【吉田松陰・没150年記念講演】
”松蔭とイソップ物語”講師 作家一坂太郎氏
一坂太郎です。
この伝統ある会に講師としてお招き戴き大変恐縮しております。
今回は「吉田松陰とイソップ物語」という、
一見変わった演題でお話を致します。
今年は「松蔭」が安政の大獄で亡くなってから150年、
明治の初代総理大臣「伊藤博文」がハルピンで暗殺されてから
100年の年にあたります。
この2人は「松下村塾」の師弟関係にあり「松蔭没後」の50年後に弟子の
「伊藤博文」が亡くなり、又、その亡くなった日が「伊藤博文10月26日」で
「松蔭が10月27日」の一日違いで、運命的なものを感じております。
「松蔭」の死と「博文」死の間の50年の歳月は物凄い速さで時代が変わり
日本は近代化し世界の列強の仲間入りをしたわけですが、そのヒントに
なったのが「イソップ物語」なのです。
まず「吉田松陰」の話を少し致しますと、山口県の「萩市」に「毛利藩」の
藩校であった「明倫館」の跡地に「明倫小学校」があります。
この小学校では各年(1年・2年・3年・・・)の学期ごとに「吉田松陰」の
言葉を朗唱いたします。
学期ごとですので1年で3つの「松蔭の言葉」を覚え、6年間で18の言葉を
朗唱し覚えて卒業していきます。 毎朝行われます。
例えば、直前まで幼稚園の幼児であった子が1年生になると、
「松蔭」の言葉の中から
【今日よりぞ 幼心を打ち捨てて人となりにし 道を踏めかし】
を皆で朗唱し覚えるのです。
6年生になると大変難しくなります。6年3学期では
「天地には大徳あり、君父には至恩あり、徳に報ゆるに心をもってし
恩を復すに身をもってす、此の事終えざれば 此の身息まず・・」を
完全に覚え、卒業式でこれをやり皆で感動し涙して巣立って行きます。
このように、没後150年「吉田松陰」はいまだに長州に生き続けているのです。
その「松蔭」が処刑されたのは、当時の幕府の外交政策「砲艦外交」に
批判的であったからです。
1854年の「和親条約」には猛反対でした。
「松蔭」は【東洋の道徳と西洋の芸術・技術】が
これからの日本の進む道であると確信していたようです。
西洋の道徳は強いものを賞賛する道徳であり、日本人には合わないと思う、
日本は儒教の精神をもった道徳でいくべきであると考えていました。
そして優れたものを持っている「西洋の芸・技術」を理解し学ぶ為に
密航を企てて、つかまり「長州・萩」に送りかえされ「松下村塾」へと
進んでいきます。
なぜ「松蔭」は「西洋の道徳」が日本に合わない事を知っていたのか、
なにで知ったのか、それが「イソップ物語」を読み理解していたからです。
イソップ物語はご承知のように、紀元前600年ごろのギリシャ人の
イソップさんが創った寓話ですが、このイソップさんは生涯を奴隷として
生きた人ですね。 その寓話がヨーロッパで広まり、日本にも戦国時代の
1593年「関が原の戦い」の7年前に天草から入ってきました。
江戸時代には絵草紙として語り続けられたのです。
「松蔭」はイソップ物語の中で「馬鹿同遊」という物語から
「西洋の道徳」を理解します。
話は
【草原で馬が遊んでいると、鹿が割り込んできて、
馬の食べ物を食べてしまいます。
困った馬は人間に助けを求め鹿を追い払ってもらいました。
馬が人に礼をいい立ち去ろうとしますと、
人間は馬を引きとめそのまま家畜としてしまいました】
「松蔭」はこの寓話の中から「日本が馬」に見えたのでしょう。
「鹿がアメリカやイギリス、ロシア、そしてフランス」と考えました
これが西洋の道徳で日本には向かないと強く感じたのです。
それ以後も、知人の山縣半蔵より「イソップ73話」を借り受け
熟読しなおさら西洋の道徳に不信感を持ちました。
特に他の寓話の中でも「アリとキリギリス」に不信感をもったようですね。
イソップ物語を読めば読むほど西洋人の価値感や道徳感がよくわかり
東洋とは違うのです。
今、幕府が行っている「外交」は大失敗で、このまま行けば日本は
インドや中国など他の東洋の国のように西洋の食い物にされてしまうとの
危機感があり、その後の「松蔭」の行動となったのでしょう。
このように「イソップ物語」がもたらした教訓は
「松蔭」やその後日本の有様に大きく影響を与えました。
一坂先生講演会より
紘一郎感想
久坂玄随・高杉晋作・伊藤博文など門下生から始まり
「塾生」でない「坂本龍馬」まで」多くの偉人たちに
語り続けられた「松蔭先生の教え」は「松下村塾」なくても
「松蔭先生の志」は健在で「吉田松陰はまだ生きている!」
”松蔭とイソップ物語”講師 作家一坂太郎氏
一坂太郎です。
この伝統ある会に講師としてお招き戴き大変恐縮しております。
今回は「吉田松陰とイソップ物語」という、
一見変わった演題でお話を致します。
今年は「松蔭」が安政の大獄で亡くなってから150年、
明治の初代総理大臣「伊藤博文」がハルピンで暗殺されてから
100年の年にあたります。
この2人は「松下村塾」の師弟関係にあり「松蔭没後」の50年後に弟子の
「伊藤博文」が亡くなり、又、その亡くなった日が「伊藤博文10月26日」で
「松蔭が10月27日」の一日違いで、運命的なものを感じております。
「松蔭」の死と「博文」死の間の50年の歳月は物凄い速さで時代が変わり
日本は近代化し世界の列強の仲間入りをしたわけですが、そのヒントに
なったのが「イソップ物語」なのです。
まず「吉田松陰」の話を少し致しますと、山口県の「萩市」に「毛利藩」の
藩校であった「明倫館」の跡地に「明倫小学校」があります。
この小学校では各年(1年・2年・3年・・・)の学期ごとに「吉田松陰」の
言葉を朗唱いたします。
学期ごとですので1年で3つの「松蔭の言葉」を覚え、6年間で18の言葉を
朗唱し覚えて卒業していきます。 毎朝行われます。
例えば、直前まで幼稚園の幼児であった子が1年生になると、
「松蔭」の言葉の中から
【今日よりぞ 幼心を打ち捨てて人となりにし 道を踏めかし】
を皆で朗唱し覚えるのです。
6年生になると大変難しくなります。6年3学期では
「天地には大徳あり、君父には至恩あり、徳に報ゆるに心をもってし
恩を復すに身をもってす、此の事終えざれば 此の身息まず・・」を
完全に覚え、卒業式でこれをやり皆で感動し涙して巣立って行きます。
このように、没後150年「吉田松陰」はいまだに長州に生き続けているのです。
その「松蔭」が処刑されたのは、当時の幕府の外交政策「砲艦外交」に
批判的であったからです。
1854年の「和親条約」には猛反対でした。
「松蔭」は【東洋の道徳と西洋の芸術・技術】が
これからの日本の進む道であると確信していたようです。
西洋の道徳は強いものを賞賛する道徳であり、日本人には合わないと思う、
日本は儒教の精神をもった道徳でいくべきであると考えていました。
そして優れたものを持っている「西洋の芸・技術」を理解し学ぶ為に
密航を企てて、つかまり「長州・萩」に送りかえされ「松下村塾」へと
進んでいきます。
なぜ「松蔭」は「西洋の道徳」が日本に合わない事を知っていたのか、
なにで知ったのか、それが「イソップ物語」を読み理解していたからです。
イソップ物語はご承知のように、紀元前600年ごろのギリシャ人の
イソップさんが創った寓話ですが、このイソップさんは生涯を奴隷として
生きた人ですね。 その寓話がヨーロッパで広まり、日本にも戦国時代の
1593年「関が原の戦い」の7年前に天草から入ってきました。
江戸時代には絵草紙として語り続けられたのです。
「松蔭」はイソップ物語の中で「馬鹿同遊」という物語から
「西洋の道徳」を理解します。
話は
【草原で馬が遊んでいると、鹿が割り込んできて、
馬の食べ物を食べてしまいます。
困った馬は人間に助けを求め鹿を追い払ってもらいました。
馬が人に礼をいい立ち去ろうとしますと、
人間は馬を引きとめそのまま家畜としてしまいました】
「松蔭」はこの寓話の中から「日本が馬」に見えたのでしょう。
「鹿がアメリカやイギリス、ロシア、そしてフランス」と考えました
これが西洋の道徳で日本には向かないと強く感じたのです。
それ以後も、知人の山縣半蔵より「イソップ73話」を借り受け
熟読しなおさら西洋の道徳に不信感を持ちました。
特に他の寓話の中でも「アリとキリギリス」に不信感をもったようですね。
イソップ物語を読めば読むほど西洋人の価値感や道徳感がよくわかり
東洋とは違うのです。
今、幕府が行っている「外交」は大失敗で、このまま行けば日本は
インドや中国など他の東洋の国のように西洋の食い物にされてしまうとの
危機感があり、その後の「松蔭」の行動となったのでしょう。
このように「イソップ物語」がもたらした教訓は
「松蔭」やその後日本の有様に大きく影響を与えました。
一坂先生講演会より
紘一郎感想
久坂玄随・高杉晋作・伊藤博文など門下生から始まり
「塾生」でない「坂本龍馬」まで」多くの偉人たちに
語り続けられた「松蔭先生の教え」は「松下村塾」なくても
「松蔭先生の志」は健在で「吉田松陰はまだ生きている!」