。

江戸時代の日本は「教育時代」としても有名で、
幕末に日本に来た外国人が日本人の多くが
「字」が読めることにびっくりしたようです。

その頃の西洋は「字」が読めるのは、一部の貴族だけでしたが
日本では「男4割・女1割」以上が読めたのです

なぜなら日本には「学校」が沢山あったのです。
当時の学校は【幕府の昌平校・旗本中心です、今の東大です】
【諸般藩校・300校程有りました・各藩武士の3割位が入学できました】

【教倫所は200校ぐらい有ったようです、
 「藩校」に入れない「武士」が入学しました】

【私塾は1500塾】ほどあった様です、ここで一般の庶民も入れました。
【寺小屋 15500ぐらいあり】【心学舎200校ぐらいあり】他に
【宗教の私塾】【医学私塾】【武芸塾】などがあり読み書きを
 教えていました。

この様に日本には「学ぶ」ところが多くあり当時の
世界の中で飛びぬけた学力を持っていたのです。

「長州藩」は取り分け教育に熱心でした。
「吉田松陰先生」の様な方が、教育に熱心で「侍」だけではダメで
「上級武士」から「中級・下級武士」足軽百姓まで「教育」と
全藩あげての教育で進んでいたのです。
 50万人の人口が全てが、教育を受けていたといわれています。
「老若男女」問わずの教育体制でした。

寺小屋は今の「小学校」にあたり「読み書きそろばん」を
教えていました

全国で1万数千の寺小屋あったといわれますが、
はっきりわかりません
全国では何を教えていたのか良く判りませ
なぜか?江戸時代には文部省がなかったからです

NHKの坂本龍馬はテレビでは走り回って勉強をしている
場面は、ありませんが、「龍馬」も勉強していたのです。

続きは「第2部」の投稿致します。
全てを「5部」に分けて投稿予定です

紘一郎雑記張

幕末「長州藩」には「1500」ほどの「寺小屋」があったのですが
現在の「長州・山口県」にコンビニが「427店」あるそうで
それと比較してみると、長州に、いかに「寺小屋」が
多くあったかが判りますね

あの幕末の原動力は「学問」だったのでしょう。





































千房中井政嗣社長講演より 紘一郎雑記張

2010-08-09 05:04:15 | Weblog
 第2部 大阪の笑の演芸、
 
お好み焼き・千房株式会社・中井政嗣社長講演より

そしてもう一つ大事な事は「自信」に持つことである
良く「私は自信ありません」という人がいる

その人は「自信がない」という事に「自信を持っている」のです。

小川を前にして、ある人に「飛んでごらん」と声をかけると
「飛ぶ自身がありません」とその人は答えました。

「どうしても飛べ!」と言うと、その人はしぶしぶ飛びました
すると、やはり「川の中」にはまりました。

こ時に、この人は自信を持つのですね
「だから私は飛べない!と言ったのに」となります。
でも何度も何度も挑戦させると「飛べる」様になるのです。

それは何度も挑戦して自信が出来たから飛べたのではなく
何度か挑戦したら「飛べる」自信が有ったのです。

「自分の実力」は自分が一番良く知っているといわれていますが
それは違いますね。 それは、自分で限界を決めているのです。

人の実力は”無限”なのです。
人はその環境が整えば恐ろしいほどの”実力”を発揮します

商売で考えてみましょう
良く「まけといて!」といわれて「まけときます」というのと
「おまけしときます」と言う言葉は正反対に違います。
「プラスとマイナス」の違いですね。
「プラスのサービス」と「マイナスのサービス」の違いです。

同じように「努力」にも「プラスの努力」と「マイナスの努力」
が有ります。

私は「40年間」タバコを吸い続けてきましたが
「3年ほど前」に「タバコ」をやめたのです。

「やめる」ということは「マイナス」の努力ですね
「吸わないことを始める」のは「プラス」の努力ですね

商売は「経営」ですが「お経」を「営む」と書きますね
日本の経営は西洋の経営の様に「結果」が
すべてではありません。

日本的経営は結果は出なくとも「プロセス」が大事ですね
何百年と続いている会社は、その「プロセス」を
大切にしています。

今は結果は出ていませんが、必ず出てきます!というのが
日本的経営だと思うのです。

「努力は必ず報われます」
多くの人はこの言葉を信じていませんが、必ず報われます
形を変えてでも報われるのです。

人間には「続く不安」と「続かない不安」があります。

私は日本の経済が右肩上がりで伸びている時、
物凄く不安でした。

こんな好景気が永遠と続くわけがない!と
思っていたからです。

ところが、最近、私のところに経営相談に来た方の話を
振り返ってみますと、その方は「この悪い状態」が
永遠に続くと思っているので「良い発想」も「夢」も
が出てこないのです。これでは、会社はよくなりません

「旨くいっている人」も「旨くいっていない人」も
この「状態が」は永遠に続かないと思った時に
「努力」をするのです。 それが大事なのです。

これが「続く不安」と「続かない不安」なのです。

現在、当社「千房株式会社」には「620名」の「社員」がいます。
そして、毎月の給料日には「1人1人」の給料袋に
私の手書きのメッセージを入れています。

初めてから、23年になります。 全部「毛筆」です。

毎月毎月大変ですね!といわれますが、
皆様は、毎朝、歯を磨くことが大変ですか、
私は、毎月、習慣になりましたので大変ではありません。

良いことは続けましょう、そこに実績が出来ます。
そのことが信用となって「力」がつきます。

そしてそれは「本物」になります。「本物」に」なると
「続く」のです。

「10年」続けるのは偉大です、
「20年」続けたら、それは「文化」となり「歴史」となる。

どんな些細な事でも「企業」で「20年」続いている事があれば
それは「「企業文化」なのです。

私の企業理念をお話申し上げました。有難う御座いました。


紘一郎雑記張

中井氏の話の中で「有難う」の反対語をご存知ですか
の問いがあった。

「有難う」の「反対語」は「当たり前」ということです。

朝起きて朝食を食べて学校にいく子供たち、
「ご馳走様・有難う」を言っているだろうか、
そんな事は「当たり前」と思っていないだろうか

朝、病で起きられない子もいるでしょう、
朝、食事の食べれない子も世界には沢山います。
朝、行く学校のない子も大勢います。

その子供たちのことを思うと「有難う」は
素直な言葉になるに違いない

まさに「有難う」の反対語は「当たり前」ですね。